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◆ 「格」の好きなニッポン

◆ 流行する格差社会論

格差社会の議論が沸騰している。希望格差社会、下流社会などの刺激的なタイトルの書物がベストセラーになり、一億総中流の時代は終焉を迎え、メディアは率先して二極化された現代社会の是非を問いかける。格差など拡大していないと弁明する官僚もいれば、格差はあって然るべきだと開き直る首相もいる。一方で、下流社会層を拡大しているとして日本の政策を批判する声も強い。

「格差」という言葉は、文字通り「格」の差である。広辞苑を引けば、品位や価格、資格、等級などの差であると定義している。確かに「格差」という言葉の響きの中には、日本人の好きな品格や人格といった「対象の気品」における落差を表すイメージがある。また、格調や厳格、格式といった「風情の気品」の差を示す味わいもある。一方で、価格のように即物的なモノの値段にまで「格」をつけてしまう。「格」は日本人にとって極めて応用範囲の広い尺度を表す価値観なのだ。

藤原正彦のベストセラーも「国家の品格」(新潮新書)である。国としての品格が落ちて、日本が歴史的相対性の中でまさに「下流」に成り下がりつつあることへの警告である。これは、やや性質が違うものの、日本国債が「格付け機関」から「格下げ」されてボツアナ並みの国に「格落ち」になったあの当時の世論の高まりを思い出させる。ホリエモン事件をきっかけに、巷では「市場の品格」などという議論も流行っているそうだ。

格は高くなければならぬ。皆そう思っているが、どうやら最近は国も格落ち、人間の格も落ち、社会的な格も落ちて下流に留まる人が増加傾向を示しているという。現在白熱した議論が展開されている「格差社会」で問題になっているのは、中でもまず所得格差である。これは国内だけの問題ではなく、米国や中国などでも大きな問題に浮上しており、さらにはグローバル化が進む各国間での所得格差が拡大していることも注目されている。

所得格差は本来統計的な分析が必要であるが、これまでの国内格差の議論において数字をベースにした調査は乏しく、基本的には直感的・感覚的かつジャーナリスティックな話題が中心だ。勿論、直感が正しいことも多い。ただ、卑しくも国会で議論するような場合には、ある程度客観的なデータが必要だろう。これも私の直感でしかないが、現在の「格差論」は、格差の存在が昔に比べてより透明に見えるようになっただけ、という気がしないでもない。

◆ 宮台流「格差」解釈

ニートとして知られる若者像を、下流社会に澱んでいく若者たちと捉えがちな我々世代の「古い意識」を批判するのが気鋭の社会学者、宮台真司氏である。学界を捨てて主に論壇の世界で独特の論陣を張る宮台氏の弁には、時代を抉り出す鋭さがある。オタク系の分析でも知られる同氏は、Voice3月号の中で希望格差の存在を敢えて肯定し、豊かなポストモダンの社会にあっては参加したいと思える社会構想なしに、格差社会を糾弾し若い世代に自己実現を煽っても仕方が無いと述べている。

脱社会的になる若者を、デザイン力のない社会の立場から批判しても意味が無いという主張である。現代社会に多発する様々な猟奇的犯罪を、現実と虚構の区別が付かない若者によるものという診断で解釈してきたのは間違いであり、むしろ彼等はきちんと区別をつけた上で、虚構よりも現実社会を尊敬すべき理由が見出せないのだ、と宮台氏は述べている。こうした脱社会性が若い世代が急速に広がっているのだろう。

以前ある企業の役員が、最近の若い世代はバーチャルな世界に生きていて現実と向き合おうとしない、とぼやいていたのを思い出す。その時は私も同感だと述べたのだが、宮台氏によればそれは我々の誤解であるという。現実社会は実りが薄く、ゲーム世界は濃密である。彼等は「現実社会に濃密さが期待できるなら、現実に乗り出してやってもよい」という感覚なのだ。現実に乗り出す恐怖感から引きこもるのではなく、現実と虚構を混在させているのでもなく、むしろ充実感のある虚構世界から現実社会の淡白さを覗き込んでいるのである。彼等は現実逃避しているのではない。実り薄い現実を、彼等自身の座標軸と価値観で冷やかに観察しているに過ぎない。

そうなると、我々の常識であるレギュラーな人生は、彼等には全くレギュラーには映らない。高学歴・大企業といったコースを歩もうとする輩を「イタイ奴ら」と呼ぶ。これは僻みではなく本音で見下しているのだ。実り薄い「レギュラー・コース」を鏡の向こうから哀れみ、フリーターやニートと呼ばれる生活を始める。宮台氏は、彼等が「腹を括ってまったり生き」ていると表現する。かといってその行動原理を肯定している訳ではない。彼等に参加せよ、と呼びかける前に、彼等が参加意欲を示せない社会とは何かを問いかける必要がある、と現代の固定観念を批判する。

宮台氏は、欧州に見られる「自治と補完の原則」と米国に見られる「仕事や消費の自己実現」とを対比させ、日本の行く先を探る。同氏の結論は、欧州流の「選択共同体」への道である。すべての人間に創意工夫や自己実現を要求する米国式社会は、幸せになろうとして自らを不幸にするという構造的な皮肉を生む。実りなき社会への参加を拒絶するニートなどの増加は、その「煽られた末に自分の首を絞めるアイロニー」に陥る社会の姿への反乱を映し出しているかのようだ。

「善意と自発性」に対する概念は「役割とマニュアル」で描写される。後者が現代の米国社会像を象徴するものであるのは自明である。誰でも入替えの効く「役割とマニュアル」の世界で、利便性が独り歩きし、生活世界が空洞化していく。不安と不信が高まる一方で規律訓練のコストが上がる為、マトモな人間がいなくても回る社会が必要になり、さらに機能的に入替え可能な過剰流動的社会が生まれていく。

宮台氏は明確に述べないが、現代米国経済を「自己実現を煽る社会」と表現し、その必然的腐敗を読み込みながら、ニート急増や下流社会意識の増大といった風潮の中に日本でもそれが浸透しつつある、と警告しているように聞こえる。米国はその空洞化を、宗教的共同性で埋める(或いは放置する)ことが出来るが、日本にはそうした共同意識はないのである。

◆ 金融の格差社会

さて金融の話題に戻ろう。既に述べたとおり、金融には価格や資格、或いは格付けなどの格があり、格差の話題には事欠かない。もっと広く「格差」を探せば、例えば銀行と証券会社の格、金融市場と商品市場の格、フロントとバックの格、融資業務と債券業務の格、なども金融における「格差社会」である。筆者はその昔、証券業務におけるプライマリー部門とセカンダリー部門をまたぐ格差社会で、酷い差別待遇に遭遇したことがある。そのトラウマが消えないので、日本の有識者が語る市場主義なる言葉は、時代を意識しただけの偽善的な醜いカモフラージュではないかと疑うことさえある。

また、地域的市場格差意識が激しいのも金融の特徴である。ニューヨーク、ロンドン、東京以外は「格落ち」市場と見做される時期が続いているが、バブル崩壊時期には東京市場は一時エマージング市場扱いを喰らったこともあった。現在、為替や株式の活況で東京市場も元の番付に「格上げ」して貰ったようだが、いずれアジア市場間の「格差」は縮小していくだろう。

さて、その地域的金融市場で最も高い横綱級の「格」を誇っているのはニューヨークであり、やや差を付けられながらも大関クラスの「格」を維持しているのはロンドンであることに異論は少ないだろう。三番手の東京市場を関脇と呼ぶには気が引ける。上記二地域との比較感での率直なイメージは、前頭筆頭くらいであろう。

米国が日本の金融市場の開放や自由化を迫っていた1980年代前半には、おそらくもっと格差があっただろう。だがバブル絶頂期を迎えた頃、日本は金融・経済の両面で米国の影を捕まえたと思ったのである。特に当時の金融界では「海外市場より日本市場が面白い」という声が圧倒的であった。金融においては、格差は縮小・解消したどころではなく、むしろ優位性を感じていたのだ。だがそれが虚しい夢であったことに気付くまで、3年もかからなかった。

日本は金融格差社会の下流に甘んじることになる。「格」の好きな日本人には耐えがたい屈辱の時期が始まったのだ。米国や欧州の金融資本の中には日本を見捨てていくところもあった。苦節15年、漸く日本の金融は「格」を取り戻したように見える。金融機関も、勝負はさておき、再び欧米のライバルと同じ土俵に上がれることになったように見える。「金融格差」は解消した。誰もがそう思い始めている。

◆ アンビバレントな米国金融

だが宮台氏の言葉を思い出す必要はないだろうか。現代金融もまた、米国を中心に経営者や労働者が率先して自己実現を図り、アイロニーを胚胎した再編を繰り返して成長を遂げてきたものである。その姿は確かに猛々しく、金融という先端産業に相応しいかもしれない。

だが投資銀行という妖しげな言葉に集約される米国金融は、まさに「代替可能な機能でしかない人々が、過剰流動性という恐怖を抱えながらも、空洞化の危険性を感じることなくマニュアル化された経済社会を作り出す機械」に堕落しつつある。その機械が演出するのは、まさに自己実現の煽りである。

それが、米国が納得する金融社会であっても日本が納得しうる金融像なのかどうか、筆者には自信がない。そもそも本音では市場社会の嫌いな日本経済が、どこまですべての人々に自己実現を煽って経済社会の安定化を計れるのだろう、という疑問も尽きない。

前回の繰り返しになるが、米国金融には共感する部分も多く、学習するところもまだ沢山ある。米国金融を否定しても始まらない。そこは誤解されてはなるまい。だが米国とはアンビバレントな存在であることも忘れてはなるまい。米国外交や米国社会だけでなく、米国金融もまた世界中から羨望と侮蔑の両面で見られる対象なのである。

下流社会に「淀む」若者を叱咤するだけで、デザインなき社会へ参加させようとするのは問題だと宮台氏は言う。ニート問題とは我々の問題でもある。彼等の視線に我々が見過ごしている大きな意味が含まれているからだ。そこには、現実の病巣を捉える威力があると言って良かろう。

金融的「下流社会」に一度沈んだ日本も、昨今の若者同様に覚めた眼を以って、米国金融的な「上流社会」における虚しさ、卑しさの部分をじっくり観察するのも良いかもしれない。結果的に、「善意と自発性」を価値観として育む経済社会を目指すという、米国とは別世界の社会観への眼が開かれることにならぬとも限らない。

因みに、米国型市場社会とよく対比される北欧型社会の建設理念は、1920年代の米国の社会通念を基本にしたものであった。スウェーデンなどは単なる福祉社会ではなく、労働インセンティブを促進する社会構造をもつ。それはそもそも米国が開発した社会モデルであったが、米国に根付いたのは反対に、非労働への懲罰システムであった。

米国はいろいろな意味でお手本になる国である。米国金融も然り、だ。彼等の金融の理念を学び、一方でその実践を時には批判的な眼で観察することも、今の日本には必要なのではないか。

2006年02月24日(第117号)