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◆ 「金融史がわかれば世界がわかる」

◆ 日本の金融力の実像

今月上旬に、筑摩書房から「金融史がわかれば世界がわかるー『金融力』とは何か」と題する新書を上梓した。今回のテーマは、少し歴史を遡って金融ビジネスや国際金融体制を捉えてみようとするものである。本書の原題は「金融力の現代史」であったが、売れそうもないので、書店がReader Friendlyなタイトルに変更したようだ。

本書でいう歴史とはせいぜい19世紀以降の話であり、貿易金融や資本取引における元祖金融機関の役割、金本位制からブレトンウッズ体制や変動相場制に移行する為替システム、資本市場における金融技術の発展などのトピックスを通じて、経済力ならぬ金融力がどのように英国や米国の金融覇権を支えてきたか鳥瞰しようとしたものである。その文脈に沿って、現在のユーロの台頭や今後のアジアでの金融市場の行方にも敷衍した。

筆者の前著「金融市場は謎だらけ」が日経BP社から出版されたのは2002年5月であるが、その当時はまさに不良債権問題がピークを迎え、銀行経営問題が毎日のようにマスコミを賑わせていた時期である。そうした世相を反映してか、金融取引の時価概念について解説した同書は朝日新聞や日経新聞などで何度か取り上げられ、論壇誌も好意的な書評を掲載してくれた。

あれから2年半、世間は変われば変わったものである。政府の強い資金サポートのもとで銀行の自己資本問題は忘れ去られ、驚くほどに寛大な債権放棄政策によって巨額の不良債権は消し込まれた(企業は必ずしも消し込まれた、とは言えないが)。更には中国特需や強靭な米国経済のもと、貿易日本の面目躍如でハイテク関連の中小企業は息を吹き返して業績が回復する中、多くの企業は有利子負債の返済に励んでいる。筆者が当時、必死に主張した時価概念の必要性は、ほとんど忘れ去られた感がある。

こうした流れの中で筆者は、日本の「金融力」は、欧米市場で実際に肌で学んできた英国や米国の金融力とは、全く異質であることを遅まきながら学ぶこととなった。海外がXXであるから日本も早晩XXとなるだろうとの認識は、金融においてはあまりにナイーブであったことを思い知らされたのである。まさに金融システムは歴史観を色濃く反映せざるを得ないものなのである。

筆者だけではない。欧米の資産運用ビジネスも同じ過ちを犯した。「日本の個人資産のうち780兆円も預金に眠っているのはおかしい」「株式運用の比率が低いのはおかしい」と言って日本に進出した外資系の多くは討ち死にした。また投資銀行の経営者やアナリスト、そして学者や評論家もこぞって「GDP世界第二位の国の直接金融市場がこんな状況で良い訳が無い」「ジャンク市場がなければ経済は活性化しない」と言い続けたが、実態は何も変わっていない。

時価問題も似たようなものであった。不良債権はともかくとして、優良債権に関する時価への問題意識のレベルは、5年前と殆ど変わっていない。時価を定着させようとする勢いは、むしろ弱体化している気配さえある。一部には、LPCの東京上陸などシ・ローン市場の盛り上がりに期待を寄せる向きもあるようだが、筆者は敢えて傍観姿勢を取っている。

日本の金融力とは政府が支配するものであって、必ずしも市場が練り上げるものとは期待されていないことが判明した今、むしろ筆者の興味は、こうした特殊な金融力を前提に、日本は国際的な政治経済環境の中でどのような方向付けを余儀なくされるのか、に絞られてきた。それが、今回の書物に流れる問題意識である。

◆ 英国、米国、そして多極化

本書では、金融力を解剖するためにまず英国がどのように覇権を築いたのか、からスタートしてみることにした。意識したのは1850年に英国で開催された万国博覧会である。今は火災で跡形もなくなってしまった会場のCrystal Palaceは、昔住んでいた家の近くでもある。そこで圧倒的な経済パワーを見せ付けた英国は、貿易、ポンド、海軍という三点セットで世界の覇権を握ったのであった。

そして世界大戦を契機とするポンドの凋落とドルの台頭という通貨体制の揺らぎは、政治経済的な覇権が大西洋を越えて西方へ移動するのを促した。その覇権移動と金融力の変質との時期的な一致が、様々な意味で米国の果てしない巨大化をもたらしたというのが筆者なりの相場観である。

金融力の構成要素は、貿易金融から資本取引への時代の変遷に伴って、大きく変貌した。短期金融市場や資金決済機能だけでなく、資本市場とその自発的拡大を促す金融技術、そしてそのインフラを資金と心理の両面で支える金融政策、更には自由競争を大前提とする企業経済といった要因が、すべて米国において育成され、成熟していった。

こうした背景が、何度も崩れかかっては持ち直す米国の金融覇権の根底にある。日本やドイツには、工業生産力はあったが、金融力は乏しかった。財政赤字の懸念は、新しい問題ではない。ベトナム戦争の泥沼化からイラク戦争の混乱まで、米国財政の不健全さは30年来の問題である。米国への資金流入の先細りの懸念が定期的に高まるものの、それは破局に繋がったことはない。それは相対的に米国の金融力が高かったからである。

◆ 欧州の復権とユーロ

確かに米国の金融力に互角に対抗しうるものはまだないが、ここ数年ユーロがその対抗勢力として大きな存在感を示している。ユーロに対してはまだ懐疑的な見方も強く、また経済力の低迷や弱小国の加盟による通貨の相対的弱体化への懸念を示す向きもある。欧州各国内の政治的な駆け引きが、本来の目的である経済的安定成長を阻害しているという皮肉な見方もある。

だが、ユーロの利用度という点で見ればその台頭は目覚しい。金利スワップ市場では2002年12月時点で既にドルの残高を追い抜き(ユーロ37.8%、ドル33.8%)、2004年6月にはその差を大きく広げている(ユーロ44.9%、ドル37.1%)。また国際証券発行では2003年にユーロがドルを追い抜き、本年第3四半期ではほぼ50%近くをユーロが占めている。更には第三国による証券発行での通貨シェアも本年はユーロがドルを追い抜いた。(いずれもBIS Reviewより)。

また、よく知られるようにユーロ圏での社債市場、銀行ローン市場、CDS市場の流動性の高まりは、米国の金融力に迫るものがある。ジャンク市場や株式市場の厚さではまだ米国に遠く及ばないものの、先物などを取り扱う欧州取引所の米国攻勢やHSBCなど欧州系金融機関の米国進撃は、欧州の復権を感じさせないでもない。それは、やや抽象的ながらも、ユーロの金融力の高まりと無縁ではないように思える。

ユーロの実力は為替市場においてやや過大評価されている、との見方があるのは事実である。だが本来通貨の強弱は相対的な問題でしかなく、金融覇権の観点からすれば、買われたユーロがどういう形でユーロとして定着するのかが問題となる。それが資本の形で企業金融に浸透するのか、預金のまま為替での利食いを待つだけなのか、という問題である。その点では、昨今のユーロ高で流入したユーロが、欧州にて資本化しているかどうかはたしかにまだ疑わしい。日本円に関してはなおさらである。

しかし、ドルの一極化が崩れつつあるのもまた看過し得ぬ事実であろう。今回のドル安が以前と比べてやや異なるのは、ドル安が国際政治における米国一極主義への批判の高まりと歩調を合わせているように感じられることだ。2001年の9・11以降、世界はゆっくりと多様化社会に向かい始めている。そのシルエットが為替市場にも映し出されているのではないか。今回のドル安を、双子の赤字のコンテクストだけで捉えては、世界の趨勢を読み違えるかもしれない。

◆ アジアと日本

そうしたドルとユーロの金融力二極化の中で、アジアの金融像は実に読み取りにくい。円の国際化は事実上挫折しており、また共通通貨構想も数十年単位で見ても殆ど実現不能である。ここは、ドルとユーロ、円、そして将来的には人民元が乱れ飛ぶ市場となりかねない。そうした不安定な通貨制度のもとで、アジア経済の基盤となる資本市場が成熟するかどうかは疑問である。

日本の突出した経済力と資金力は、良くも悪くも自己完結的な独自の金融インフラを形成してしまった。不良債権処理を契機として日本の金融が外向きのベクトルを喪失したことも影響しているだろうが、それに加えて、民間の活力消耗により公的システムに依存する金融制度が再構築されたことが大きい。だがその独特の金融システムは、如何に国内で効率的に見えようとも、輸出することは不可能である。

日本の現在の金融力を以ってアジアの資本市場を語ることは出来ないし、人民元にまだその力はない。結局、ドルとユーロを二大通貨とする国際金融体制が、アジアにも浸透するのを黙って見ているしかないのが現実かもしれない。現代金融力の大きな要素である時価概念なしに、資本取引時代において世界規模で縄張りを争うことは不可能だからである。

敢えて言えば、ユーロとドルを資本通貨、投資通貨と考える資本市場を、日本のオフショア市場として構築してしまうのが、日本が取り得る一つの策である。もっとも、これは既に随所で何回も述べたので繰り返さない。

日本に金融力の構成要素が無い訳ではない。むしろ、人的資源も市場インフラも、そして技術水準も卓越した水準を擁している。ただ、悲しいかな、それらの要素を編集する力と、大切な時価概念に欠けていた。それなしに経済を復活させたという意味で、やはり欧米とは違うこの国ならではの金融スタイルの特徴を浮き彫りにしている。

実は本書に結論はなく、金融力とは何かを問いかけて、欧州と米国が再度金融覇権を巡って拮抗する可能性を述べたに止まる。日本の金融将来像については白紙だ。現在の金融力では、とてもそのスコープに入ってこないからだ。金融当局は、国際舞台に再デビューする巨大な金融機関を再編したいと願っていると聞くが、足元の市場で金融力を養うこと無しにそれを具現化することは難しかろう。金融力とは何か。我々は本年、その意味をじっくり再考する必要があると思う。それが本書の真のメッセージである。

2005年01月14日(第090号)