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◆ 分散投資におけるリスク

◆ 籠に盛られた卵の運命

いつものように昔の話で恐縮だが、15年ほど前の邦銀勤務時代に分散投資を巡って当時の常務と激しく議論した覚えがある。資産運用業務のあり方に関して、投資理論を武器にまくし立てる当方に対して、かの常務は「分散など素人のやる仕事だ」と決して譲らなかった。若気の至りで、「集中投資した結果が中南米不良債権の積上げではなかったか」と問い詰めて、私の銀行員としての将来は終わったのである。それは半分冗談だが、分散投資については、その後考えることも多くなり、当時は無知蒙昧に聞こえた常務の言い分も、必ずしも的外れではなかったと思うようになった。

分散投資は、現代金融論ではほぼ常識になっている。「一つの籠に卵を盛るな」という格言で有名になった分散は、金融だけでなく社会の智慧としても定着している。例えば香港人が、子供を世界中の大学に分散させているのは良く知られた事実だ。企業も戦略的に多角化を図り、商品の多様化も進んできた。組織社会でも、画一的な秀才の集合ではなく多彩な人材の混合の方がより安定することが知られている。

確かに、分散には効果がある。分散しすぎるとその限界的効果もなくなるが、分散型が集中型よりもリスクが低いことは、簡単な統計学で証明できる。但し、その証明は「絶対的な真理のお告げ」ではないことにも注意すべきであろう。時に、分散は人を裏切ることもあるのだ。それは、統計学で利用されるリスク・リターンや相関係数が、飽くまで確率変数に過ぎないからである。

現代のマネー雑誌や投資の教科書は、殆ど「分散のススメ」を基本に置いている。日本株が下がっても、インド株が上がる。米ドルが下がっても、豪ドルが上がる。債券が下がってもゴールドが上がる。一箇所に集中投資するよりも効果はありそうだ、と殆どの人々は納得するだろう。分散投資したものが全部一斉に下がる、といった確率は低そうに思える。だが、それが起こらない保証はない。分散投資の下落率が、日本株の下落率を大きく超えることも有り得ない話ではない。そして今、それが現実のものとなった。

そんな「雰囲気論」は論理的ではないと批判されるかもしれない。確かに、印象論だけで「分散投資にもリスクがある」というのは説得力がない。では分散投資はどのように始まったかを想像しながら、そのリスクを抽出してみるのはどうだろう。国際分散投資の元祖と言われる英国の運用が、どのように始まったかを遡ってみれば、その本質に触れることができるかもしれない。そして筆者が、かの常務殿による反論の意味をいまなぜ再評価しているのか、その意味もお解かり頂けるかもしれない。

◆ 英国分散投資の原点

歴史的な視点で分散を捉えると、東インド会社が始めた株式会社制度における経営者にとっての「資本の分散」、或いはロイズの保険に見られる「出資リスクの分散」といった見方も出てくる。いずれも大航海時代の産物であるが、いわばリスクテイクの裏側としての分散技術の発明という構図が浮かび上がる。リスクテイクしないところに分散概念が出てこないのは当たり前の話であるが、意外に日本の金融社会はこの点で鈍感なところがあるようだ。

何故日本社会に「大航海時代」が無かったのかは、何故日本にジャンク市場が出来なかったか、に通じる興味深いトピックスではあるが、それはさておき「投資における分散」の歴史は、やはり英国の金融資本の蓄積と大英帝国の構築(植民地政策)という二つの絡み合う事象から、始めるべきだろう。

英国の国際分散投資は、教科書に沿って始まったものではない。これは大きなポイントである。英国の分散投資が、結果的に教科書を作ったのである。そしてその英断的投資が英国社会を救ったとも言える。

17-18世紀の国際貿易で資金力を蓄えた英国は、国内では18世紀に勃興する産業革命を契機に国内投資が高まるのと同時に、北米やインドなどの植民地にも投資を拡大していった。何のことは無い、これが国際分散投資の始まりである。それは東インド会社や南海会社への熱狂的な投機などに代表されるように、現代のバブルの原点を示すものでもあった(この辺は、拙書「金融史がわかれば世界がわかる(ちくま新書)」をご参照願いたい)が、その国外への投資熱は、裏を返せば「米国大陸やインドは英国が統治しているから」或いは「彼の地は自分達がコントロールしているのだから」という理由付けによるものであり、決して分散投資がリスク軽減に繋がるから、といった立派な行動ではなかったのである。

英国の植民地政策の成功により、この分散投資は結果的に大きなリターンを得た。分散投資による利益は多分に政治的要素によるものである、と言い切ると反論もありそうだが、分散投資と政治とは全く無関係ではない。現代投資理論はこの政治的な匂いを剥ぎ取り、純粋に統計学的に仕立てることによって、アングロサクソン流の経済支配の匂いを消し去ったのだ、と意地悪く見ることも不可能ではなかろう。

そしてテキスト上で学んだ投資理論を元に、日本は外債投資で失敗し、海外不動産で失敗し、中南米貸付で失敗し、いまはヘッジファンドやBRICsへの危うい投資を蓄積している、という現実がある。とは言え、筆者は「適切で選択的なヘッジファンド投資」と「深い洞察と政治経済的関心に基づくBRICs投資」は否定しない。分散投資は安易であってはいけない、というのが本論の主張である。本来の分散投資とは、結局のところ、真剣な集中投資の結果であるべきなのだ。

◆ 英国の知見、日本の浅知恵

こんな小見出しをつけると、またお前の英国贔屓と自虐趣味が始まったと苦笑されるかもしれぬ。別に英国趣味を気取るつもりも無いが、かなり割り引いて考えても分散投資に関してこの程度のことは不公平でも何でもない。国益というナショナリズムの匂いが篭る言葉を使うのは気が引けるが、「国民の経済的利益」の略語としての意味に限定して言えば、英国の分散投資が超プラスの国益を得たのに対し、これまでの日本の通信簿はほとんど赤点に近い。

植民地統治の当事者意識としての「結果論的な分散投資」とやみくもに上がりそうな市場にカネを突っ込むだけの「無謀な分散投資」の違いは、明らかである。教科書に分散すべきだと書いてあるからといって、殆ど知識も体験も興味もないいくつかの市場に対し、無防備に資金を投入するのは如何なものか。これは決して結果論ではない。バブル当時においても、邦銀や生損保による一気呵成の国際分散投資に関して、冷やかな視線を浴びせるプロは少なくなかったのである。冒頭に紹介した、某常務との会話はそうした状況で交わされたものだ。

当時の分散投資論も、現代の分散投資論も、プロが大きな失敗を経てきたにもかかわらずたいして進歩していない。従来の失敗は、米国債投資で為替の読みを間違えた、米国不動産投資のタイミングを間違えた、アジア経済への米国コミットを読み間違えた、といったように、何らかの外的要因の「読みの甘さ」を原因に挙げている。だがその甘さを誘った本質は、当事者として何もコミットしない市場への「タダ乗り」戦略の中にある。

既述の通り、英国は自らが政治的にコミットした市場へ投資したのである。これが世界各国に散在していたから、「国際分散投資」になったのだ。そして英国が日本に投資するのは、せいぜい1870年以降の日本国債の募集以降である。その「新興国投資」は、経済発展を見据えた自発的な投資というよりも、ロシアの当方進出に対して日本を抑止力として利用するという、日英同盟を展望した政治的な意図のある投資であった。英国で日本国債に人気が出始めたのは、日英同盟などの時期と重なっている。1870年の日本国債(ポンド建て)発行金利は、英国債比6%程度あったリスクプレミアムが1902年には一気に2%にまで縮小しているのは、1897年の日本による金本位制への移行が背景にあるといえ、同盟関係の成立とも無縁ではなかろう。

なにも、日本が投資する場合にも「右に倣え」と言う訳ではない。日本が軍事国家を目指す選択は殆どなく、19世紀的な帝国主義が復活する筈も無い。だが、英国の知見に学ぶべきことはあるだろう。即ち、分散投資とは知らないものに資金を配分することではなく、己の世界観・価値観にフィットするもの(国、経済、商品等々)を幾つか見つけておく、ということなのである。これは、機関投資家だろうが個人投資家だろうが、同じことだ。その運用哲学無くして、分散投資など語ること勿れ、である。

◆ 某常務の言葉

さて冒頭の「分散など素人のやる仕事だ」との言葉に戻る。もはや説明の必要もないかもしれない。常務殿の本音がどこにあったかは今や知る由もないが、その意味するところは、訳の解らんものに手を出すなということではなかったか、と今にして思う。自分がコミットすべき対象も確立しないで、JPモルガンがやっているから、ゴールドマンが薦めているから、といってホイホイと話に乗るな、という厳しい諌めではなかったかとも思う。

別に分散することが悪い訳ではない。一箇所に集中するよりも分散した方が確率的なリスクは低減することは疑いない。だが、それは真剣勝負の結果としての分散でなければプロの仕事ではない、ということだ。インドに投資するのであれば、自分でインドを見て、観察・分析し、長所・短所を理解し、その将来像を描いてみる必要がある。当然、日本との政治経済関係や、欧米・中国・ロシアとの外交問題をも視野に入れるべきだろう。さらに、戦後日本のかなりいい加減な歴史教育制度の下で、中学・高校時代に殆ど教わらなかったインドの歴史を紐解いて見るくらいの関心も持つべきだろう。

団塊の世代が、資産運用に強い関心を抱いているという。彼等は、外債投信の基準価格に全く興味の無い高齢者と違って、リスク・リターンに目覚める初の資産運用世代なのかもしれない、と密かに期待している。そこでも分散投資は大きなポイントになるだろう。彼等が真の分散投資に目覚めれば、セルサイドの銀行も証券も郵政公社も、投信のパンフレットと星印のついた格付けだけを窓口においておくだけでは顧客から信用されなくなるだろう。リスク分散ではなく、「分散投資のリスク」を説明出来て初めて「投信の時代」だと言えるのではないか。

2006年06月23日(第125号)