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◆ 外貨準備の経済学

◆ 米国売りの恐怖感

1997年6月、時の橋本首相は、日本が外貨準備として運用している米国財務省証券を「売却する誘惑にかられたことがある」と述べて米国市場に混乱を巻き起こした。米国の一方的な日本へのバッシングに対抗しての発言であったが、これは日本による「米国売り」の可能性を連想させ、市場では米国債の価格だけでなくドルも株価も大きく値を下げたことは記憶に新しい。

米国の双子の赤字を、日本がファイナンスしていた当時の出来事である。積み上がる外貨準備を日本が粛々と財務省証券の大量購入に充てることで、米国の財政赤字と経常赤字の問題性はかなり希薄化していた。日本が米国債やドルを売却することは、自身の準備価値を下げることにもなる。また米国との同盟維持以外の外交的選択肢を持たない日本が、自ら「米国売り」の震源地になるとは誰も想定していなかった。

事実、橋本首相の発言も現実に米国債売却を示唆するものでないとの認識が高まり、市場の混乱は徐々に収束していった。その後10年間、日本が積極的に米国債を売却した気配はない。外貨準備の米ドル・シェアを見直すといった考えもない。日本の外貨準備に対する考え方においては、ドル資産、それも短期財務省証券への投資という不可侵の方針が経典の如く踏襲されている。

その是非はともかく、世界の外貨準備の構造はこの10年間で大きく変化してしまった。「世界一の外貨準備」という日本のタイトルは中国に移り、今や米国が懸念するのは日本による米国売りではなく、中国による米国売りである。米国にとって、ドル資産への忠誠心を頑なに守る同盟国日本と違って、中国は何をやってくるか解らない存在である。

さらに、永遠のライバル大国であるロシアは、豊富な石油・天然ガスなどの資源を背景に外貨準備の蓄蔵に余念がなく、こちらは公然とユーロ・シフトを始めている。さらに厄介なのは、中東諸国である。サウジなど米国との同盟関係を維持する国においても、イラク問題などを契機に国内に広がる反米意識の高まりが、外交・金融関係に影響しないとは言い切れない。

敢えて単純化して言えば、米国のファイナンスが日米関係に依存していた時代は、不均衡問題はただ日米経済問題の一つに過ぎなかった。だが、世界経済の多様化につれて外貨準備の蓄積が地理的に分散するに従い、不均衡問題は世界的な問題に昇華することとなった。そして、それは経済・金融問題ではなく国際政治という極めて難しいレベルで解かなければならない難易度の高い課題に押し上げられてしまったのである。現在の外貨準備の問題は、有価証券と安全保障がSecurityという同じ語源を有することを我々に再確認させることになったと言っても良いだろう。

◆ 外貨準備の水準

さて、それでは本年3月末時点での外貨準備の具体的な数字をざっと見ておこう。中国が2月末に日本の残高を追い越して世界一になったことは周知の通りだが、以下のテーブル(米国を除く)を見ると、外貨準備が相当程度アジア諸国に偏在していることが一目で判る。

アジア地域を除けば、ロシアの水準も特筆されよう。一方で欧州諸国は総じて控えめな数字になっている。アジア・ロシアの外貨準備積み上げの背景には、それぞれが体験した1997-1998年の悲惨な経済危機の影響がある。外貨準備が枯渇し、対外債務の返済に赤信号が点滅してIMFからの緊急融資を受けざるを得なくなった悪夢が、各国に強迫観念的な外貨準備の蓄積を促した点は無視できない。言わば、国策としての「外貨準備の蓄積」が至上命題となったのである。

結果として、アジア地域での外貨準備が米国の経常収支をファイナンスするという構図が出来上がった。米国において貯蓄率がマイナスになってまでも異様な消費社会を維持しうるのは、こうした外貨準備の経済が「恐怖の均衡」として成立しているからだと言うことも出来るだろう。だが、この均衡には二つの不安定要因がある。一つは現在世界の全外貨準備高の約67%を占めるドル資産から他の資産へのシフトが有り得るかというドルへの不安感であり、もう一つは一国の外貨準備はいったいどの程度が適正な水準なのかという外貨保有インセンティブの問題である。

◆ ドル不信の高まり

IMFの統計に拠れば、丁度10年前の1996年末当時、世界の外貨準備高の総計は1兆5,661億ドルであり、そのうち日本の残高は約2,178億ドルでシェアは13.9%であった。2005年末では、総計が4兆1,705億ドルで日本は8,469億ドルでそのシェアは20.3%である。日本の外貨保有の大きさは金額・シェア共に伸びているが、その増大の主な背景は円安維持のために行った巨額のドル買い介入の結果である。

上記より、2003年から2004年にかけての異様な残高の伸びが見て取れる。輸出による外貨獲得のペースと異なることは明らかだ。因みに現代の中国においては、輸出とドル買い介入、そして短期的な投機資金の大量流入といった三点セットが外貨準備激増の背景となっている。

さて、IMFの統計に戻ると、もう一つ大きな構造変化が見える。それは、世界の外貨準備高に占める新興国シェアの急増である。上記1996年末の外貨準備高のうち、先進国の総計は7,215億ドルで、新興国は8,445億ドルとほぼ拮抗していた。それが2005年末時点では、先進国が1兆2,922億ドルで、新興国は2兆8783億ドルと大きな差が付いている。因みに、2006年3月時点では、BRICs4カ国の外貨準備だけで1兆3,000億ドルを超え、G7合計額を凌駕してしまった。

こうした構造変化は、外貨準備の通貨構成にも微妙な変化を与える。先進国における外貨準備のドル・シェアは多少の変動はあるが昨今ほぼ70%を超えているのに対して、新興国のドル・シェアは2002年後半から下落し始め、2005年末には60%割れ寸前まで低下している。すべての国が通貨構成を詳細に公表しているわけではないため、飽くまで推測に過ぎないが、ロシアや中国、韓国、そして中東諸国などが、新規に蓄積される外貨準備の運用先を多様化しているのは間違いないだろう。

従って現在のところ積極的なドル売りに繋がる気配は乏しいが、為替市場が相対論である限り、ドル以外の通貨への選好が強まれば、次第にドルの強さが薄れるのは自明であろう。

因みに、最初に挙げた表の数字には中東諸国の外貨準備が記されていない。ジェトロなどのやや古い統計では、サウジが約350億ドル、UAEが約250億ドル、クウェート約100億ドルなどとなっている。アジア諸国と比べれば規模は小さいが、これは石油収入の大部分が王族の懐に入り、国家会計に反映されないからだろう。勿論、サウジなどには政府投資基金などもあり、これも外貨準備を遥かに超える規模であると推測されている。

◆ 外貨準備の意味とは

日銀や財務省のHPには、外貨準備とは「通貨当局が為替介入に使用する資金であるほか、通貨危機などによって他国に対して外貨建債務の返済などが困難になった場合に使用する準備資産」と説明してある。日本では介入資金という印象が強いが、経済危機を経験した国では、対外債務返済に備えた資金という意味合いが圧倒的に強い。それは資本取引に限らず、一般的な輸入決済を賄う為のものでもある。従って、その適正水準を図る際に、当該国の月額輸入額を基準として、3ヶ月分に相当する外貨準備を保有するのが望ましい、といった議論が出てくる。

因みに、1994年のメキシコ危機、1997年のアジア危機、1998年のロシア危機、1999年のブラジル危機、2002年のアルゼンチン危機といった一連の経済危機に直面したため、国際金融界では外貨準備の意味が問われる機会が増えた。この中で、アルゼンチンの財務省副大臣を務めたギドッチ氏が「1年以内に期日の来る対外債務を賄う水準の外貨準備が必要だ」と主張した。さらに米FRB前議長のグリーンスパン氏は、ギドッチ氏の議論とValue at Riskの概念を結びつけ、資本流出想定額に応じた外貨準備を保有すべきだという考えを提示している。

だが、外貨準備の適正額に関しての定説が厳然と存在するわけではない。各国が独自の思惑で外貨を積み上げ、その通貨構成も自国の交易構造や外交方針をパラメータに加えてながら、見直しを行っているのが現状だ。ロシアはユーロ・シフトを鮮明にしており、韓国や中東諸国もドルからの分散を示唆している。人民元問題を抱える中国は、現時点では外貨準備に関しては極めて慎重な対応を見せている。中国政府は、外貨準備を国内不良債権処理に充当するアイデアなどを公表しているが、そうした経済的価値よりもむしろ対米交渉の貴重なカードとしての外交策に、外貨準備を温存しているよう思える。

外貨準備は、貯蓄ではないことにも注意すべきだろう。メディアの報道は、中国が外貨準備で世界一になったといった見出しで、中国経済力の拡大を印象付けようとしているが、外貨準備は国内債務の裏返しであり、バランスシートが膨張したに過ぎないと冷静に読むことも必要だ。政府が外貨を購入する際に市場に放出する自国通貨は、国の債務に他ならないからだ。因みに日本の外貨準備高が急増した2003年度末には政府短期証券の残高が急増、その大半を占める外国為替証券残高は前期比28.5兆円増加して85兆円にまで拡大したのである。

8,520億ドルという外貨準備は日本の貯蓄ではない。そしていま、日本の為替介入の必要性も薄れている。今後ドル安が進む可能性は高いが、不均衡解消に水を差すような2003年同様のドル買い介入を行えば、世界中の批判を浴びるのは必至である。また日本には輸入決済以外の対外債務は殆ど無い。とすれば、1兆ドル近くにまで積み上がった外貨準備の意味は何なのだろうか。

因みに、中国は膨張する外貨準備を国内銀行の不良債権処理に充当することを検討しているとも言われる。中国企業が海外進出のための企業買収に必要な外貨を購入する際に外貨準備を充当するといった政策も検討している。さらに一部では、外貨準備の一部をドルから金(ゴールド)や銅などの現物資産に振り向ける、といった構想もあると報道されている。

日本の本音は、ドルの急落を防ぐために仕方なく売れない資産を貸借対照表に計上し続けている、ということだろう。そして、他国のドル離れでドル資産価値が目減りするのは日米同盟の戦略コスト、あるいは断りきれない高額な保険料として受容せざるを得ない、というのが日本の冴えない「決算短信」なのではないか。

2006年07月07日(第126号)