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◆「マッド・マネー」と金融ジャーナリズム

◆ 現実写像の把握の難しさ

国際資本市場は、カジノ化した資本主義をますます膨張させる狂ったマネーの温床と化している、とスーザン・ストレンジ女史は「マッド・マネー」(岩波書店)で語る。1999年に著された本書は、現代の金融市場が破局に向かって進んでいるという、ここ数年様々な形で出てきた金融批判の先駆けとなった書物だとも言われている。発刊直後にITバブルが破裂し、FRBが超緩和策に踏み切るという、危機感を呼ぶという意味でのタイミングの良さも手伝って、その前著「カジノ資本主義」と同様に結構話題になったようだ。

政治的な角度から金融資本に基づく経済体制を分析したという政治経済学的な評価もある。確かに、「日米枢軸」と「分裂する欧州」という二つの大きな政治的支柱をもとに、戦後のグローバリズムを分析する方法論は、狭い経済学の視点に止まる現代経済学が捉えきれなかったポリティカル・エコノミーの現実像を炙り出したと言えるだろう。

そして、著者は五つの結論を導き出す。まず「金融市場が実物経済を指揮する」という金融の暴力化であり、その必然として二つ目の結論として「国家が統制力を失う」ことになる。国家の退場とも言えるその衰退は、金融が諸政策を束縛することによって表現される。三番目に、金融の引力によって企業の買収・合併が進行し、「大企業への経済力の集中」が起こる。そうして発展するグローバリズムの姿は、企業による国家への帰属意識を曖昧にする。そして四番目に、我儘な金融の必然として「道徳的な汚染」が蔓延する。その腐敗色を強める金融は政治に接近し、政治の堕落を生む。そして最後の結論は、「所得格差の拡大」である。大企業と中小企業の格差が広がり、下層階級の出現を加速化する。金融市場の肥大化により世界政治経済の混乱は必至というシナリオである。

信用の過剰と金融革新が押し上げた虚像の株価が、いずれ暴落して国際経済を混乱に招く。それを回避するには国際政治における各国の協調が必要だが、その解決に向けた施策は見られない。経済学も、それに答えようとしない。ひたすら膨張するマネー市場が、刻々と破滅への時を刻んでいく。

スーザン・ストレンジは最後に「だからどうなのか」と題する章を設け、幾つかのありうるシナリオを呈示する。だがそれは、まさに「だからどうなのか」と著者に問い返したい気にさせるものである。1930年代の再来を防ぐ為に、国家は(つまり米国は)何をすべきか、という提言はない。

本書のメッセージの中核は、本来人々の経験によって政治的選択が形成され、国家が相対的な価値観と社会的選好を形作る筈なのに、現代金融市場に吹き荒れる暴風がそれを不可能にしているというものである。換言すれば、国家はマネーを管理しきれず、現在よりもさらに凶暴になって初めて政治が変化の必要性を感じるだろうという諦観である。たしかにその指摘も決して間違いではなかろうが、どうも「空(くう)を見上げて森を見ず」の類の叙述のように思われて仕方が無い。

この書物で指摘された種々の問題点、例えば貧富の差、債務国問題、マネーロンダリング、或いはIMFの問題などにおいては、確かに現代の処方箋の効果は疑問視されており、解決策は模索中のままだ。前述した五つの結論の中に挙げられた「道徳的汚染」もエンロン事件以降、世界中に蔓延していることが判明した。

たしかに市場メカニズムがすべての危機を回避させうると考える20世紀前半の自由主義思想は一部破綻している。だが、だからといってマネーが国家の統制力を奪い、金融市場が世界を無秩序に陥らせようとしていると結論付けるのはあまりに早計ではないか。それはストレンジ女史が自ら述べるように、ありうるシナリオの一つであるとしても、金融市場はそれほど自制力の無い存在なのだろうか。

◆ 金融ジャーナリズムの限界

「資本主義がカジノ化している」という表現も、実体経済の中で働く者にとってはそれほど説得的ではない。金融市場のメカニズムとは、暴力的といわれるほど破壊的ではなく、むしろ破壊的に見える部分こそが市場安定の本質であることを、残念ながら著者は理解していないように思える。

本書の著者であるスーザン・ストレンジ女史は、ウォーリック大学の教授ではあるが、もともとはエコノミスト誌やオブザーバーの記者である。本書も、一読すればジャーナリスト経験者が書いた本だと判る。本書には、彼女のジャーナリストとしての視点が強く反映されている。私が残念に思うのは、この本が、様々な意見や見方、過去の評論を引用しその上で乾燥した意見が載せてあるというジャーナリストの書物にありがちなスタイルの域を出ていないからでもある。つまり経済実態を皮膚で感じる神経細胞の働きが弱いのである。

やや一般論だが、日本の大手メディアに勤める経済ジャーナリストは金融に弱いと言われる。それもまた、金融の実態感覚の薄さを示しているものだ。彼等の情報源は、主に日銀や金融庁などの役所か、銀行や証券、保険会社の役員か、シンクタンクの調査畑のお歴々である。本物のディーラーや運用マネージャーは忙しくて記者の相手などしてくれない。経済と金融は違うという、見逃しがちな大きな問題も横たわる。残念ながら、大手メディアのジャーナリストには生の金融市場が見にくいのだろう。

社会的事件や政治の真相に迫る為の彼等独自のノウハウは、金融には必ずしも有効で無い。国家、企業、そして個人のそれぞれの心理や思惑が構成する複雑系を観察するための方法論は未だに確立されていないからだ。日経新聞の記者や編集委員の書く記事が、飲み屋で酒の肴にされているのは日常茶飯事であるが、それは記者の努力不足というよりも、金融という世界で最も入り組んだ複雑系をジャーナリズムが扱う難しさを露呈している現象と見るべきだろう。

この「マッド・マネー」を読むと、英米のジャーナリストにも等しく限界があるのだろうと感じる。史実や論文などの情報量、そして幅広い視野での観察力などとても魅力的な部分も多いのだが、実際の市場の観察になると急に視点が遠ざかるのである。市場の膨張が生んだ結果がすべて悪ならば、20世紀を通じて拡張した市場主義がもたらした世界的な国民所得の増加を、いったいどう評価すれば良いのか途方にくれてしまう。市場をジャーナリスティックに捉えるあまり、それがもたらした果実を意識的に視界から外してしまったかのようだ。

折角、技術革新という現代金融の要に鋭く踏み込みながらも、その意義を実際的に捉えられていない点も、極めて残念に思う。著者は、金融革新は市場参加者の視点からだけ語る訳には行かないと述べ、政治の黙認とくに1930年代以降の米国の「市場任せ」の無責任が、金融パワーを増幅させたという。だが、その金融パワーが、ポンドの凋落の穴埋めとしての米ドル・インフラを誕生させ、世界大戦の傷が癒えない欧州経済の復活を促し、経済成長を支え、リスク管理の技法を飛躍的に向上させたことをまるで無視している。

◆ 金融ジャーナリズムのズレ

話はそれるが、最近よく金融ジャーナリズムに感覚的なズレを感じることもある。例えば昨今の日銀の金融政策に関する新聞などの評論がその一例だ。特に、当座預金の残高目標の下げを巡る議論の取り上げ方には、極めて興味深いものがある。本誌の読者には釈迦に説法であるが、政策決定会合で残高引き下げの提案がなされ、それに反対する意見が出る。それは、まさに政策委員会の仕事であって、それ自体は全く正常な議論である。

だがジャーナリズムは、現時点での議論がまるで世間を揺るがす大事件のように取り扱う。30兆円にのぼる当座残高を多少引き下げるかどうかの提案が、日本経済を破壊させかねない悪行のごとく攻め立てる人もいる。本気でそう思っているのか、とにかく記事にしなければならないという強迫観念なのか、それは解らない。ただ、市場経済における物事のプライオリティ付けという尺度で見れば、30兆円が25兆円になろうがたいしたことではない。逆にそれが深刻な影響を与えるとすれば、ジャーナリズムが国民心理や市場心理を煽った結果に他ならない。

金融ジャーナリズムという視線で考えると、もっとプライオリティの高い材料は腐るほどある。地銀の経営問題などはその典型である。だがジャーナリストは、よほどマクロの現象が好きなのだろう。地域問題などよりも、30兆円問題や郵貯改革問題の方が、よほど大切だと感じているようだ。実体経済からすれば、地域経済と地域金融が抱えている難題の方が、よほど切実なはずである。

或いは、景気循環というサイクルのもとで次に不良債権時代を迎えた時の日本の金融システムの耐久性も問題だ。国民は、懲罰制度の無い中途半端な公的資金注入など二度と許容しないであろう。実態社会における感覚とジャーナリズムの感覚のズレは、平和な時代においてどんどん拡大していく傾向があるのかもしれない。

「マッド・マネー」は、あるべき姿の国家像が市場のダイナミズムによって歪曲しており、それが世界経済の破綻を呼び込む可能性があるというメッセージを述べたものだ。政治を軸として金融を観察するという斬新な視点は大いに評価されて然るべきだろう。だが市場機能の評価は全くフェアではない。

おそらく、ジャーナリストとしての「直感的な金融への反感」が先にあることが、本書の議論の空虚さを拡大しているのではないかとも思う。金融市場批判に際しては、もっと実務的な根拠を示すべきである。だがこの欠陥は「マッド・マネー」に限らない。ジャーナリストによる「金融本」が、「政治本」や「社会本」のようにベストセラー以上の存在感を示せない背景には、こうした明確な理由があると言っても過言ではなかろう。

尚、金融市場とジャーナリズムの問題についてご関心を抱かれた方は、是非TFJサイトに掲載中の「市場とメディア(連載全12回)」(平山賢一・山下恵)をご参照頂きたい。運用責任者としての平山氏と金融担当記者の山下氏が、筆者とはやや違う観点で金融とジャーナリズムの関係を取り上げている。そのギャップを如何に埋めるか、その難しさを語るだけでなく、その溝を埋める努力が如何なる意味を持つのか、考えさせられる対論である。

市場関係者は、単に日経新聞や日経金融新聞の記事力や編集力の貧弱さを責めるだけではなく、自分達のためにも金融ジャーナリズムを育てるという意識を持つことが如何に重要か、このあたりで再考してみることも必要だろう。

2005年08月05日(第104号)