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◆ 「資本の帝国」を読む

◆ 市場機能の歴史

金融ビジネスや金融市場の誕生を探るというのは、アカデミズムではあまり流行らない。それは、恐らく資本主義の歴史を学ぶという王道がどっかりと築かれていて、その引込み線のような金融史は、恐慌とかハイパーインフレといった事象が生まれる時にしか光が当たってこなかったからだろう。象牙の塔に金融の歴史に詳しい人が少ないのは、それだけが理由ではなかろうが、経済史からはみ出した金融史が傍流に置かれていることと無縁ではなさそうだ。

だが、逆に金融世界にどっぷり浸った人間として、資本主義の変遷の意味を理解しているかと問われれば、自信を持って答えられないのが正直なところだ。そのダイナミズムの大まかな推移くらいは解るが、社会体制の変遷と交わる資本主義の歴史や構造問題まで押さえ込んでいる訳ではない。それに、資本主義の歴史となるとマルクス史観を完全に避けて学ぶのはとても難しい。金融史を資本主義とともに語ろうとすれば、市場とは何か、自由とは何か、といった原点から説かねばならなくなる。

市場とは、まさに現代資本主義の中核をなすものであり、自由とはまさにブッシュ大統領が一般教書で声を張り上げた社会理念である。我々にとっては双方共に既知のものだが、それがどうやって獲得されたのかを知らなければ、本来的な「自由で競争的な市場」の意味を理解できないのではないかと最近思うようになった。その意味でも市場と資本主義の関係を意識し、再確認しておくことは、決して損ではないように思える。

だが、市場は資本主義以前にも存在していたのであり、市場は現代社会や資本主義に特有なものではない。現代中国を見るまでもなく、社会主義国が市場原理を導入することは可能である。故網野善彦氏は、虹の立つ彼岸の接点たる場所に人々が集まって売買が成立したという特殊な場としての「中世の市場」を描いているが、室町時代における市場の発展や、それに続く楽市・楽座も、原始市場機能として注目に値しよう。だがその市場は、資本主義時代の市場とは大きく異なるものであった。

欧米でも、軍事、政治そして経済が一体化していた前資本主義時代では、市場には農民が余剰作物を売ったり、その資金で商品を買ったりする機能はあったが、市場自体に何かを生む「力」も「メカニズム」も無かった。その市場が、資本主義の時代には独自の「力」をもつようになり、社会関係は「市場の法則」という非人称的なもので規定されるようになり、現在に至る。

マルクス主義者ではあるが、市場の機能を重視して資本主義と帝国主義の歴史を分析するエレン・ウッドの「資本の帝国」(紀伊国屋書店)は、そのように資本主義前後の市場の存在感を「法則」或いは「規則」といった言葉で描写している。同書は、現代の世界的な資本主義の広がりは、国境無きグローバリズムといった非国家論を演繹するものではなく、以前にもまして国民国家の重要性を浮き彫りにする新しい帝国主義を形作るものだとやや逆説的な見方を披露し、その市場発展の議論に一石を投じている。

それは、昨年話題を撒いたハートとネグリの分厚い共著「帝国」(以分社)が、現代のグローバリズムの中で国民国家の役割が低下している、と主張したことへのアンチテーゼにもなっている。グローバルに広がる資本主義は、決して国民国家の意義を希薄化しない。それどころか、資本主義或いはグローバルな市場機能は、ますます国民国家を必要としている、という主張である。

◆ 資本が抱える市場的矛盾

この本は、資本主義世界を国家と資本との経済外的関係に基づいて論じているのが特徴だ。封建制の下では、国家は軍事的な強制力で経済を支配する。資本主義の下では、国家と資本は一定の距離を置き、社会秩序を維持する。逆に言えば、資本主義においてはその無政府主義的な市場の法則が、社会秩序を撹乱する可能性がある。そのため、国民国家は金融市場の機能を含めた緻密な制度設計を行い、社会の安定性とその予見可能性を保とうとしたと見る。

これを16世紀以降に巧妙に仕上げたのが英国である。そして産業革命以降、植民地戦略を展開する中で、市場が存在しない場合には市場の強制力を導入していく。そうすることによって、以前は軍事力でしか開拓できなかった広範囲にわたる地理的な経済圏を、資本と市場の力で「占領」することが可能となる。現代のグローバル経済は、この延長にあるという見方である。

そこには、支配する国民国家、従属する国民国家という構造が現れる。古くは植民地征服という形式で、そして現代では市場機能の操作という形式で、強国は支配を広げてきた。ウッドはマルクス主義者らしくその国民国家構造が「労働者を市場に依存させ続けている」と表現しているが、市場に依存してきたのは労働者だけではない。経営者も資本家も同じように、市場機能無しには生きていけない時代である。

つまり、金融機能や市場機能を、その安定性の予見のために内装する国民国家こそが、現代のグローバル経済を支える装置(或いはインフラ)であるということだ。著者のウッドは、資本の経済的な権力と、国民国家の経済外的な掌握力とが分離したからこそ、資本は止め処も無い拡張が(つまりグローバル化が)可能になった反面、資本主義は国民国家の支えなくしてはそれ以上の発展も出来なくなるという矛盾を抱え込んだ、と述べる。

本書をマネタリー・アフェアーズで取り上げた理由は、資本主義が普遍的なシステムとして世界に浸透する中で、「市場が下す命令や規則」を、経済外的な国民国家の力で支えなければ資本主義はその原動力を維持することが出来ない、というウッドの主張が気になったからである。資本は国家と切り離されて拡大しながら、むしろその拡張のために国家に頼らざるを得なくなっている、という描写は、何かしら昨今の日本の経済・金融システムが抱える課題を思わせるからである。

◆ 国家に依存する資本主義像

もちろん、この本の主題が日本ではなく、現代の超大国である米国を念頭に置いて設定されたものであることは論を待たない。ブッシュ政権の対外政策の本質たる「グローバルな資本主義に基づく新帝国主義」では、資本と分離したはずの国民国家がその構造を支えざるを得ない。そして封建時代に遡るかのように、強大な軍事力がその道具に利用されている。

余談ではあるが、金融力が軍事力と同じような威力を持つことも忘れてはなるまい。ドルの世界的なファイナンス力は、やや陰りが見え始めたのは事実であるが、現実にはまだユーロの及ばぬところである。ドルは、米国資本主義の源泉でもあるが、一方で世界にまたがる資本市場を形作っている。米国の現代グローバリズムを、国家と資本の分離、そしてそのギャップの埋め方という座標で見る際にも、軍事力に加えてドルの市場機能を忘れてはならないだろう。

さて、ウッドが述べた「資本も国家に頼らざるを得ない」というフレーズは、米国と全く違う意味で、日本が社会主義的資本主義という奇妙な体制として論評され続けてきた屋台骨を連想させる。一つには公的資金に頼らざるを得なくなった金融システムであり、また産業再生機構のような国家機能に調整を依存せざるを得なかった硬直的債権関係であり、大量の国債無しに運用が出来なくなった機関投資家の姿である。

個人もまた同じように、リスクフリーを求めて郵便貯金や国債に寄り掛かる。だが皮肉にもそれは国家財政には不可欠な行動原理となっている。この構造を温存せざるを得ない中での郵政改革など茶番であることは周知の事実であるが、民間のリスクフリーへの要求が国家財政を支える構造は崩れそうにない。さらに危機対応でやむを得ず導入された巨額の当座預金残高、保証協会の特別保証、役割の不明瞭な金融大臣、肥大化する政府系金融機関といったいわゆる平時の不要物が一向に消える気配がないことも、資本が国家を頼りにする甘えの構造の顛末と言えなくもない。

運用の商品設計にも、「保証」の二文字が無ければ話にならない時代だ。俗に言われるリスクテイカー不在の現象は、リスクフリーが余剰価値を生む(論理矛盾だが、現実矛盾していないのが日本である)ことに慣れてしまった社会では当然の結末であろう。況や、リスクフリーが利益を生んで何が悪いとお説教される時代であり、もはや金融言論の成立つ余地は無くなりつつある。

日本では、欧米と違って、国家と資本の分離があいまいなまま、資本主義の導入を図った。従って、著者ウッドが見るような資本主義の矛盾は、日本では生じていないように思える。むしろ結合したまま発展してきた国家と資本とを、無理やり分離させようとする潮流に対して昨今摩擦が生じ、日本独特の苦しみを味わっているようにも見える。民間金融と公的金融の垣根の議論が本音で起こりにくいのは、そうした歴史が深く影響しているのではないか。

筆者は国家と資本の分離に反対している訳ではない。むしろ、資本や市場の論理と国家の論理は、相対立するものだと考えざるを得ない。だが、市場が国家を牽制し、国家は市場の規律を監視するという関係を築くことは難しくない。その資本主義的な関係を確立するために、市場機能はもっと研ぎ澄まされる必要がある。だが、現在目にしているのは、ドメスティック化の加速により、国内に凝縮する資本が国民国家と異様に接近し、ますます固定的に奇形化する金融像なのである。

2005年03月11日(第094号)