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◆ 「通貨燃ゆ」に見る通貨と資本市場問題

◆ 為替、通貨、国際金融

金融市場といえば、為替と株式、そして金利を思い浮かべる。信用リスクは通常、金利という大きな風呂敷で括られる。同じ市場ではあるが、通貨から退場宣告を受けた金や、希少価値として今や金を凌ぐ原油などの商品市場がある。商品市場はいま、為替をその一部として、否金融市場への橋渡し商品として捉え始めている。

為替は、確かに金融の側面と商品の側面の二面性をもつ。貿易決済や資本取引の尻として欠かせない金融取引としての性格と、短期的な投機に最適なその商品性は、現実世界に他に例を見ない「優れた市場性知的財産」である。

この知的財産がどのように生まれ、育ち、汚され、蘇ってきたか、その生い立ちは拙書「金融史がわかれば世界がわかる」の中である程度描写したのでここでは反復しない。だが、その知性の集積が、為替と呼ばれる時、通貨と称せられる時、そして国際金融として語られる時に見せる表情の違いは、この比類ない商品の多様性を余すことなく物語る。その不思議な世界を、熟練ジャーナリストの包丁捌きと味付けで「えいやあ」っと料理したのが盟友谷口智彦氏 の新著「通貨燃ゆ」(日本経済新聞社)である。

お断りしておくが、この通貨論は金融の基礎など凡そ解っていると通常の感覚で読むと消化不良を起こす。敢えてこの書を卑近な例で評せば、活きの良すぎる鰯の如きである。噛み砕いて食べられそうだと思った小骨が、想像以上に硬くて引っ掛かり、何度か真剣に咀嚼しないと次に進めない。それほど骨太の素材が至る所に鏤められている、読み手には思いのほか厳しい書物である。

この書物は、一言で言えば政治権力を主要パラメータとしてみる通貨論であり、その意味では、背骨の構造は解り易い。だがそこから縦横無尽に伸びる多種多様なポリティカル・エコノミーの話題の数々は、やや散漫に思える箇所がない訳ではないが、為替或いは通貨の国際金融としての本質を抉り出すための貴重な題材として興味深い。ページをめくりながら、金融市場の閉じた世界で育ってきた筆者のような人間にとっては存外知らなかったことが多いものだ、と感服することも多かった。

◆ 権力と通貨制度

本書に挙げられているテーマは、筆者なりに大別すれば大方の読者にとって馴染みの深いドルの金兌換停止、ブレトン・ウッズ体制、そしてユーロ問題といった幹の部分と、人民元やグルジア、ジブチなど周辺通貨に関する小枝の部分に分けられる(人民元はもはや小枝というには相応しくないかもしれないが)。

それぞれのテーマを貫く本書の視点は、前述の通り政治権力そのものであり、ひいては通貨問題を見る目が日本の政治家、経営者、金融業界に決定的に欠けていることを指摘している。それは、1971年の終戦記念日に宣言されたニクソン・ショックの本質を的確に見抜けなかったという、20世紀末に日本を覆う「マネー敗戦」の序曲を奏でるものだ。

ユーロにおける英国の立場を、日本は熟解すべきであるというのも全く同感である。日本の経済力から円の国際化が自動的に演繹されるという夢が、政治と通貨とが密接な干渉関係にあるという認識を欠いた、ナイーブな幻想に過ぎないという指摘もその通りであろう。

そして、米国がその「基軸通貨の耐久力をぎりぎりにまで試そうとしている」として、現在のブッシュ政権の下で正念場を迎えたドルと米国の覇権システムを描写する。ドルが暴落するのかしないかの議論に立ち入ることなく、暗に、日本が今何を利益と考えて行動すべきかを問うている訳だ。

個人的には、第三章の「通貨と通貨が戦うとき」に示された、歴史から零れ落ちた通貨の話にとても興味を持った。中でも、グルジアのドル傾斜に見る米国のユーラシア戦略、第二次大戦直前の通貨戦争などは、全く知らなかった史実であり、歴史的事象の裏で暗躍する通貨の役割が浮き彫りになって刺激的である。通貨と権力がコインの裏表であることを、如実に示す逸話であろう。また中国共産党を通じて人民元を観察するくだりは、谷口氏の上海滞在時代の豊富な情報蓄積が縦横無尽に盛り込まれていて、掛け値なしに面白い。

◆ 日本の通貨論と米国の通貨論

確かに、通貨は権力によって利用される。それを知りながら(或いは気付かないで?)通貨を巡る駆け引きに、日本はなす術を知らなかった。だがそう言うと反論もあるだろう。英国が通貨覇権を握って以来、国際通貨制度とはアングロサクソンの問題であり、日本に発言力など皆無であったからである。もう一つの経済大国ドイツも通貨問題では翻弄され続け、結局は「最強通貨」を放棄してユーロに埋没するという運命に従ったとも言える。国際金融の世界では、日本円など「推して知るべし」の存在である。

谷口氏は、様々な資料をもとに、1971年のドルの金兌換停止は、十分に予測可能であったと仄めかしている。事実そうであったとしても、日本はどう対応しえたであろうか。当時、日本の政治は輸出産業をいかに守るか、という視点しかなかった。だからこそ、ドルの兌換性停止よりも10%の輸入課徴金の方に目を奪われたのであろう。1973年に変動制に移行した際に、大蔵省が徹底してドルを買い支えたのも、国際政治的な無知というよりもひとえに輸出業界を助けるためだった、と当時の東銀の幹部は語っている。

これは、日本が通貨を国際金融ではなく、為替という側面でしか捉えられない政治的立場に置かれていたことを示すものだろう。つまり、日本の通貨論と米国の通貨論とは、宿命的にその座標軸が決定的に違うのである。それは、日米の資本市場観にも大きく影響しているのではないか、というのが谷口氏の書を読み終えた際の実感であった。

◆ 資本市場と政治力

戦後を通じて、経済力を回復させることが日本の悲願であったことを考えれば、通貨問題はそのための方策に過ぎなかったことも容易に推測される。そして、資本市場もまた、日本の国力回復や産業復興のためのものでなければならなかったのである。それが、米国の市場の姿と大きく異なるものであったことは、言わば自然の成り行きと言えるかもしれない。

乏しい資金を集めて資本化する金融システム、信頼できる仲間うちで経営を固めるグループ産業、負債を擬似的な資本として活用するバランスシートなど、これらが奇跡的な高度成長を支えた真の原動力であったと仮定するならば、欧米観から見れば歪んだ資本市場構造ではあっても、日本にとって必須のインフラであった。

そうした旧来のシステムを変化させるのに、日本は確かに手間取っている。銀行経営だけでなく大手証券や保険の経営も、欠伸が出そうなほど変化しない。束の間の小康状態に、変化の不必要性が定着してきたからである。ライブドアの投じた一石への大方の反応に、日本沈没とまで危機感を募らせていたあの数年前の世相からの、明らかな反動を見て取れる。何をモデルとすべきかの、方向性が定まらないからである。

谷口氏が、通貨政策に外交・安全保障の視点が必要だと述べるのと同じように、いま株式、社債、銀行融資などの資本市場にも、将来を見据えた、国益を意識したグランドデザインが問われている。だが、大蔵省時代の円国際化議論はファンタジー的或いは没論理的であったと明快に退ける同氏でさえ、中国の台頭によるアジア通貨の再編の可能性に対して、今後どう対応すべきかの議論には踏み込めていないように見受けられる。

それと同じように、資本市場の行く先も米国追随型で良いのかどうか、誰にも明確に設計図が書けていない。金融庁のプログラムには、資本主義と資本市場というマクロな視点が完全に抜け落ちている。日銀の考査方針の変更は、ポスト不良債権時代を明確に語りながらもその監督座標の見取り図は心許ない。

通貨と資本市場という重大な金融問題のいずれの点においても、日本の進路を薄っぺらなリベラルでなく、骨太に語る識者がいないという深刻な弱点が浮き彫りになりつつあるのではないか。谷口氏の言にも、多々そうした主張が織り込まれているような気がしてならない。

2005年04月22日(第097号)