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◆ 長嶋・小泉そして金融における

◆ 長嶋茂雄の美しさ

長嶋茂雄氏については既に語り尽くされている感もある。また、本誌のような金融誌が取り上げる話題ではないというご批判もあろうが、一言だけお許しを願いたい。それは同氏の行動原理を「直感」或いは「動物的な勘」といった解釈で済ませて良いのだろうか、という疑問である。これは物心ついた頃からの長嶋ファンであった筆者が、長い間首を傾げてきた問いであった。

記録より記憶に残ると言われた現役時代、そして勘ピュータと称されID野球の論理性に劣後するとコケにされてきた監督采配。だが野球を超えたその存在感は、60年に垂んとする戦後日本社会の殆どの時期を貫いてきた。その根底にある原理はとても「直感」や「動物的な勘」などで説明できるものではない。

映画評論家で東大総長でもあった蓮実重彦氏が、昔どこかの新聞で「長嶋茂雄は農民的だ」と書いていた。彼もまた同氏の行動が単純な回路から発生するものではなく、もっと聡明さを伴ったものだと指摘していたのである。加えて、長嶋氏の人材開発方法は、当時の長嶋野球をご存知の方ならすぐお解かりのように「打たれても新浦」「パスボールしても山倉」「病持ちでも篠塚」であった。

これは外資系などに見られる狩猟民族的人材開発のマニュアルではまずありえない登用法である。かといって、ヒラメキだけの動物の如き反射神経的な勘だけの発想とも思えない。彼は、各選手における運動の「美しさ」を見抜いていたに違いない。

長嶋氏の現役時代の魅力もまた、表現しがたい「美しさ」にあった。それは快打と空振り三振や併殺打、ファインプレーとトンネルなどが予想外の形で組み合わさった、決して完璧な美ではなく、不完全が心に響く美であったことは、野球ファンの方々なら共感して頂けるだろう。それは氏一流の計算と計算外の出来事が、まさに計算外に組み込まれた「神による仕掛け」であったと言ってよい。

また監督としての長嶋氏への評価は一般に低かったが、人気は高かった。それは川上時代のつまらぬ野球からの訣別を望んでいた声を代弁するものであった。あたかも、今回総選挙で圧勝した小泉首相への国民支持の如くである。だが長嶋氏は、小泉首相のように確信犯として開き直って旧主流派勢力との対立を演じることはしなかった。まだ時代が熟していなかったのかもしれないし、長嶋氏自身が「巨人を中心とする野球」を壊した後に再生させるモデルを確立していないことを正直に表現していたからかもしれない。彼は単なる破壊者ではなかったからこそ、永続する人気を勝ち得たのである。

その意味でも、長嶋氏の行動原理は直感的でもなく動物的でもなかった。蓮実氏の言葉を借りるなら「長嶋茂雄は殉教者であった」のだ。その行動原理は「ひたすら野球が好きだ」の一点に集約されていた。巨人ではなく野球が大好きだった長嶋氏による監督業は、特段野球が好きでもない人々、或いは単に強い巨人が好きだという人々の言論や圧力で押し潰されてしまったのである。それが人々の共感を生んだ最大の背景であった。小泉政治が欺瞞と空虚を巧みに隠して人気を得たのとは訳が違う。

◆ スポーツに宿る神様

何だかスポーツ誌への寄稿のようになってしまったが、後に「金融の運動」に言及する前段としてもう少しスポーツの話を続けよう。ここから先の話は、蓮実重彦氏の「スポーツ批評宣言、あるいは運動の擁護」(青土社)から引用する。蓮実氏は、先に述べたように映画評論家として著名だが本業はフランス文学者である。その蓮実氏が、内外のサッカー選手、監督、そしてスポーツ・ジャーナリズムを、殆ど暴論に近い毒説を吐きながら批評しているのが本書である。

サッカーファンは、本書は読まない方が良いかも知れぬ。既に読んだサッカーファンはただひたすら呆れたかもしれぬ。ただ筆者のようなサッカー素人にとっては、サッカー批評を通じた「運動」への鋭い論考が心地良い。それは、野球を愛した長嶋氏を裏切った世相を正確に抉り出してくれたからであり、小泉首相への人気との違いを帰納するものでもあったからであり、また金融市場という現代社会の一つの「運動の場」における重要な意味を浮き彫りにしてくれたからでもある。

因みに蓮実氏は随所で中田英寿を贔屓している。それは正しく「エコ贔屓」であるが、同氏はむしろそれが必要な贔屓の方法だと主張している。何故なら、中田選手はサッカーの神に愛でられた存在であるからだ。神が宿るプレーを見ることがスポーツ観戦の意味であるともいう。その説では、中村俊介もジーコも、ベッカム様もボコボコである。

蓮見氏の論点は、運動の軌跡こそがスポーツの原点であり、記録など運動と直接繋がりのない無機的な存在に等しいということだ。サッカーの中田選手のパスも、野球の田淵幸一選手のホームランも、その軌跡こそが美であり、記録など単なる数字に過ぎない。つまり「結果は数字になるが運動は数字にならない」のである。まして試合の「運動の美」を探し出すことなく意味のないインタビューをするレポーターなど、存在に値しない。だがメディアによるスポーツ報道の座標軸は、運動の軌跡ではなく所詮記録なのである。

また、世間は「運動の美しさを奪い取る運動の醜さ」にも鈍感になっていると蓮実氏は指摘している。昨年のワールドカップ・アジア地区予選のオマーン戦を例に挙げ、その試合の醜さを覆い隠そうとする論調を戒める。「ドーハの悲劇」は「ドーハの天罰」と言うべきだとして、その運動の醜さを直視しない風潮を一喝する。サッカーファンには大いに異論があろうが、筆者には実に正論だと思えてしまう。「敗戦記念日」を「終戦記念日」と称する国民性とも共通するものだ。

別にことさら美学を崇拝している訳ではない。再び蓮実氏の言を借りるなら、人々が「ごく端的に生きることを忘れ始めている」と感じるからだ。今回の総選挙など、その典型かもしれない。政治を、自分の生活から切り離した画面上のゲームだと思っている人が激増しているのである。政治における運動の軌跡は忘れられ、296議席という数字だけが踊り、それが政治なのだという勘違いが横行する。気付けば自らが望んだわけでもない運動方程式に流されていく、という歴史的事象は何度もあった。

人々は本来運動そのものが好きではないため「生はその軌跡にあっさり還元され、運動はいたるところで放擲される」のである。その運動とは、政治やスポーツに限らず一般社会や金融市場にも見られる。その「運動の醜さ」が美しさを押し退けて、運動そのものを奪い取っているのが現代なのである。同氏のスポーツ批評には、実は極めて厳しい社会批評の眼差しが込められている。

◆ 運動の場としての金融

さて、金融市場に目を移そう。この市場を「運動の場」として見ることに、それほど違和感は無いだろう。為替市場は、金融におけるあらゆる運動の要素を詰め込んだ市場であり、株式市場は夢と失望感という対極の運動ダイナミズムがぶつかり合う場である。そして債券市場は、金融当局内部での言論的運動を眺めつつ、自らの運動メカニズムを作り上げる。石油市場は、臨場感と危機感で運動がやや暴徒化しているように見る人もいようが、決して無秩序であるとは思えない。

市場の値動き自体も運動のように見えるが、それはここでいう運動ではない。市場を動かす実際の運動の軌跡は、スポーツと違って視覚化できない。従って結果的に数字としての記録(値動き)を眺めるしかない。だが数字そのものは運動ではない。そこにはまさに無機質な数字の羅列、時系列が横たわるのみである。その数字を生み出した運動そのものを我々は眼にすることができない。つまり市場の運動は、想像して解釈するしかない。

そのモデル化を目指しているのが経済物理学であるが、その複雑性を掴みきれているとはまだ言えない。だが売買する主体が人間である限り、その集合的な判断を想像するのは不可能ではない。天性のディーラーはそれを読み取ることが出来る人達である。そしてその市場で様々な数字を生み出す「運動の美と醜」を嗅ぎ分けるのもまた重要な仕事であるが、現代スポーツ・ジャーナリズムが「運動の醜さ」に蓋をしたように、金融ジャーナリズムもまた金融の運動の美しさを見失っている。

金融における運動の美しさの基本は、まず政策金利の決定法にある。日本がその美しさを放棄してもう何年になるだろう。量的緩和という政策導入は、蓮実流に言えば「醜さ」の象徴であった。百歩譲って非常事態に導入せざるを得なかった醜さは認めるとしても、それが常態化することは何としても避けるべきであった。だが金融ジャーナリズムは、政治と結託し世間に阿ってその醜さを徹底的に支持したのである。これは「ドーハの天罰」を「ドーハの悲劇」とすり替えた大手新聞社の欺瞞とさして変わりない。

現在、金融当局の中ではその美しさを取り戻そうと必死に動いている様子が伺えるのは喜ばしいことだ。その一方で、醜さを醜いとも思わぬ人々が、醜さに耐えることが美学であると言いたげな政策論を放っている。30兆円というとてつもない「醜さの集積」に、日本の金融の美しさが完全に埋もれてしまったことを忘れてはならぬ。

◆「醜さ」の自覚

中田選手やロナウド選手がサッカーの神に愛でられるプレーヤーであり、ベッカム様やトルシェ前監督はそうでない、といった蓮実説は私には判断がつきかねる。だがそのアナロジーとして、例えば「グリーンスパン議長が金融の神に愛でられた人である」と言われれば、思わず頷いてしまうかもしれない。

議長の18年間の手綱捌きにも種々批判があるのは承知の上だが、危機に直面した時の金利引き下げの妙や、金利水準修正への判断など、まさに神が与えた如き環境を上手く利用した聡明なプレーであることは否定できぬ。その意味で、最近の日本の中銀総裁がなかなかそうしたプレー境遇に恵まれないのは、金融の神が日本市場を愛でぬ何かしらの(恐らくは政治的な)理由があったからなのだろうか、と訝ったりもする。

それはさておき、金融市場における「運動の醜さ」は他にも散見される。日本の1980年代のバブルも今にして思えば「運動の醜さ」の塊りであった。また現代に特有の世界的な長期金利水準もある意味で醜さの一例であろう。だが、筆者が最も醜いと思うのは、名目的な改革の下で「醜さ」を「美しさ」だと言い張る昨今の金融環境である。欺瞞の郵政改革しかり、公的産業再生しかり。それも、当事者が「醜い」ことを自覚した上での言動であるのが始末に負えない。日本のクレジット市場がその醜さの被害者であることは言うまでもない。

不良債権処理は、誤解を恐れずに言えば、実に美しい処理であった。小泉政権で唯一評価されて良いこの過程は、金融の本質を見据えたものであったからだ。それに比較すると、道路公団から始まって郵政公社に至る現政権の改革のプロセスは、金融の運動の観点からは見るに耐えない醜さを内包していると言って良いだろう。

金融における本質を見分ける能力のない一般人が、誤解するのを責める訳にはいかない。ダイエーが再生され、カネボウが再生され、郵政公社が改革されるのを、日本の経済・金融システムの改革だと大手メディアが伝えれば、そうかなと思う。退屈でつまらない試合を、「劇的な勝利」とか「奇跡のゴール」とかの見出しによって価値ある試合の如きに化身させてしまう黒魔術と基本は同じである。

「醜さ」は、むしろ「虚像」と表現言い換えた方が無難であったかもしれぬ。だがそれはまた「美しさ」を裏切る行為でもあり、敢えて「醜い」という言葉を使った。20代から30代にかけて、海外市場も含めて「金融における運動の美しさ」を肌で知覚する幸福を経験した者として、現代金融の醜さは見るに忍びない。量的緩和やゼロ金利、そしてゼロスプレッドの時代は、早く過去に葬り去って欲しいものである。

2005年09月23日(第107号)