HOME > 2006

◆ メディアと金融の公共性

◆ 政治に擦り寄るNHK

昔英国に住んでいた頃、テレビ局は三つしかなかった。国営放送のBBC二つと民放のITVである。昔と言ってもほんの20年ほど前のことであり、日本では既に民放キー局5社による視聴率競争が激化していた。国も放送衛星を打ち上げNHKによる衛星放送も秒読みとなっていた時代である。当時、英国BBCには昼の番組が無く、夕方までテレビ画面にはテストパターンが流れていた。

それは質の高い番組作りに専念する理念の裏返しでもあったのかもしれない。当時、BBCテレビには「Spitting Image」という強烈な風刺番組があった。ご存知の方も多かろうが、この番組にかかってはサッチャー首相だろうが、エリザベス女王だろうが、或いは同盟国のレーガン大統領だろうが、形無しである。まさに国民の目から社会や政治を風刺する国営放送らしからぬ番組であった。だが、その「国営放送らしからぬ」という形容自体、筆者が放送の「日本的概念」に囚われていた証左かもしれない。国営放送とは国が管轄する放送だから政府に配慮する必要があるのでは、という固定観念である。

平成13年放送の「ETV2001 シリーズ戦争をどう裁くか」を巡る、NHKへの政治的圧力問題は、結局ウヤムヤのまま闇に葬られることになった。NHKと朝日新聞との論争も、朝日の捏造・歪曲報道なのか、NHKの隠蔽なのか、解らないまま時間だけが経過していった。筆者には、どちらが正しいのかを推量する材料も力量も無い。だが、先般メルマガで取上げたように、日銀量的緩和解除の決定報道や、ホリエモン逮捕報道、皇室ご懐妊報道など、政治家のリーク無しに、そしてそれを嬉々としてメモ書きする姿勢なしには考えられない昨今のNHKのスクープ報道を見るにつけ、NHKの政治擦り寄り体質は極めて明瞭であると考えざるを得ない。

従って、どうやら朝日新聞の指摘も強ち「虚偽」「偏向」とは言い切れないのではないか、と不信感も抱く。勿論、NHKにも言い分はあるだろう。だが「皆様のNHK」がそれを「皆様」に説明できないのでは、放送局としての使命を果たしているとは思えない。筆者も1年間NHKでコメンテーターをやったので、NHKで働く人々の報道姿勢や理念の高さはある程度理解しているつもりである。だが、日銀の金融政策決定会合のリークなど言語道断である、という基本認識が共有できないのは辛いことだ。

たしかにNHKにも資本の論理が働き始めており、視聴率を稼ぐ必要性も生まれている。総務省のヘッドが竹中氏となったことから、余計に気を遣うことも増えているらしい。NHK改革案に関しては、NHKは表面上「国民の考えを反映すべきだ」と反論しているが、NHKと国民との距離を乖離させつつある張本人は、誰あろうそのNHKである。困った時にだけ、国民に助けを求めるのは如何なものか。メディア論の松田浩元立命大教授は、「皆様のNHKなのではなく我々のNHKであるべきだ」と喝破している。つまり、国民の自由な発言の場を提供する筈のNHKが、政治のぶら下がりメディアに落ちぶれてしまったということでもある。その哀れな姿は、消費者金融との提携強化で連発するテレビCMを大臣から批判されるなど資本と公共性の二面性に悩む金融ビジネスと重なって見える。

◆ 公共放送の歴史

NHKの歴史に、戦争の歴史が付きまとっていることは否定し難い。現代のNHKを考える上では、戦前・戦中というよりも、戦後における米国の影響力が大きいと東大の吉見俊哉教授は語っている。米国は、日本占領下で国営放送のあり方を決定付ける大きな権力を持っていたからだ。以下、かなり大雑把ではあるが、NHKの変遷を辿ってみよう。

戦前の放送は、電波は国家のものであるという「無線電信法(1915年制定)」によって運営されていた。筆者は無線従事者の国家免許を持っているが、それはこの法律が撤廃された後1950年に制定された電波法に基づくものである。この現代的な法律は、米占領軍による民主化政策の下で、電波の国家的公共性を市民的公共性に転換したものである。

そしてNHKなどの放送もまた、同年新たに制定された放送法によって運営されることなった。但し、敗戦の1945年から新たな法律が制定される1950年までの間と、1950年以降の「放送の民主化」には、米国におけるアジア政策変更の影響による大きな違いが見られることに留意する必要がある。

戦後直後のNHK放送委員会はリベラル進歩派の文化人が占め、米国の後押しもあって組織・放送内容の民主化が進められたという。戦後初代NHK会長にマルクス主義者で社会統計学者の高野岩三郎氏が就任していたとは、今のNHKしか知らぬ身には想像もつかないことだ。

当時のNHKの番組改革ポイントとして、自由な放送ジャーナリズム、放送記者の採用、そして政治・社会風刺や娯楽などの番組制作といった特徴が挙げられている。そこには、政治からの独立と視聴者大衆に根ざした放送の主体性の確立、そして放送の社会的責任が自覚されていたように見える。

だがこの放送の民主化は、米国の朝鮮戦争の勃発を直接の契機とするレッドパージによって大きく変化していく。放送の政治からの独立を担っていた電波管理委員会は1952年に廃止され、政府の放送介入への道が開かれていく。前述した松田氏は、これが現代におけるNHKの問題の根源であると述べている。放送の民主化は頓挫し、NHKの御用放送化が進められていく。NHKの設立法でもある放送法には、政府からの独立が謳ってあるが、現代の日本人は恐らくそんなことを信じてはいない。政府を批判・風刺するNHK番組など、物心ついてから見たこともないからだ。BBCの「Spitti Image」に驚かされたのは無理も無い。

1970-80年代には、こうした風潮がNHKから民放にも波及し、新たな「放送の変化」を生んでいく。つまり無用な政治との軋轢を生まぬよう、ドキュメンタリーを止めて徹底的に娯楽に傾斜するという変化である。現在、政治をテーマとした民放番組もあるが、あれは政治をショーに見立てた娯楽番組の域を出るものではない。政治を報道部でなく社会部が管轄して茶番化しワイドショーとして報道しているに過ぎず、風刺と言えるほどの高尚な代物ではない。

これは、放送の公共性の論理と、資本の論理のバランスが崩れ始めたことをも意味している。つまり放送の編集において公共性が薄れ、視聴率=利益という資本性が強まっているのである。番組を制作する人々も、それが正しい方向だと思い始めているようだ。そして、NHKにすらそうした風潮が見え始め、竹中総務相の改革案はそれをさらに助長しようとしていると見ることも出来る。

◆ 第三の視点

ここまで政治と放送を、対立・癒着という二者の構図で見てきたが、本来、放送を考える際に忘れてはならないのが視聴者である。NHK改革も、総務相とNHKとの対立構図が浮かび上がるが、本来の主役は視聴者である。その意味で、橋本NHK会長が改革に関しては国民的合意が必要と、先走る政府を牽制したのは正しい。放送改革は、市場化を進める政府、既得権益を守りたいNHK、そして放送の民主化を願う視聴者という三者構造の中で議論されるべきものであるが、この最後の視点はいつも削られがちである。

吉見教授は、大学改革にも同じことが言えると「現代思想3月号」の中で述べている。市場の論理を導入する政府、既得権益を守ろうとする大学、そしてその渦に振り回される大学生、といったところだろうか。だがこの三極構造的な問題は、放送や大学だけでなく至る所で噴出しているようにも思える。

金融も然りである。資本の論理を主張するのはファンドや新興企業、そして一部のリベラルな金融当局であり、既得権益を守ろうとするのは大企業や政府系を含む大手金融機関である。そして貯蓄から投資の時代だ、年金は危ない、と煽られて慌てふためく一般人を加えて三極構造が出来上がっている。1400兆円の資産を持ち、本来は金融の主役である筈の個人が、金融システムの議論においては「保護すべき存在」に貶められ、金融リテラシーの欠如を理由に、主役を演じることを拒絶されている。

放送における視聴者、大学改革における学生、そして金融における個人貯蓄者は、リベラル的に言えば、いわば公共性と資本との関係の再定義において全く視座を許されていないのである。いや、視座を持つ権利を有することさえ知らない人も多いのかもしれない。国営放送は黙って受け入れ、大学改革もやむを得ないと諦め、銀行や証券会社に言われるがままに株や外債、そして中身も解らぬ投信を買い続けるのである。個人は、第三の極としての現代社会における存在理由を忘れかけているのではないか。

一方で、放送機関、大学、金融機関という「広義のメディア」は、政府からの独立を捨てきれぬ一方で、資本の論理に突き動かされ、バランスを取れずにゴールを見失っていると考えることも出来る。銀行のように「企業を潰さない」公共性だけを考えれば資本の論理の前に崩れてしまうが、資本に動かされるだけであれば公共性などは看板倒れになる。

顧客の軸に支えられたバランス均衡こそが経営の真髄であるが、その舵取りは難しい。一番お気楽なのは、政府に寄り掛かることである。「我々の放送機関」の看板を捨てたNHKも、似たようなものであった訳だ。

◆ BBCのモデル

英国BBCもまた受信料で成立つ公共放送であるが、それが制度化されたのは1927年のことである。前年のゼネストの影響で英政府は放送を公共化することを決め、10年おきに国王から特許状を与えるという仕組みを作ってBBCに特権を与えたのである。その特許に関しては、これまで様々な干渉があった。1980年代にはメディア王マードックがBBC民営化を主張し、最近ではイラク戦争を巡る報道問題でBBC解体論まで飛び出した。

詳細は省くが、2004年はBBCの危機の年でもあった。政治と報道が鋭く対立し、政治的にも追い込まれたブレア首相がBBC理事会の解体とBBCの分割再編、更にはBBCの政府管轄を提案するなど両者間に緊張が走った。だがBBCはいわゆる「ニール報告」において「視聴者と共有する番組」「視聴者との協調関係」を前面に押し出して、「真実と正確」「公共性への貢献」「公正と見解の多様性」「独立性」「説明責任」という五つの価値を真正面から問い、公共放送としての在り方を自ら規程したのである。対BBC最強硬派のブレア首相も、これには首肯するしかなかった。

このBBCの姿勢は、放送の公共性とは「放送が国家や政府と対抗関係にあって、結託・共謀するものではないという基本姿勢」(立教大学門奈直樹教授)であることを、あらためて内外に示したものであった。門奈教授は、BBCは「放送の独立との究極の安全装置は視聴者の支持を得ることにしかないのだ、という放送観に支えられている」と述べている。

公共放送における放送観には、地理的な普遍性と関心・興味の普遍性という二つの普遍性と、高品質な番組を提供するという文化的な責任が要請されている。これは、政治的な統制や資本の論理と両立することが難しい。従って、BBCの予算や決算は議会の承認を得る必要がない。BBCに広告収入も検討され、海外放送のBBCワールドでは同制度が導入されたが、国内放送は見送られ現在でも受信料制度が続いている。

BBCを美化し過ぎてはいけないと門奈教授は諌めるが、BBCが世界の放送のお手本になっているのは事実である。政治の論理、資本の論理に対抗する放送の論理を主張するには、視聴者を味方につけることである。英国では受信料未納で収監されるのは年間10名ほどだという。受信料が高いという批判はあるが、受信料の支払いは当然であるとの考え方が定着しているのは、その独立性と公共性への評価であろう。

NHKがその姿に程遠いとは言わないが、視聴者との距離感は、政治との距離感に比べてまだまだ遠い。金融機関も、金融の論理を主張するにはまず個人投資家や企業との距離感を縮めることである。第三の極としての市民・消費者・ユーザーの目線を過敏なまでに意識することこそが、放送や大学、そして金融など「海外との競争に大きく出遅れた産業」が目覚める為の、唯一の方策なのであろう。

2006年04月07日(第120号)