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◆ 金融「正統性」へのチャレンジ

◆ 権力の正統性

一般的に、権力を絶対化するためには権威付けという作業が不可欠である。この手の話は過去の国際政治史においては枚挙に暇が無い。日本でも「征夷大将軍」は必ず天皇の権威付けを借りてきた。戦後、表面的にはその座標軸を失ったようにも見えるが、最近の皇室典範問題に関わる社会意識の高さを見れば、まだそれが風化しているようには思えない。日本社会を「権威付け」抜きに語ることは出来ないのだろう。

もっとも、海外の歴史を眺めれば、日本よりも外国の方が政治的な権威付けを求めて悲痛な苦しみを味わってきたとも言える。むしろ、拓殖大学の井尻千男教授は、日本ほど権力の正当性に悩まずに済んだ国はない、と述べる。「三種の神器」のような即物的座標軸を持たない中国では、清王朝を倒した辛亥革命が構築しようとした共和制は永続しなかった。ブルボン王朝を滅亡に導いたフランス革命も然りである。ロシアでは、共和制の樹立の難しさを知っていたレーニン、スターリンはロマノフ王朝の後に独裁体制に移行している。

井尻教授は、有名な「ナポレオンの戴冠式」(ダヴィッド)の絵に言及しながら、王政から共和制に移行する際の「権力の正統性」を確保するために、ナポレオンといえども「神の代理人」であるローマ法王を担ぎ出さざるを得なかった、と当時の政治構造を説明している。

現在の国際政治の中でも、権力の正統性は重要な問題だ。中国はその典型例であるが、北朝鮮も同じ問題を抱えており、さらに一部のアラブ諸国では民主制の漸近的な導入が既存権力構造の脆弱性を浮き彫りにし始めている。教科書の中で見たような、権力の正統性を求めて対立が激化するような「政治的事件」が、今後世界各地で起こらないとも限らない。

ただ、権威付けそのものは、政治の専売特許ではない。「信用力」をベースとする現代経済社会では、政治とはやや違った意味での「権力の正統性」は大きな経営ファクターである。中央銀行も、金(ゴールド)という王政から信用貨幣という共和制に移行するにあたり、その権威付けに腐心してきた。それに成功した米国や日本では、紙幣を当然の存在として見ているが、そうでない国々は、自国紙幣を信用せずにドルやユーロを選好しているのである。「貨幣の正統性」もまた、金融力の大きな構成要素である。

米国がドルの権威付けに成功したのは、そこに既にポンドという偉大な通貨が存在したことが大きい。ドルは、言わばポンドの権威を剥奪したのである。そのポンドを「信用通貨」ならしめたのは、七つの海にまたがる経済・軍事帝国としての権威であった。金に代替されるものは、ポンドしかなかった。現在のドル本位制とは、その「ポンド朝」を「ドル朝」が倒したに過ぎない。その先のシナリオもそろそろ視界に入ってきたが、本稿はその問題がテーマではないので、次の話に進もう。

◆ 企業の権威付け

企業社会もまた、権力の正統性から無縁ではない存在だ。例えば金融社会では、三菱と住友などの名前に代表される銀行と、ガリバー野村證券を頂点とする証券会社、そして日本生命と東京海上を筆頭とする保険会社が長らく「権威」を保っている。これは、日本社会がそういった通念を抱いているという事実に過ぎないが、既成事実ほど強いものはない。

こうした一種の「正統性」を基盤とする社会に新規参入しようとすると、その費消エネルギーたるや凄まじいものになる。ネットを使った企業群は、まさにその正統性を狙って奮闘中だ。ネット証券は野村證券を脅かすまでには至っていないが、その存在感は急速に高まっている。ネット銀行もまた既存の銀行にチャレンジを始めている。

だが、ネット金融はまだ「正統性」には手が届きそうも無い。どんなにサービスや商品が良くても、どんなに手数料が安くても、企業社会が伝統的に維持してきた「正統性」にはまだかなわない。金融に限らず、ネット企業は「企業社会の正統性」の奪取に苦しんでいる、というのは言い過ぎだろうか。だがライブドアが墓穴を掘り、楽天が躓きを見せたのも、こうした「正統性」の確保への焦りだったのではないか。

ライブドアは、まず球団経営に眼を付けた。それは球団スポンサーという、日本に12社しか入れない「閉じた空間」に参入することだった。一昨年の同社によるこの奇襲攻撃は、メディアから宣伝効果を狙ったものと批評されたが、エスタブリッシュメントへの仲間入りをすることで、新興企業が経済社会の正統性を手に入れるための近道を選択したとも読める。

その後の堀江氏による衆院選挙への出馬は、政治家という一種の正統性の確保を狙ったものであっただろう。国会議員のバッジは、(良くも悪くも)社会に大きな影響を及ぼすことが出来る。大袈裟に言えば、当時の堀江氏は、ローマ法王から戴冠を許されたナポレオンを夢に描いたのかもしれない。宣伝効果といった類の小さな目標ではなく、もっと純粋な、或いは単純で明快な(つまり説明不要な)「権威付け」を得ることがその動機だったのではないか。

その文脈で言えば、楽天のTBSへの接近もまた同じような軌跡を辿っている。だが楽天の本丸は、おそらくTBSではなく銀行、それも「投資銀行」である。投資銀行という言葉に日本の金融社会は弱い。そこがライブドアの「正統性」戦略とは少し違う点であろう。堀江氏が、野球という国民的行事と議員バッジとにローマ法王の幻想を描いたのに対して、三木谷氏は「銀行」にそれを求めているのである。

楽天の三木谷社長は、ネットオークションの成功で満足した訳ではなく、同じ銀行業出身の国重副社長とともに金融ビジネスへの再挑戦を目指しているように見える。既に楽天傘下の証券会社は成長過程にあるが、既述の通り、ネット証券のままで日本の金融界の正統性を確保するのは難しい。日本の金融で真の「正統性」を持つ為にはやはり銀行が必要なのだ、という思いが強いのだろう。一度メガバンクを離れた人々の懐古趣味と言えなくもないが、そこには元銀行マンによる、えも言われぬ「金融的正統性」追及への執念が見える。

◆ 金融における正統性とは

日本における金融の正統性とは何か。それは渋沢栄一の名前を出せば十分であろう。民間銀行の祖としては三菱商会の岩崎弥太郎の名前も浮かぶが、「金融の正統性」を担保する名前としては、やはり国立銀行条例を制定し、役所を辞めて自らその経営にも関与しつつ他行の設立の指導にも当たった渋沢を挙げるのが適当だろう。

渋沢は一橋慶喜に仕え、幕臣としてパリ万博を視察、その際にフランスの株式会社制度を学んだと言われる。維新後は大蔵官僚として国立銀行条例に携わる一方で、商業に関する高等教育にも注力している。また関東大震災の際には復興のために寄付金活動に奔走するなど、社会貢献という面でも高い評価を受けている。こうした渋沢の人間像も、日本における銀行の正統性を形成する源となっているようにも思える。

また証券会社としての正統性を考えるにあたっては、野村徳七以外に思い浮かばない。野村商店は両替商がその出発点だが、公債の取扱いや株式の引受、調査などに進出して力を発揮し、他の両替商が没落する中で生き残り、第一次世界大戦などの順風にも助けられて実力を蓄えたのである。

そこで野村徳七が考えたのが、銀行免許の取得であった。その構想には融資の必要性だけでなく、信託業への進出と証券業の拡充という広範なビジネスが意識されていたのだろう。当時としては伝統的銀行業に対する大きなチャレンジとでも言うべき「新規参入」であった筈だ。ひょっとすると、現在のライブドアや楽天以上の新興企業としての存在感があったかもしれない。

野村徳七は、今のホールディングカンパニーとほぼ同じ役割を担う「野村合名会社」までも設立し、当時としては画期的な金融コンツエルンを目指している。その後、証券部を中心に独立して証券会社設立に至ったが、そこには明らかに先行する銀行が持つ「正統性」へのチャレンジが伺える。だが野村は金融の正統性を「銀行」という看板ではなく「ビジネス・モデル」と「収益性」に求めたのだ。

野村の「金融の正統性」へのチャレンジは今でも続いている。証券会社としての野村は、銀行と違って他産業をグループ内に持たない金融産業として発展してきた。野村は、欧米型の金融市場が日本にも早晩定着して証券業が金融の中心となることを予想し、期待した筈だ。証券という近代資本主義の根幹をなす商売を中核に置き、稼ぐことが出来れば銀行など吹き飛ばして金融における「法王の座」を獲得できる。そう考えたとしても不思議ではない。

だが銀行の「正統性」は意外にしぶとかった。「腐っても銀行」という日本の社会通念が、不良債権問題を経てもそれほど変化していないことを見ても明らかである。日本の金融における銀行・証券間の「正統性」の争いは、未だに銀行優位のままだ。楽天が、楽天証券に飽き足らず楽天銀行を目指すのも、こうした事情が少なからず影響している。

◆ 21世紀の正統性

こうした議論展開は、ネット社会を前提とする世代には違和感があるかもしれない。彼等の価値観からすれば、正統性の議論などネット社会においては簡単に覆されてしまうからだ。そもそも正統性など、権威や権力に寄り添って獲得された実態の怪しい「お墨付き」に過ぎない。そうした伝統的遺産を覆すものが、過去150年間現れなかっただけのことではないか。銀行や証券の正統性など、ネット社会では簡単に転覆してしまうのではないか。

「ウェブ進化論」(ちくま新書)で梅田望夫氏は、グーグルによる「知の編集作業」やウェブが作り上げるウィキペディア、そして急速に米国で普及するブログ・ジャーナリズムなどを例に挙げて、従来の「権威」である学者や新聞社、出版社の「価値の高さ」という幻想は崩れていると述べている。

それは、金融におけるネット企業の「正統性」へのチャレンジとしても当てはまる議論なのだろうか。ネットが当たり前の社会で育った世代は、新たな価値観で「権威」や「正統性」を捉えていくことになるだろう。となれば、金融の担い手の主役も、伝統的銀行・証券から別の主体に移行していく日も近い、と考えるべきなのだろうか。野村證券が、あらためてネットを軸とする証券会社として金融の「正統性」を奪取する日が来るのだろうか。或いは新興ネット企業が三菱や野村を凌駕して、社会通念としての「新たな正統性」を勝ち取っていくのだろうか。

筆者も古い世代なのか、そうは思わない。そうしたネット社会がもたらす変化への期待感はあるものの、社会の「正統性」を支える価値観や権威付けの概念までがそんなに簡単に崩れるとは思わない。ネットは金融にとってそれほど「革命的な現象」なのだろうか。既に述べたように、ネット証券もネット銀行も社会的認知度こそ急速に上昇しているものの、そして収益力も向上しているものの、既存金融勢力を駆逐するほどの勢いはまだ無い。そして、この現実が数年で大きく変わるようなダイナミズムも感じない。

ネット証券の利便性や新規顧客の驚異的な吸収力は評価すべきだが、野村が抑える超優良顧客を奪い取った訳ではない。ネット銀行は事業としては黒字化したというものの、ネット社会の進行に比べればその普及度の相対性の劣勢は否めず、三菱や住友のブランド力にはほど遠く、また放送のネット化ほどに「銀行のネット化」という斬新なビジネス・モデルのアイデアは提示できないままである。

ネットが社会の「正統性」や「権威」を与える「情報発電所」になる、というのはネット社会にのみ居住し、ネット社会からの視点に拘泥する者の思い上がりではないか。「ウェブ進化論」は、人間社会の基本原理を過小評価している。ネット社会がリアル社会の大衆化を主導するという一面はあっても、その健全性は担保されたものでなく、必然的に反動的な潮流に飲み込まれる可能性も高い。ネットが胚胎する技術的・倫理的・言論的な危険性も、最近漸く認知され始めたばかりである。

金融における「ネット革命」が、既存の権威主義を代替することは難しいだろう。ネット機能が発展し、ネット企業が既存シェアを奪うことはあっても、既存モデルに替わって主役に立つことは無いだろう。「正統性」を求めて、ネット企業は楽天やヤフーのように銀行を目指す。だが、アマゾンが丸善や紀伊国屋書店、ジュンク堂などを代替できぬように、ネット金融は野村や三菱を超えられないような気がする。

日本の金融正統性は、日本人の抱く固有の信頼性という独特の法王によって戴冠されなければならないのである。たとえそれがフィクションであっても、フィクションの派生商品に過ぎないネット社会が同質の虚構性を覆すことはできないのでないか。米国ネット社会では新しい正統性が生まれるとしても、日本では同じことが生まれない可能性は高いのではないか。

現在その正統性による金融特権は薄れ、収益性は低下し、制約条件は経営を圧迫して権威付けの意味そのものに疑問が呈され始めている。だがそれでもその正統性にしがみつく人は多いのは、それがそのまま日本の思想形態でもあるからだ。

日本は、半永久的に米国のような直接金融の国になれないように、米国のようなウェブ社会にはならないだろう。それが「ウェブ進化論」に見る超楽観論への批評であり、日本の金融ビジネス環境への私なりの洞察でもある。そして、現在の銀行における正統性が揺らぐとすれば、それはウェブ進化によってではなく「郵政公社と野村證券の合併シナリオ」あたりの継続的で増幅的な、そして虚構を極めた最大級のフィクションなのではないか、と密かに考えている。

2006年06月09日(第124号)