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◆ 会社とは一体ナニモノか

◆ ライブドア事件

資本の力はその自己増殖力にある。そもそも増殖することが資本の使命であり、「貨幣論」でお馴染みの岩井克人教授流に言うならば、「貨幣は貨幣であるが故に貨幣である」のと同様に、資本は資本であるが故に資本なのである。その「資本の論理」でいけば、村上ファンドらの理屈に一点の曇りもない。ライブドアの勢いを助成したのも、そうした論理であった。

彼等の功績の側面は、否定すべきでない。15年間にわたる景気停滞で厭世的、退廃的ムードに包まれていた日本社会に、企業とは何か、株主とは何か、ビジネスとは何か、を刺激的に問うた意義は大きい。そこで覚醒した企業や経営者もいる筈だ。プロ野球もテレビ局も、そして電鉄会社も目が醒めた。

だが、マックス・ヴェーバーを引くまでも無く、倫理感と資本主義の生育が無縁ではないのも事実である。筆者が以前、日経ビジネス誌の依頼で書いた「金融機関における倫理と論理の相克」(2003年9月2日)は、まさにその点を指摘したものであった。企業の経営とは、常に社会倫理感とビジネス・資本の論理との狭間で揺れ動くものなのだ。それを株主が所有権を主張してその資本の論理だけで割り切れるならば、それは金銭的計算主義以外の何物でもなくなる。資本主義と金銭主義は似て非なるものである。ライブドアの誤解の源泉もそこにある。もっとも、彼等の失敗の直接的原因は、金融を甘く見たことに尽きる。後講釈だが、堀江氏に真の金融のプロとの接点があったなら、シナリオは大きく違っていた可能性もあろう。

さて、岩井教授はユニークな会社論をも展開する。周知の通り「会社はヒトとモノの両面ある」という認識から出発するのである。言ってみれば、右からみた顔相はヒトであり、左からみたらばモノである、といった奇妙な産物である。この二面性こそが会社の所有権の議論を複雑化させる、と岩井教授は自説を強調する。

商法上、会社は株主が所有していると解釈されても、それは飽くまで会社の顔を左から見た議論に過ぎない。法律が会社の全体像を決める訳ではない。法律ですら、(いや憲法ですら)時代背景や社会通念の変化によってコロリと変わってしまうのだ。商法などを経典の如く盾にして議論している場合ではない。

では何を基準に置くべきか。多分、そんな絶対基準などないのである。資本の論理がいかに鉄壁のように思えても、50年くらい経てば買収ファンドの席巻が笑い話になっているかもしれぬ。会社とは、資本の論理とは、一体何物なのか。それを考察する出発点に、この岩井教授のヒト・モノ混在論を選ばせて頂こう。

◆ 会社二元論

既に述べたように岩井説では、会社はヒトでありモノである。教授は、2階建ての家の例を引き出して、2階はモノとして株主が所有し1階はヒトとして商品や備品を所有しているといった構図を示す。米国流の株主主義や村上ファンドの論理は、2階を重視する(或いは1階の存在を認めない)ものだ、という解釈である。

会社がすべて株主の所有物ならば、あるデパートの株主は、そこで販売されている商品を勝手に費消しても構わないことになる。個人商店であればそれも可能だが、企業法人となれば、たとえ100%株主であっても、陳列商品を勝手に持ち帰って良い訳ではない。阪神電鉄の株主だからといっていつも電車に無賃乗車出来る訳でもないし、阪神球団の選手を勝手にトレードする訳にもいかない。

株主は確かに会社のある側面を所有している。だがそのすべてを所有している訳ではないのだ、というのが岩井氏の会社論である。そして株主が会社の所有者であると考える米国型株主主義は、今後の主流にはなれないと説く。それは、時代が既に産業資本時代から、ポスト産業資本時代に移行してしまったからである。ライブドアや楽天、そして村上ファンドがあれだけ苦労しても相手企業の経営を握れなかったという敗戦の理由は、ポスト産業資本の時代に、産業資本の時代感覚で買収を行おうとしているからだと解説する。

産業資本時代とは、集約的工場時代の流れを汲むものだ。工場に安い賃金で労働者を集めて、商品を製造する。低賃金労働力の工場流入が継続する限り、会社経営の鍵は資金力となる。そこではカネが物を言う。

だが次第に労働コストが高まってくれば、付加価値で勝負せざるを得ない時代が来る。差別化を可能にするのは企画力や開発力であり、単なる労働力ではなくなる。会社経営の鍵は、高度な人的資源に移行する。現代の日本社会が、サービス企業を中心にその段階に達していることを否定する人は少ないだろう。これがポスト産業資本時代である。

会社二元論に戻れば、この時代は会社がヒトとして商品を所有する1階部分が重要さを増す。これを単純にカネで買うことは出来ない。だが、敢えて札束で買おうとしているのが、ライブドア、楽天、そして村上ファンドである。彼等はヒトをカネで買えると信じているのだ。こうした人々に対し、カネで買えるヒトの程度などたかが知れている、と説教しているのが岩井氏の見方である。

◆ 企業買収はどうあるべきか

だが、この極めて明快な論理展開にも現実的な壁がある。それは岩井氏も認めているように、会社のヒト・モノのウェイト付け方法は時代背景やイデオロギーによって変化してしまうからである。従って、いま現実世界で起こっていることに対し、それが間違った行為なのか正しい行為なのかは、歴史を振り返って相対化するしかない。

勿論、既に述べたように会社所有権に絶対的基準など無いのだから、そうした判断基準もあるはずも無く、「村上ファンドは全く間違った投資をしている」というような実務的な判断は下せない。岩井氏による批判も「村上ファンドがカネでは買えないものを買おうとしている」という観察でしかない。どうも隔靴掻痒の感じがしないでもない。ヒトを重視した投資で無ければならない、というメッセージも新味はなく陳腐である。歓迎される投資とはどんな投資なのか、岩井流会社論からは明快に演繹されてこない。

それを買収サイドからの視点から、企業買収には善と悪がある、とむしろ買収行為を二元論で捉える考えを表明しているのが元ユニゾン・キャピタルの佐山展生氏である。中央公論への寄稿において、村上ファンドのような投資戦略を「内部に隠された価値を引き出してただ配当するだけ」として批判している。結局は会社の価値を損ねているのだから、それは健全な行為とは言えないとして「悪」の投資であると見る。その文脈から、ライブドアや楽天の戦略に関しても肯定的ではない。「会社のことを思う」株主であることが良い買収なのだ、と主張している。たしかに自分のことしか考えなかったライブドアは、株式交換で利益還流という禁じ手の罠に嵌ってしまった。

だがこれもまた資本の利用者としての都合の良い解釈のように思える。確かに、会社のこと思ってくれる株主は有難いが、株主だって豹変するのである。どんな聖人君子がファンドの経営者になっても、そのリターンが悪ければ投資家は逃げてしまうのだ。結局は企業価値を高めるのが最終目的であることに変わりは無く、その物差しがやや長いか短いかの差に過ぎない。それなのに、買収時点で善悪判断するのは身勝手な議論であろう。もっとも、買収行為に勧善懲悪的な判断を持ち込むのは現代メディアの好きなやり方であり、一部評論家の同調も得て、こうした座標軸は既に社会に流布してしまっている。

一方、同じ中央公論への寄稿したジャーナリストの東谷暁氏は、絶対的に優位なコーポレート・ガバナンスなどない、として企業の運営方法や社会的位置づけの問題は識者が語るほど易しいものではないと論じ、企業の主役は株主ではなく株価なのだ、と興味深い指摘を行っている。さらに米国型M&Aは、日本企業のビジネスへの挑戦だけでなく、文化的及び組織的なレベルでの挑戦であると説く。確かに現代の企業買収は日本企業に古いものを捨てる決断をさせてはいるが、新しいものは何かという意識水準をもたらすには至っていない。

株価上昇に浮かれたせいか、「日本企業は変質した」といった論調も増えてはいるが、私も日本企業はまだその変革途上でもがいているに過ぎないと見る。昨今の企業買収は「新しい企業経営像を示すのだ」と言いながら、そこに幻覚を与えているだけなのかもしれない。但し、東谷氏が主張するように、すべての米国型M&Aや企業統治方法が不完全で模倣すべきではないもの、といった考えにも賛同できない。米国型にも、模範となるべき道標は確かに存在しているからである。また株価が企業の主役だと言い切るためには、まず定期的にバブル的症状を引き起こす市場の脆弱性に対する指摘・点検が必要であろう。

◆ 上場企業のプット・オプション

以上、三名の論考を整理してみれば、岩井氏は企業の捉え方を、佐山氏は買収行為のあり方を、東谷氏は企業の主役を、それぞれの論点に据えて最近のM&A或いは資本の論理を批判的に観察していることがわかる。考え方は三人三様であり、ライブドア事件を見るにつけそれぞれに首肯できる部分もあるが、現代の資本主義の方向性を歴史的に位置づけようとする際の座標軸としては何か物足りない。

アグレッシブな米国型M&Aは今後の主流になれない、というのは感覚的に理解できるにしても、ヒトに焦点を当てよ、会社のことを思う株主になれ、ガバナンスに定番は無い、と言われても、ピンと来ないのである。つまり、いったい会社とはどういう社会的存在なのかを、三人とも答えていないに等しいのだ。

上場(公開)と非上場(非公開)の区分を一つの視点に置いてみよう。この二つの間には言葉で表す以上に大きな壁がある。非公開企業が公開する、ということは企業がさなぎから成虫に変態するよりもっと激しい変化である。外見だけでなく、中身も全く異なる企業に変化するからである。誰もが株主になれる企業とは、「市場が許容するすべてのシナリオ」を経営が真摯に受け容れる準備があるということである。

公開企業に就職しそのまま経営者となった人達には、その違いが解らぬようだ。自分たちと考えの違うヒトは株主にはなってはいけないのだと思い込んでいる経営者もいる。公開企業とは、資本市場の利点を存分に使用できる半面で、資本市場が許すすべての行為を受け容れる覚悟が必要なのである。多くの公開企業の経営者は、資本市場の利用に関するコール・オプションを獲得したことには敏感であるが、一方でプット・オプションを売っていることに気付いていない。資本市場の「良いとこ取り」は許されないのである。

資本市場においてコール・オプションを獲得することで得られる権利とは、資金調達の柔軟性の確保であり、IPOにおいては当初株主に対して利益実現の場を提供することである。それは、企業が公示義務や上場維持コストなど有形無形の負担というオプション料を支払うことで得られるものである。

だが、コール・オプションの概念は容易に理解できるとしても、プット・オプションはそうでもない。プット・オプションの売り手として対価のないことは不自然ではないか、との疑問も湧くだろう。それこそが、エンロンやライブドアが陥った罠である。このプット・オプションにはそもそも対価がないからである。オプションの売り手には必ずオプション料がある筈だ、と考えるのは金融工学の弊害である。上場に関するプット・オプションとは、社会倫理の別表現なのだ。

金融を工学的手法だけで理解しようとすれば、オプション料のない権利・義務関係はありえないということになる。だが金融も社会構成要素の一つとして、社会におけるビジネス倫理が必要となることは言うまでもない。上場企業とは、そうした義務を無制限に、しかも対価無く請け負っている存在なのである。勿論、非上場企業だからといってプット・オプションの売り手でないとは言い切れない。社会との距離感が密接になればなるほど、株主や自己の利益だけに目を向ける経営は許されなくなるのである。

◆ 資本主義の矛盾

これに対して、ライブドアのような投資家も倫理感に基づいて株主として受容しなければならないのか、という疑問も起こるだろう。偽計の発表や風説の流布など、エンロンやワールドコムにも匹敵(規模は桁違いだが)するような詐欺的経営を行う株主に対しては、拒絶する権利があってしかるべきだ、との反論は可能かもしれない。

だが、これは資本市場だけで解決できる問題ではないのである。資本市場に「犯罪者的な投資家」や「非倫理的な投資家」をスクリーニングする機能はないからだ。お金さえあれば、誰でも株主になれる。それが資本市場の強みである以上、そこに蓋をするのは資本市場の自殺行為となるだろう。最近の行政・規制当局の姿勢にはこうした動きが見え隠れしている。資本市場は、生まれながらにして自己矛盾を抱える資本主義支援のシステムに過ぎない。市場だけを悪者にするのは愚かである。

従って、買収者に善悪のラベルを事前に貼ったり、予め買収者を締め出すような制度を導入したり、買収者に倫理感を説いたりしても、現代的資本主義の弊害を抑えることは出来ない。資本主義の矛盾が資本市場の矛盾として相似的に胚胎されている限り、市場に小細工を加えて修正を図ろうとするのは、小手先の縫合策でしかないのだ。

今般のライブドア事件で、後講釈のような批判が続出している。それらはほとんど聞く価値の無い言論だ。残念ながら我々は、資本市場や株式制度への規制によって資本主義が抱える矛盾を取り除くことは出来ないという一種の虚脱感を認めざるを得ないのである。資本主義の矛盾を払拭できぬままの揺らいだ社会において、エンロンやライブドアの再現は避けられると信じるのはあまりにナイーブである。市場の力もまた限界的である。

ライブドアを個別に攻撃するのは、瑣末な指摘の好きなジャーナリズムに任せておけばよい。資本市場に携わる者の仕事は、資本主義の矛盾が如何に市場において増幅して現われ、それが結果的にどれほどの社会的悪影響をもたらすのかを警告することではないか。市場が、東証がどうだとか規制がどうだとか天に向かって唾吐くような批判に終始し、その本当の役割を果たせないのならば、それは我々自身の敗北である。

2006年01月27日(第115号)