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◆ 「余ること」が生む流動化

◆ 捨てる前提の市場

ある政府の研究会に出席した知人が「未だに何故日本にバンクローン市場が出来ないのかを議論していましたよ」と電話口で笑っていた。「ちゃんと説明してくれましたか」と筆者が聞くと、「もうそんな気力も無いよ」と嘲笑気味の答えが返ってきた。もう10年以上同じ問いと答えの繰り返しである。聡明な読者に対して、このカビの生えたような議論を此処で反復する愚は避けよう。

ただその「市場が出来ない」議論を、今までとは少し角度を変えて市場問題を採り上げてみたい。その視点は物理学者の高安秀樹博士と5年程前に赤坂の中華料理屋で話し込んでいた時に、彼が唱えた「フランス料理は何故高いか」の説明にヒントを負うものである。つまり、捨てなければならないものをコストと前提せざるを得ない高級料理の論理である。以下、本論の導入として、高安氏が話してくれた「学説」を恐縮ながらも前説として紹介しておこう。

料理の価格要素は、基本的に原材料のコストに店舗維持費や人件費などを加えたものであるが、そのうち原材料費は仕入れ方針によって大きく異なるのは自明であろう。例えばラーメン10杯しか作らないという頑固な方針であれば、10杯分の原材料費がそのままコストである。

だが平均して10杯売れる状況において念の為に20杯分の原材料を準備する場合、20杯売れるものと想定してそのコストを20杯分の原価に入れるシナリオと、10杯は売れるかもしれないがそれ以上は恒常的に売れないのだからコストは10杯分で計算しておくと考えるシナリオでは原価が違ってくる。

ラーメンでは迫力が無いので、高級フランス料理に話題を変えよう。貴方はそのレストランのシェフである。過去の統計で平均して5人の客が来る。だが時には来客ゼロの場合もあるし、10人のケースもある。高級レストランに売り切れは許されない。従って、仕入れは毎日最大推定量の10名分を準備する。

毎日高級料理を出すのだから、客が来なければその日の材料は捨てるしかないが、損失は許されない。従ってそのコストは平均5人の売上でカバーする必要がある。従って、10人分の材料費は5人の顧客から頂く必要がある。仮に材料費が100,000円であれば本来一人当たり10,000円となる筈の原材料費が、貴方の店では20,000円に倍増する。捨てることを前提としたコストが、その差10,000円に相当する訳である。高級料理が高い理由の一つに、こうした戦略の存在を挙げることが出来る(勿論、これだけではないが)。

さて、これはモノが余ることを前提とした商品戦略である。一方で、モノが余らないことを前提とした「限定品販売」の商品戦略がある。それでは金融市場は、どちらのケースが多いのだろうか。

◆ 均衡する日本市場

金融では通常、余剰・不足が顕在化しない。それは需給が市場価格メカニズムで瞬時に調整されると考えられるからだ。金利を通じた市中の資金余剰吸収・放出などはその典型であるし、ドルが不足して困るという話は、一昔前のスワップのベーシス市場などを例外とすれば、あまり聞かない。日本国債など、いまや投資家が欲しいと言えば幾らでも発行してくれる。カネ余りと言われるが、別にカネに困っている人に流れてくる訳でもない。

閑話休題。本題に入ろう。日本の社債や銀行融資は何故流動化しないのか。これまでの通説に加えて一つ推論を付け加えるとすれば、日本の市場は「余ること」を嫌がるからではないか。社債引受は「余ってはならない」のである。余るということは売れ残るということであり、引受主幹事の恥である。

銀行融資も「余る」ことなど想定外である。20億円借りたい企業に対して10億円しか貸さないことはあっても、100億円貸しましょうというのはバブル期のような例外(即ち異常事態)を除けば普通は起きない。前者の場合は、シンジケートローンが利用されるが、そこにおいても資金需要と供給の均衡が第一の目的となる。

資本市場が「均衡すること」を目的として動いているのが、欧米市場と比較した場合の日本の特徴であると言えるのではないか、と仮説を立ててみる(飽くまで仮説に過ぎない)。均衡することは一つの美である。日本は、金融市場に限らず、こうした「動的構造の中の静的均衡」を好むように思える。為替市場も基本的に動いて欲しくない、というのが日本の本音である(欧米も似たようなものではあるが、意識の程度が相当違う)。均衡していれば、変動は生じない。それはまさしく古来日本人が愛でてきた「月のイメージ」に近い。だが月はある意味で死んだ主体である。均衡した市場もまた、死んだ世界である。

それでは欧米の資本市場は均衡していないのだろうか。一つの例は、社債のシンジケートである。このビジネスは年々変化しており、慣習も年月を経るごとに新陳代謝していくので、筆者の相当に古い経験などもはや参考にならないかもしれないが、1990年代にあった実話をご紹介しておこう。これは筆者がかつて欧州で、社債シンジケート業務を前任者から引継ぐ最中に起きた話である。

◆ 債券引受を巡る議論

ある債券の引受で、前任者と筆者の意見が食い違った。前任者はそのクレジットのセカンダリーの状況を見て、アセットスワップベースでL+100BPでないと引受は出来ないと言った。そのレベルであればある程度販売が確定出来るからである。それは確実性の高い認識であった。だが私は金利環境から見て、金利下げを見込んだスワップベースでない固定金利需要が出てくる筈だと主張し、他者との競争もありL+87.5BP程度の突っ込んだプライスを提案した。

様々な議論の末に、議論下手の筆者は負け、前任者のL+100BPの案が勝った。だが蓋を開けてみればその案件は米系投資銀行にL+75BPという破格のプライシングでもぎ取られたのである。皆はハラキリだと騒いだが、そうでないのは明らかであった。勿論、私の意見が通っていたとしてもL+87.5BPでは勝てなかった訳であり、私もまたあらためて負け戦を認めるしかなかった。

ここに一つの教訓を読み取ることが出来まいか。アセットスワップベースで確実な需要を求めるのは、まさに均衡を求める引受販売であったが、セカンダリー水準を割り込むプライスは自ら均衡を破る戦略であった。但しこれは案件を取るためのSubsidyではない。日本の会社と違って、損益が人生にリンクしている彼等がそういう馬鹿なことをする筈が無かった。やはり彼らなりに読みがあったのである。

均衡を破ったプライスで、主幹事からの投売りが出ると見ていた人々は失望したようだった。むしろセカンダリー水準が新発に引き摺られてタイトに動くという市場を見せられてしまったからだ。無論、そういう現象は頻繁に起きる訳ではない。結果的に、金利環境や投資家のクレジット選好などがその主幹事の読み通りとなったに過ぎない。だが、その読みを実践的に可能にしたのが、引受ポジション・ブックの柔軟さと、トレーディング・ブックの機動性、そしてそれらが生み出す「余剰の歓迎」であることは、再認識する必要があるような気がする。「余ることの金融力」である。

飽くまで私の乏しい経験からの推論に過ぎないが、日本のブックは一般的に硬直的である。それに比べて欧米ブックは「余ること」を前提とした対応だ。だからヘッジニーズも出てくるのである。その違いは、日本金融の市場硬直性にも現われているような気がしないでもない。反論もあろうが、日本金融の「余らせない」美的精神が、市場の流動性や流動化に大きな影響を与えているのではないか、という仮説をここで唱えておくことにしよう。

◆ 希少性と余剰性

社債市場は、そもそも需給が伸縮する社会であるから、余る・余らないの議論は比較的理解し易いだろう。勿論、読み間違いで余るのと戦略的に余らせるのは全く意味が違う。ここで議論しているのは後者である。余ることを前提にしたブックの運営は、余ったものが捌けていった後も、状況に応じて再び余ることを受け容れることが出来る。それがセカンダリーであり、ヘッジである。フラクタルな均衡論をいくら拡大しても、デリバティブズへのニーズなど出て来ないのだ。

さて銀行融資にもこれは成立するだろうか。まず社債と同様に、企業の資金ニーズがある。バイラテラルな融資にはまず「余る」とか「余らせる」という発想は有り得ない。従って、この意味からもシンジケートローンでしか流動化は期待できない。だがシンジケート方法であっても、主幹事が均衡を求めているのであれば流動化は起こらない。ローンにおいても「余ること」が当事者の頭の片隅に無ければ、流動性への意欲は昂揚しないだろう。

だが銀行において融資が「余ること」をバックアップする機能はない。銀行は基本的に均衡することを目的としてバランスシート運営を行う性質がある。これは米国だろうが欧州だろうが同じことである。米銀は、別に余ることを前提とした戦略を初めから採用したのではなかろう。結果的に、米銀一行の「手に余る」資金ニーズがあり、余ったものを他行に引き取ってもらっただけである。一方で邦銀は「手に余る」ものを無理やり抱え込んだのかもしれないし、銀行の精神論的寛容性としての懐が広すぎたのかもしれない。

「余ること」をやむを得ない事実として肯定的に認めること、その「余るもの」をビジネスとして引受けること。その二つは流動化において重要な役割を果たしているように思える。だが後者はともかく前者に関しては、現在のようにダブついた国内資金環境と経済安定化の中では期待すること自体無理かもしれない。「企業負債」が余るどころか「運用資金」が余っている状況では流動化など起こりようがない。結局、日本の銀行界には真の流動化が芽生えることはないのかもしれない。

そもそも市場とは物資の希少性から生まれたものと認識することが多いが、実は市場の出発点は過剰処理を基本としているのである。「売り手と買い手の非対称性」の多くも「余り物」から生まれている。過剰が行き過ぎると、「消費テロ(強圧的に消費させる行為)」が起こり社会問題になるように、現代社会では希少性より余剰性が問われている。余剰に抵抗感なく巨大な消費社会を構築した米国で市場が発達したのは頷ける。翻って、余剰・過剰を良しとしない日本の市場は、根本的にそして永遠に「市場の矛盾」を抱え込んでいると言っても良いのかもしれない。

2006年05月12日(第122号)