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◆ 金融改革のパラドクス

◆ 嘘つきのクレタ人

パラドクスと言えば、最も有名なのは新約聖書(「テトスへの手紙」)に出てくるクレタ人のパラドクスであろう。クレタ人が「クレタ人は嘘つきだ」と言ったという、あの自己言及のパラドクスの一文である。正確には、クレタ島出身の預言者であったエピメデスが「クレタ人は常に虚僞をいふ者、あしき獸、また懶惰の腹なり」と言ったという話である。現代風に言えば、「クレタ人はいつも嘘をつく悪い奴等でいつもその辺をブラブラして怠けた連中ですわ」といった感じだろうか。

これがパラドクスだと言われるのは、クレタ人がクレタ人のことを嘘つきだと述べているからである。但し、エピメデスが「クレタ人は正直者だ」と言えばパラドクスになりようがない。また「クレタ人は嘘つきだ」といっただけであれば、クレタ人は嘘も言うが本当のことも言う、と解釈できるのでこれもパラドクスにならない。「いつも嘘をつく」からパラドクスになる訳だ。似たような論理の破綻に「この文章は嘘です」というのもある。以下、私の文章には嘘はないものとして読んで頂こう。

パラドクスには様々な種類があって、パラドクス・オタクに引っ掛かると延々とパラドクスを聞かされる羽目になる。悪いことに、パラドクスには難しい話が多い。アルキメデスと亀の話などはまだ直感的に捕まえやすいのだが、ラッセルの集合論のパラドクスやゲーデルの不完全性定理あたりになってくると、論理学の訓練を受けていない身にはやや厳しいものがある。

もっとも、アルキメデスと亀のパラドクスは何故誤りなのかを説明せよ、と言われてもうまく答えられる自信はない。「先を行く亀とアルキメデスとの距離は永遠に縮まらない」という有名な「ゼノンの四つのパラドクス」のうちの一つだが、これを知ったかぶりで無限級数を使って説明しようとすると、途端に罠にはまる。それは、アルキメデスが亀に無限時間の末に漸く追いつくことだけを証明するに過ぎないからだ。

むしろ無限という非現実性を否定しなければ、このパラドクスは解けない。この罠に囚われぬためには、現実感覚を大切にしなければならない。金融問題にもまた「解りやすい非現実的性」に眼を奪われて、政治家や官僚の操るパラドクスに陥らぬように気をつける必要もありそうだ。破綻論理によって国政が支配されてしまっては、文字通り「後の祭り」である。

◆ 改革のパラドクス

さて、別の簡単なパラドクスに眼を転じてみよう。ある政治家が「私の任期中に思わぬ改革をやります」と公約したとする。その政治家は続けて「その改革は全くのサプライズだ。その日にならなければどんな改革なのかは解らないだろう」と断言したとする。どこかの首相のように勇ましい公約である。国民は、その大胆さ、斬新さに胸を打たれ、意外性に期待する。さてこの政治家の公約は実現されるのだろうか。

このパラドクスは、有名な「抜き打ちテストのパラドクス」を筆者が勝手に書き換えたものである。オリジナルは、学校の先生が「月曜から金曜までのいずれかの日に抜き打ちテストを行う。だがいつやるのかは前以て解らないからちゃんと勉強せよ」と言った、というものである。但し、文献に拠ればこのパラドクスは、スウェーデン国営放送局ガ第二次世界大戦中に「来週中に防衛訓練を行う。その実施日は事前にはわからない」と発表したことに対して、ある数学者が問題提起したところから始まっているそうだ。

その後、このヴァリエーションとして死刑囚のパラドクスが斯界では有名になった。来週のいつか死刑を執行されることになった死刑囚が「いつ執行されるかはわからない」と宣告され、悩みぬいた結果「死刑は出来ない」との結論に至った、という話である。

さて、死刑囚の話は楽しくないので抜き打ちテストの例に戻ろう。ある論理に従って考えれば、この先生は抜き打ちテストを行うことが出来ない。まず金曜日にテストが行われることはあり得ない。月曜から木曜日までテストがなければ金曜日に行う他ないが、その場合、学生は皆金曜のテストを予期しうるので抜き打ちテストにはならないからだ。よって金曜日のテスト実施は不可能である。

では木曜日はどうか。木曜日も同じように月-水までにテストがなければ予測可能であり、木曜の抜き打ちテストも出来ない。水曜日も、火曜日もまた同じである。では月曜日しかないのではないか。だがそれでは皆、週末に「月曜日はテスト」と解ってしまうので、月曜にも不可能である。従ってこの先生にはテストなどできっこない、と学生は結論したのである。死刑囚も同じ論理で「死刑は有り得ない」という結論に辿りつく。

◆ 先生の逆襲

このように考えた学生は、試験が出来ないことを確信して、試験勉強をしなかった。だがある日、先生は予想に反してテストを行った。勘の良い読者は既にこの話のオチが見えただろう。論理的におかしいと攻める学生に対して先生は「君は試験を予期していなかっただろう。だから今日のテストは抜き打ちテストとして成立しているのだ」と言ったのである(このシナリオで行けば、死刑囚も予想外の刑の執行を受けることになる。)

勿論、もっとシナリオを展開することも出来る。この二人のやり取りを予測していたもう一人の学生にとっては、「オチ」の見えたテストは抜き打ちテストにはならない。従って論理的には先生の負け、という解釈も成立する。さらにそれを予測していた学生が、と考え始めればきりがない。

先に挙げた「改革宣言」も似たような話になりかねない。「その政治家の公約は論理的に矛盾する」と国民が指摘しても、政治家は出来っこないと思っている改革を行うのが政治家です、などと言ってその論理を飲み込んでしまうことは簡単である。論理的な言論を「おかしいじゃない」と非論理的に論駁してしまうことも、政治家にはたやすいことなのである。最近のメディアは、その意味では政治家の強い味方である。

考えてみれば、パラドクスに近いことを小泉政権は「テレビ」にでは無く「テレビの向こうの国民に」言い続けてきた。「財政再建」と「消費税は自分の任期中には上げない」というのはその代表例であろう。

そもそも小泉政権そのものがパラドクスから生まれてきたようなものである。小泉氏は「自民党をぶっ潰す」という、誰が見ても明らかなパラドクスを宣言して総裁の座についた。自民党に在籍する者が自民党をぶっ潰せば自分も潰れる。だが小泉氏は、自らを自民党員でありながら自民党員ではないという破綻した論理をむしろ堂々と自分のIdentificationにしてしまったのである。

だが、小泉氏は今回の選挙の大勝によって自ら行き場のないパラドクスに陥ってしまったと見ることも出来る。何故なら、巨大な抵抗勢力に一人で立ち向かう弱者を自ら演出することで国民の圧倒的な支持を得てきた小泉氏が、選挙によって敵を捻じ伏せた巨大な勝者になってしまったからである。これは究極のパラドクスである。小泉首相があと1年と任期を設定したのは、そのパラドクスによって自己崩壊するリスクを回避する為の直感的な逃げ技であろう。

いずれにせよ、こうしたパラドクスの連続に国民が酔いしれたところから、日本の喜劇的なパラドクス政治が始まり、パラドキシカルな金融改革が始まろうとしている。

◆ 郵貯のパラドクス

さて郵政改革の中でも金融に最も関連のある郵貯問題に絞ってみよう。この本質は第二の予算という粉飾もどきの国家予算を改革の対象におくべき深刻な問題だが、それは別の機会に譲るとして、今回は小泉論理の一つをテーマにしてみよう。

首相の改革論題の一つに「民に出来るものは民に」という論理がある。これは単独のフレーズとしては特に文句をつけようがないように見える。ややひねくれた反論として「日本の金融は民として成立していないから、郵貯を民営化してもダメだ」というのもあるが、これは聞き苦しい。民間金融を否定する理由はない。

つまり常識的には、金融は民間経営が可能なので「民に出来るものは民に」やらせる、従って郵貯は民営化すべきである、という論理は正しいように見える。だが、これは前提として「民には民として出来るものと出来ないものがある」、「官には官としてやるべきものとしてはならないものがある」というデジタル式の定理に基づいている。これは民と官が交わることのない二元論を生む。ベン図で書けば、以下の通りである。

これは実に解り易い。だが社会がこうして割り切れれば苦労はない。上記の解りやすい論理の中で例えば「民にも出来るが官の協力は有益であること」「民の効率化のために官が補助・補完すること」といった事象はきれいに捨象されている。金融は、教育などとともに紛れもなくその代表的な分野であろう。上記のベン図は、一見論理的に見えて現実には起こり得ない構図である。それは、政府系金融機関の改革プロセスでより明確になるだろう。

このパラドクスは、「民+」と「官+」とが重なる部分を想定していないために生じる。「小さな政府」を主張するために「官+」を極小化し「官−」を極大化する必要があるという政治的要請もある。こうして郵政民営化が「不完全な民の論理」に押し切られることになるのである。

だが歴史的に見て日本の官における金融関与は「官に出来ることを民にもやらせること」「民の管理を徹底的に行うこと」といった独自の論理展開であった。必ずしも「民に出来ることを官が行う」という認識構図ではなかったのである。これをご批判覚悟で書けば以下の通りである。

上記の考え方は、政府系金融機関の改変が日本でなぜこれほどまでに難しいのかを端的に示している。郵貯に限らず、中小公庫も政策投資銀行も、すんなりと図1の論理に収まる筈もない。図1の論理は、実に解り易いが非現実的に過ぎ、実現不能である。我々の論理のスタートは図2をどう改革するかを現実的に考えるところにある。結論が図3にあることは、恐らく誰も異論はあるまい。

つまり「民が出来ることは民に」の小泉論理は無力なのである。一般的に、社会的インフラは市場だけで追及できるものでないが、それが金融にも言えることは欧米社会の例を見ても明らかであろう。金融原理としての徹底した市場主義が必要であると同時に、社会インフラの整備には官の関与が必要である。

例えば、全国に伸びた郵貯オンライン・システムは貴重な社会インフラであり、その利便性向上のために費用を投入して国が当面維持管理すべきものである。いずれ民営化する時代はくるかもしれないが、金融リテラシーが成熟していない現状を見れば、今後数年で達成すべき課題とは思えない。また中小企業融資への公的部分保証と地域金融との棲み分けを100%分離出来るかと問われれば、それは現実に無理であるし、その必要性もないように思える。金融には鵺のような世界があることを忘れてはなるまい。

市場主義の徹底に対抗する論陣を、伝統的反市場主義者に任せていたのは間違いであった。また今回の総選挙をテレビや新聞が「改革派対反改革」の構図で示したのは、本質を捉え切れなかった致命的なメディアの敗北であった。道路問題もそうだったが、間違った或いは行き過ぎた市場原理主義の蔓延は、伝統的保守主義者や机上の空論を振りかざすコンサルタントではなく、市場の限界と効用を熟知する市場主義者こそが修正しなければならないのではないか。

2005年10月21日(第109号)