HOME > 2006

◆ エクイティ時代への期待と不安

◆ 三つの「E」の時代

昨年は、業界でもクレジットアナリスト受難の風が吹き荒れた。弊誌もクレジット市場・商品を専門に扱う立場から「資本市場に関わる大きな視野でクレジットを含む金融を分析する」という立場に転換した。これは、時代の要請でもある。その特徴とは何かを考えた場合、三つのキーワードを挙げることが出来る。それは、エネルギー(Energy)、エクイティ(Equity)そしてエコロジー (Ecology)の三つの「E」である。最後の単語は、環境(Environment)と言い換えても良かろう。

言うまでも無く、昨年の国際・国内経済は「石油市場」に振り回された。また、CDSプレミアムがさらなる縮小傾向を辿る一方で、オイルマネーを中心とする外人の怒涛の買いを契機に日本株は上放れ、約5年ぶりに日経平均は16,000円を回復し「株の時代」の復活を印象付けた。ライブドアや楽天、村上ファンドの活躍もまた株が主役の日本経済を演出したものだ。そして京都議定書発効によって欧州で排出権取引が開始され、また急激な石油高を誘引した米ハリケーンの増加は地球温暖化に起因するものとの認識が強まるなど、金融市場においても「環境への問題意識」が急速に高まっている。

こうした三つの「E」は、本年以降も大切なXYZの座標を形成するのではないかと考える。それは決して弊誌が重心をおくクレジットを軽視するという意味ではない。むしろクレジット市場が、これら三つの「E」によってどんな影響を受けるのか注目したい。

余談ではあるが、元三菱商事の近藤雅世氏と数ヶ月間協議し、本年1月に(株)フィスコ・コモディティーという会社を設立した。今回、早速金と石油の市場動向に関して寄稿して頂いたが、エネルギー関連情報は昨年以上に金融市場において目が離せない存在になるだろう。

エネルギーの代表は勿論石油であるが、昨年を通じて明らかになったことは、金融市場はガソリンや天然ガスなどの市況、及びその在庫統計などの指標にも精通していなければならないということであった。勿論、他にも注視すべき市況がある。英国バルチック取引所の運賃先物もその一つかもしれないし、1オンス500ドルを軽く突破して25年ぶりの高値をつけたゴールドからも目が離せない。以前から金融市場がウォッチしているCRB指数などの穀物市況も無視できなくなってきた。

またエコロジーは、化石燃料の利用と言う意味でエネルギーと深く関係するが、トヨタのハイブリッド自動車に代表されるように、また温暖化ガス削減取り組みに見られるように、産業界に与える影響は日増しに強くなっている。企業経営者は、何らかの形でエコロジーを意識せざるを得ず、金融市場もまたそれに反応していく。

既に幾つかのヘッジファンドもこの分野に着目している。CSRファンドのようなやや理念先行型の運用ではなく、エコロジーを一つのパラメータとする具体的、金銭的な金融取引の流れが高まる可能性もあるだろう。既に温暖化問題を契機に「木材」や「森林」を投資対象とするファンドも既に出現していると聞いている。

またやや視点は違うが、鳥インフルエンザの被害を対象とした保険の再保険にCat Bondが利用され始めている。スイス再保険はその先駆者であり、ヘッジファンドが早速投資家としてこれを購入し始めている。こうした取引を契機にCat Bondの市場が拡大すると見る人もいる。これもまた別の意味でエコロジーと金融の接点を強化するものと言えるかもしれない。

◆ 世界的な株価上昇

だが、三つの「E」の中でも金融ビジネスにとって一番気になる対象は、やはり「エクイティ」であろう。日本の場合、昨年来の株式市場の活況は「ネット経由の個人投資家急増、デイトレーダーによる構造変化」と言った表現で形容されがちだが、実態は相当違うのではないか。ネットを通じた新規参入の個人投資家の主なプロファイルはプロ顔負けの短期売買であり、実際の「投資残高増」への寄与度はそれほどでもない。むしろ国内勢では国債や貸付金から株式に向かった銀行による影響の方が大きいだろう。また前述のように海外投資家が日本株に与えたインパクトの凄まじさも軽視してはなるまい。

昨年末、米国の株式に大量の海外民間資金が流れ込んでいた統計が米財務省から発表されたが、似たような状況は日本の株式市場にも起こっている。因みに2005年1-10月の3市場現物取引売買シェアでは、外国人投資家が46%を占めていた。またドイツ上場企業の時価総額の25%は海外資金が占めると言われるように、欧州でも「外人」保有株が急増している。

日本を中心に見れば、世界のカネが日本の株式に集まっている様な感もあるが、それは正しくない。世界中の資金が、日本を含めて世界中の株式市場を駆け巡っているのである。客観的に見れば、その一環として日本株も買われているというのがより正確な記述であろう。因みに昨年の株価指数の上昇率は日経平均では約32%だが、エジプトの100%やロシアの80%は別格としても、メキシコの50%、トルコやインドの30%、ブラジルやドイツの25%など、日本同様或いはそれ以上の上昇相場は至る所で見られる。昨年の株式市場に関して言えば、むしろ世界経済を牽引したはずの米国と中国の低迷が特筆されるべきであろう。

経済成長率では他地域を圧倒する米国と中国の株価が上がらず、日本とEU、そして産油国やインド・ロシアなどの株価が評価されている現象は、本年も継続しそうな気配である。そこには、世界的株式保有構造の微妙な変化があるのかもしれない。米国と中国には、曰く言い難い不安材料が見え隠れしているからである。米国の構造的赤字問題と外交力の翳り、そして中国における一党支配力への懸念は、株式市場における資金吸引力に直接影響している。容易に消えることのない懸念要因、これもまたグローバリゼーションの一つの帰結である。

グローバリゼーションには、何となく無機的な資金がリターンを求めてグルグルと回り、まるで世界中の「優良投資対象」をグーグルで検索するようなイメージがある。だが株式投資というのは、元来、国家という存在をかなり意識して動く株式投資はそもそも国家観と離れては存在し得ない。それを単純に「ヒト・モノ・カネ移動の自由」というグローバリゼーションの文脈で観察するだけでは足りない。

有価証券とは言っても、それは政治・外交と無縁ではない。ジャーナリストから外務省の副報道官に転じた友人の谷口智彦氏が本誌で以前述べていたように、有価証券も安全保障も、英語で言えば結局はSecurityなのである。

資本市場の観察においては、グローバリゼーションに加えて、国家と国家のチャネルを意識した非可逆過程としての視座を持つことも必要になるだろう。それはまさしく国際政治の眼でもある。昨年来の日本株の高騰は、日米の異様な政治的接近や日米経済構造の同質化などと無縁でないように思える。日本は、名実ともに「米国のAlternatives」に位置付けられたのかもしれない。

◆ 株高に潜む病巣

因みにPHP研究所の「Voice 1月号」が勇ましい特集「日本経済は買いだ」を組み、「どこまで続く、景気回復」という題目で他の5人の論客に混じって私も一文を書いた。私のトーンだけが警戒的で、他は手放しのニッポン経済礼賛の嵐であった。

クレジット市場を見てきた人間の哀しい性(さが)か、リスク要因ばかりが目に付く習性は容易に直らない。まあ結果的には私の独り負けという可能性もあるが、詳細は同誌をご参照願うとして、資産価格上昇に酔う日本社会の市場感覚に対して一つだけ指摘しておきたい。

株価上昇によって「資本市場経済による利益」を謳歌する人々が増えているとは言え、日本人の大多数は、大企業経営者も含め本音では市場経済が大嫌いなのである。市場メカニズムを否定するのが何となく非現代的で知的でないと思われるのが嫌なので表立っては反対しないため、それが見えにくくなっているだけだ。それに加えて、フロイト的診断で言えば「市場批評を意識世界に取り込まないメディア」がそれを映し出さないので、反対論は益々目立たなくなるのである。高速道路問題で見え隠れした「市場性対非市場性」の議論も、結局深堀りしないままゴミ箱に捨てたのが日本のマスメディアである。

株価上昇は賛成だが市場主義の浸透は反対という、この「虫の良い精神構造」をどう評価すべきであろうか。株高は日本経済の再評価と言い放つ一方で、黄金株を肯定し、新興企業による資本参加を拒絶し、株式の非上場化を進め、金利コストは凍結せよと言う。私には、精神分裂としか思えない社会認識である。

勿論、経済の市場概念の定着は必要だとして市場メカニズムの導入に賛成する人も少なくない。だがその社会観を「公理」に置く風潮には抵抗が強い。その問題をどう解くべきか、米国式とはまた違った連立方程式の解法を日本社会は必要としている。その方法論は、狭い金融通念からは出てこないのではないか。

日経平均は、楽観主義者が主張するように、本年、18,000円を超えて20,000円を目指す可能性もあるかもしれない。だがその時期に至ってはじめて、市場は「果たしてこの株価は何を意味しているのか」と立ち止まって悩むことだろう。株価はそこで行き先を失うかことになりはしまいか。それは意外と早い時期に訪れそうな気もする。

だがそうした株式に対する思考実験が繰り返されて初めて、日本のクレジット市場への認識が高まることになるかもしれない。日本のクレジットが未成熟なのは、日本が欧米に遅れているからではなく、単に「株式の社会的意味」を深く考えてこなかった所為なのではないか。とすれば、今回のエクイティの時代は、単純な株価上昇の時代ではない。日本の経済社会にとって株式とは何か、日本が社会と株式の意味を捉えなおす機会が与えられる格好の一年になるのではないか。その一年を無駄にしたくないものである。

2006年01月13日(第114号)