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◆ 金融における「新保守主義」

◆ 右傾化する日本

金融から少し離れた話題で恐縮だが、最近世間が右傾化していると言われることが多いのは、9.11事件そして北朝鮮問題や中国の反日デモなどが大きく影響しているのは間違いない。そこに、メディアが深く関与しているのもまた事実であろう。その結果、例えば月刊誌で見ると保守派の「正論」や「諸君」の売れ行きが良い。一方で、朝日の「論壇」や岩波の「世界」など左系の論壇誌はかなり部数を落としていると聞いている。

保守とリベラルという構造は、日本では長らく自民党・社会党といった政党思想によって表徴されていたが、現代の二大政党ではそのあたりは極めて解りにくくなっている。現在では、国内の政治経済問題よりもむしろ中国・北朝鮮のような外交問題をはじめとする安全保障や憲法改正問題への対応・感想・行動などにおいて、各人の右左が顕れ易くなっている。そしてそこに新聞・テレビ・雑誌の報道や論説が深く影響する。

政治家も、世間の風向きには敏感だ。最近はテレビに継続的に出ないと落選するという脅迫観念に襲われて、また郵政問題で「政局」が近い可能性もあり、世論の向くままに意見を変える政治家もいると聞く。もともとナショナリズムに影響を受けやすい大衆への受け狙いに奔走する一部メディアとそれに便乗する政治が、風向きを相当右向きに変えてしまった、とのリベラル論者の嘆きも聞く。

話はそれるが、韓国のOh-My-Newsという新しいタイプのネットメディアがある。盧武鉉大統領の当選に一役買ったと言われるこの企業は、市民記者という素人による投稿をネットで紹介するものだ。世界で有数のネット普及度を誇る韓国でこれが大当たりし、市民の声が大統領選に大きく影響した。

このメディアの創始者が日本で講演した時たまたま筆者は会場に居合わせたのだが、その講演が終了した後の聴衆の拍手喝さいは際立っていた。だが、筆者はプロの記者が書いた記事よりも、素人記者の記事の方がより社会を忠実に反映している、というその主張には、正直って首を傾げざるを得なかった。単に衆愚政治を演出しただけではないのか、とも思った。最近のブログ人気にも怖いものがある。真実を担保するものが何もない情報が暴れ回っているからである。金融業界でも一部そうしたブログが人気化しているが、考えてみれば恐ろしいことである。

こうした無秩序かつ信憑性に乏しい情報がネットを席巻し始めると、一種のバーチャルゲームが進行することになる。小泉政治も、首相の脳内バーチャルを無理やり国会に押し付けているに過ぎないが、それを支持する声が多いのも、社会そのものが現実遊離したメディアに支配されつつあるからかもしれない。日本だけでなく世界各国において右傾化が顕著になってきたのは、その一つの現象でもあろう。中国における異常なほどのナショナリズムの昂揚もネットの進展に比例したものであり、壁新聞の時代には到底考えられなかった筈である。

さて、経済や金融に戻って考えてみよう。構造改革が叫ばれる中、金融機関に公的資金を投入して危機を回避し、国が企業再生に介入し、また公的金融が中小企業ファイナンスを支えるという反動的とも言える諸施策には、改革という言葉に秘められたリベラル的な匂い付けはなく、もはや旧来の保守主義への回帰が鮮明である。これもまた外交や内政に見られるのと同様に「リベラルの敗戦」の結果としての「右傾化」という現象なのであろうか。

◆ 経済問題におけるリベラル

「論座」の7月号で、稲葉振一郎教授が、「リベラルの責任」という特集の中で、経済問題における保守とリベラルについて論じていた。1970年代後半以降の日英米において、中曽根・レーガン・サッチャー時代という「新自由主義」が生まれたが、市場原理を基礎においた小さな政府を訴えるこの思想は、新保守主義とも呼ばれていた。同教授の論旨は、この新自由主義=新保守主義の等式は間違いだというところにあるが、それはさておき、経済問題の保守・革新の問題から手繰ってみよう。

レーガン大統領が主導したこの新しい保守主義は、19世紀アングロサクソンの古典的自由主義への回帰であり、福祉国家に親和的な旧保守主義と対抗するものであったと稲葉氏は述べている。それはまた、米国民主党的なリベラリズムに対抗するものでもあった。

現在日本に求められている構造改革路線は、こうした新保守主義・新自由主義の流れを汲むものであり、その意味では決して「左翼」や「リベラル」ではなく、新しい保守主義というコンテクストで捉えられるもの、と言える。だが現実に行われているのは、前述した通り産業再生機構に代表されるような「大きな政府」による企業救済政策であり、これは旧保守主義が得意とした伝統的産業政策の支配下にあるものである、と稲葉氏は指摘する。同感である。

つまり、現在の日本における改革論は、郵貯を含めて、新しい保守主義を象るものではなく、況やリベラルでもなく、単に旧来の保守主義の概念に沿った小幅な修正を論議しているものに過ぎない。郵貯を巡る自民党の分裂も、旧保守主義の中での争いを越えるものではなく、リベラルや新保守主義の台頭がもたらした現象ではない。

日本経済の実務的基本軸として、リベラル的思想は存在しなかったに等しい。そして今日まで、保守主義の中でコップの中の争いに終始しているだけである。その争いは「保守対革新」ではなく、また「保守対新保守」といった構造にまで展開しているものではなく、旧来の保守の中での小競り合いに過ぎない。郵貯問題に関して国民の関心がここまで薄いのも、それが透けて見えているからに違いない。

金融の改革路線を議論するにおいても、旧来の保守主義への対抗軸が整備されていないため、郵貯問題のみならず、政府系金融機関の改革問題にも、使い古された批判しか出てこない。民間銀行は、官民の棲み分けを主張するが、その具体的方法論になると切れ味が鈍る。一方で威勢のよい郵政批判をしながらも、本音では郵政民営化が廃案になるのを恐れている銀行経営者が多いのは周知の事実である。またいくら銀行協会が郵政批判してみても、事業再生や中小企業ローンなどの実務的事例になると、民間銀行が公的金融の存在を頼っているのが現状である。保証協会の部分保証移行でオロオロしているのは銀行経営者なのである。

日本の民間金融には、旧来の保守主義に対抗するような毅然とした主義主張や基本思想がなく、ただ呆然として保守反動への痛烈な批判を行うための座標を見失っているように見える。なぜ、日本の金融には保守勢力への「抵抗勢力」が芽生えないのだろうか。

◆ 金融における保守主義

日本の金融において、市場の利活用を進めようとする考えを、リベラルだという人がいる。数年前の不良債権処理の議論において、早期処理を求める論者に「米国ナイズされたリベラル主義」のレッテルが貼られたのはその典型であろう。それは旧来日本が守ってきた終身雇用や年功序列、相互扶助的といった、所謂日本的経営を破壊するものとして、リベラルと定義されたようだ。

だが市場主義を支持する人々が、政治的にもリベラルであるとは限らない。むしろ政策的には保守的な考えに属しながらも、市場原理の導入を訴える人は多い。逆に、政治的にはリベラルを主張しつつ、市場原理の導入に真っ向から反対する人も少なくない。金融における市場原則支持の是非を巡っては、「政治的な右左」は殆ど関係ない。数少ない市場主義派の政治家金融族も、自民と民主に分裂している。

むしろ金融改革論者には、「将来の日本のため」というややNationalismの色合いの濃い保守主義者が多く、金融改革反対論者には「日本を米国化するな」というこれまた意味合いの違うNationalismを反映した思考の持ち主が多いように思える。経済学では市場中心主義をリベラルと呼ぶことがあるが、こと日本に関する限りそれには違和感が伴う。その市場の中心位置にある金融に関してすら、リベラルは存在しないからである。

敗戦後の歴史を振り返って見る限り、日本の金融とは個々に散在した資金余剰を如何に効率的に組織化して国策として資金プールを作るかに専念してきた産業であり、一種のインフラ作業に過ぎなかった。金融というよりも、むしろ「資金循環パイプの建設業」であったのであり、その意味では金融は、建設業と同様に極めて保守的であったと言える。

結局、借り手企業の殆どは日本の経済成長を支える重厚長大の国策的企業であり、貸し手の金融機関はその経営を支えるための構成要素としてのみ尊重されてきた。つまり金融とは、戦後55年体制を指揮した保守主義の一部をなす部品に過ぎなかったと形容することも出来る。日本の金融に、金融自らの立場から意見を発する必要は無かったのであろう。誤解を恐れずに言えば、金融は保守政治に隷属していたに過ぎない。

日本を代表する民間銀行から日銀総裁が生まれたこともあるが、それは極めて例外的な事象である。金融は、基本的に政治に物言わぬ存在であり、護送船団式の保護の代償として政治への従属関係を受け容れたのである。金融機関が政治的なメッセージを述べたのは、竹中大臣が繰延資産を自己資本に参入しないと宣言した「突然のルール変更」への抗議が戦後(或いは戦前も通じて?)初めてであった。

因みに日本には国会に実務的金融知識をもった政治家が殆どいないが、これは従来その必要性がなかったからであろう。政治的なロビーイングなども不要であった。だが、海外を見れば風景は一変する。前号で触れたように、現代金融の発祥の地である英国のマーチャントバンクの社会は、政治を利用する世界であった。同様に、米国のインベストメントバンクは積極的に政界に働きかけて、金融行政に影響を与えてきた。金融覇権とは国際政治の一側面でもあった。それらと比較すれば、日本の金融における政治的イデオロギーの薄さは、実に特異的でもある。

さて今秋、郵貯問題に続いて、政府系金融機関の問題が再び俎上に上ってくるのは時間の問題であろう。前回の議論においては、住宅金融公庫についての微調整が行われたのみで、他の公的金融機関については、当時の金融経済危機の状況に鑑みてすべて先送りされた。次回の金融改革においては、まさに民間金融が自らのレゾンデトールを賭けて戦うべき時期であると思われるが、現在の延長線で見ればせいぜい換骨奪胎の修正程度しか期待できないと誰もが感じている。そして最も当事者意識の強いはずの民間金融の経営者から中堅行員までがそう思っているのだから、もはや何をか況や、である。

2005年07月22日(第103号)