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◆ 金融コングロマリットは必然プロセスか

◆ 金融コングロマリットとは何か

金融改革プログラムにおいて「金融コングロマリット」なる言葉が提起され、一躍ポスト不良債権時代のキーワードに座った感がある。その言葉には、これまで不振に喘いできた日本の金融が漸く飛躍の時期を迎えたという前向きな気持ちが込められていると同時に、収益力強化と印象度改善のために何か大きな題目を掲げる必要があるといった金融当局の焦燥も滲み出しているかのようである。

確かに2005年3月期の銀行決算は不良債権時代の真の終焉を告げるものであり、政治家も相次いで金融界が国際競争力のある「未来志向」で臨んで欲しい、とエールを送った。シンジケート・ローンへの積極対応や、投信販売など手数料商売への取り組みも盛んである。「普通の国」ならぬ「普通の銀行」に戻りつつある邦銀に、公的資金の完済のみならず、金融機能や存在感の復活へ期待が寄せられるのは当然であろう。そこに、漠たるイメージとして「メガバンク」なる代名詞に相応しい、欧米の巨大金融機関に匹敵する金融像を求める声が上がる。

だが海外に眼を向ければ、90年代にあれだけ「ワンストップ・ショッピング」を叫び続けて拡張路線に生存原理を求めた大手米銀ですら、もはや品揃えとクロスセルの限界を知るに至り、不採算乃至低採算の業務は切り離しを始めている。シティは保険業務を切り離したのに加え、Fund Management業務スピンオフの検討に入った。またJP Morganは一時はコア業務とまで呼んだPrivate Equity業務を分離した。欧州でもドイツ銀行やクレディ・スイスは保険子会社を売却している。もちろん金融コングロマリットという形態自体は存続しているが、それが21世紀初頭の主流を象るものでないことは確かである。

日本の銀行システムは、地方にはまだ小型爆弾を多数抱えるが、マクロ像としては取り敢えず三つのメガバンクを中核にして落ち着き始めたと見る向きが多い。今後は、そこに証券と保険、或いは資産運用ビジネスがどのように絡み合うのかが焦点だ、という論考が活発化してきた。その視点に刺激を与えたのが、(後日否定されたが)三井住友銀行と大和証券との経営統合報道である。これに他の機関が追随しそうだとの思惑が加わって「金融コングロマリット」期待が増幅されたのであろう。勿論、金融当局が「日本の金融低迷期は終わった」というキャッチフレーズとして内外へのメッセージとして利用した感も否めない。

「金融コングロマリット」と一口に言っても、その定義はやや不明瞭である。通常は、各国金融監督当局者で構成されるJoint Forumが用いている「銀行、証券、保険の少なくとも二つを包括し、グループの主たる事業が金融であるもの」との定義が用いられる。日本の金融庁が目指す「金融コングロマリット」時代は、そうした金融業務の統合経営を念頭に置いたものと言えよう。だがそれは将来の日本の金融業において真に必要な、或いは必然な経営形態なのであろうか。

◆ 有効性と問題点

5月2-9日号の「週刊金融財政事情」が、金融コングロマリットの特集を組んで、日銀や格付け会社などによる寄稿をまとめている。中でも冒頭の高畠順氏(恐らく仮名であろうが)の「範囲の経済を生かす経営は可能か」と題した一文は、極めて整理された内容であり、参考になる。銀行経営に軸足を置いた議論に終始している嫌いはあるが、媒体が金財なのでそこは割り引いておこう。

以下、同論文を要約してみよう。まず同氏は金融コングロマリットに関する問題設定を、@金融業の必然の発展形態と見るべきか、Aそのメリットは何か、B規制はどうあるべきか、の三点において考察している。それにあたり、まず米国の実態を紹介している。

米国ではグラス・スティーガル法の制約の中で、FRBは1987年にセクション20子会社の設立を認めた。これは、銀行本体で認められない非適格の証券業務が総収入の5%以内に収めるという条件付で、銀行持株会社に証券子会社を持つことを認めたものである。この限定条件は徐々に緩和され、1996年には25%にまで拡大されている。こうした環境下、JP Morgan Chaseのような「商業銀行の投資銀行化」が急速に進んだことは周知の通りである。

だが、米国の昨今の金融環境変化として金融界の話題を呼んだのは、1999年のグラム・リーチ・ブライリー法であろう。この法の下で定義された金融持株会社は、銀行、証券、保険の子会社を保有できるだけでなく、ミューチュアル・ファンド業務も兼営可能となった。従来の銀行持株会社は、この金融持株会社に変更することができる。実際にこの転換はかなり進んだようだが、実態的に何が変わったのかはあまり明確ではない。

それでは、コングロマリット化のメリットとは何か。同論文では、ワンストップ・ショッピング構築と、それに伴う顧客開拓コスト削減、顧客情報共有、豊富な品揃えなどのシナジー効果の二点を挙げている。そして最近の資産形成ニーズの高まりを反映し、資産運用・管理のプラットフォーム作りを容易にする可能性を指摘している。

だが、同氏も指摘している通り、それは金融コングロマリットでなければならない、ということではない。例えば資産運用ビジネスには、むしろ運用に特化した独立組織が向いていると筆者には感じられる。運用ビジネスは、コングロマリット企業が特化型ブティック企業に劣後する最も典型的な分野ではないかと思われるからだ。

同論文は、コングロマリットのデメリットとして、組織の複雑化、集中力の欠如、効率性の低下、低収益事業の埋没といった点の他に、異なるカルチャーの並存と融合の難しさを挙げている。またワンストップ・ショッピングは供給側の論理であり、ユーザーがそれを求めているかどうかは別問題とも指摘している。それが、まさに数年前に大手米銀が気づいた失敗だったのである。

◆ ある米銀の失敗

個人的な話で恐縮だが、数年前まで米銀の経営の末端を汚し、まさに「コングロマリット戦略」の実行にあたって苦闘する経営陣の姿を直に見た経験からすれば、世界の大手金融が再びコングロマリット化を目指すことは当面無いのではないかと思いたくなる。

私が在籍した大手米銀は、21世紀のビジネスモデルとして、商業銀行と投資銀行と運用ビジネスの統合を考えていた。余裕あるCash Positionを基に、大手投資銀行に統合を持ちかけ、ブティック型運用会社に買収を持ちかけ、ブロックを積み重ねるようにコングロマリットの形成に励んできた。さらに総仕上げとして地域密着型のリテール金融をも組み込んでいった。こうして出来上がったのが今のJP Morgan Chaseである。

その戦略自体を、現時点の目で論評することは避けたい。だが、市場がそれをどう評価したかは、株価が自ずと物語る。2000年3月の67ドルを最高値として、現在ではその約半分の35ドル程度で小浮動を繰り返している。株式市場が低迷しているからやむを得ないという見方もあろうが、2000年3月当時のダウは11,000ドル近辺であり、現在とさほど変化はない。

また金融コングロマリットの象徴であるシティグループへの目は更に厳しい。組織運営の統率が取れず世界各国で失態を演じたほか、保険と銀行のシナジーは効果なく、投信販売のクロスセルにも失敗した。保険だけでなく、前述の通り投資顧問の一部を近くスピンオフするという噂も流れている。

残念ながら、市場は金融のコングロマリット化を評価していないのである。これは、JP Morgan ChaseやCitigroupに限らない。同様の戦略を採用した欧米金融機関にほぼ当てはまる事実である。勿論、業容拡大によって社債や株式の引受といった分野での業務が拡大したのは事実である。だが、総体で見た場合、RoAやRoE、またMVAなどの指標が大きく向上したとは言えない。むしろ強引な組織統合のプロセスで無用なエネルギーを使い、効率を落とした部分も少なくない。

金融は経営力だ、と言われることもあるが、金融経営で比較的優位にあると言われた米国金融機関の経営者ですらコングロマリットを組織化し、収益化し、さらに成熟化させることは難しかった、という事実は無視できない。

◆ 経営理念と自信の問題

さて同論文では、規制のあり方に関しても幾つか興味深い論点を列挙しているが、それは本論の趣旨から外れるので割愛させて頂こう。ここでは、金融コングロマリットという形態が、金融発展プロセスとして経営者にとって必然的な選択であるべきかどうか、という点に絞りたい。

既に述べたように、資産運用業などはブティック型経営が適しているのは市場関係者のコンセンサスでもある。それ以外にも、M&Aやリスク管理アドバイザーのような、機動性と専門性が高度に要求される分野に関しても、資源集中型・特化型の経営が望ましいことには異論がないだろう。企業・事業再編などにおいてはバランスシートを自制する銀行よりも、現在ではむしろプライベート・エクイティ・ファンドが主役である。勿論、コングロマリットにメリットが無い訳ではない。だとすれば、結局は経営がそれを望むかという判断の問題になる。

つまり、金融コングロマリットに関する究極のパラメータは、経営者における経営信念と自信だということになる。逆に言えば、多岐にわたる金融ビジネス、それも銀行や証券、保険といったそれぞれに難しい異質の事業を取りまとめる経営力の存在無しに、コングロマリットは語れない。日本の金融行政はこの点を完全に見落としているように思われる。

今回取り上げた金財の特集の中にも、海外の例を挙げて日本の参考にといった論調も見られるが、これは明治維新以来日本が得意としてきた単なる「形式輸入論」に過ぎない。金融経営力が十分に育成されず、また発揮し得ない土壌に、コントロール不能の巨大化組織を持ち込んだところで、傍が迷惑するだけのことである。「形式輸入論」の弊害は、まさに銀証分離において我々が苦々しく学んできたところである。

筆者が、論壇誌Voiceの2002年12月号に「巨大銀行は要らない」という小論を寄稿したのは、そうした問題意識があったからだ。金融ビジネスの専門化が進む時代に、安定性と規模の経済を求め、旧き良き時代の銀行像を思い浮かべながら組織の巨大化や多様な機能の詰め込みを指向するのは、本末転倒以外の何物でもない。

大リーグで活躍するプロ野球先週やワールドカップ出場を決めたサッカー選手に注目が集まるのは、彼等が世界レベルで競争できる水準にあるからだろう。そのアナロジーを以って、金融に世界戦を要求したい気持ちは解る。100号記念を迎えたBMAもそうした路線を支持していきたいと考えている。だがその為に必要なのは、まず国内市場改善と経営感覚改革、そして収益力強化であることは論を待たない。それらの成功無しに、徒にキャッチフレースを並べてみたところで、1990年代に我々が味わった「マネー敗戦屈辱」をまた繰り返すだけに終わりかねないのである。

2005年06月10日(第100号)