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◆ 現代金融社会の自由主義

◆ 自由の意味

日本語でいう自由と、米国が語る自由、そして欧州が感じる自由とは、微妙にニュアンスが違うと常々思ってきた。日本人として英国に勤務し、日本人として米銀に勤務した貴重な経験から得た彼等の「自由の感触」は、日本的な自由とはかなり異質な感覚であったように思う。欧州人は、自由とは絶対に譲れないものだと思っている。米国人は、自由は世界に広がるべきものだと思っている。それに対して、平均的日本人である(と思われる)私が物心付いて以来漠然と抱いていた自由の概念とは、何だか空気みたいな「所在無いもの」であった。

私は、「戦後は終わった」と1956年の経済白書が述べた前年に生まれたので、戦争前後の「不自由」を直接体験しないで50年以上過ごしてきたことになる。1960年代には高度成長気が始まり、日本が資本主義と議会制民主主義という自由主義の原理にそった政治経済の局面入りした時代を過ごしてきたために、「自由」をそれほど意識しない環境に慣れてしまったのかもしれない。少なくとも、初等から高等教育の課程において「自由とは何か」を教わった記憶も無い。

思えば、私の自由とはせいぜい親元を離れて自活するといったささやかな抵抗に過ぎなかった。それは親の束縛を受けないといった程度の消極的な意味である。英語で言えば、Freedomの一部であろう。余談であるが、日米の大企業勤めが嫌になって独立したのもその一環と言えなくも無い。

だが欧米における自由の概念にはLibertyに力点が置かれた、もっと積極的な意味がある。それは行動や判断、発言などの行為における自主性という側面を持つ。Libertyは、欧州社会が市民革命を通じて封建的・専制的な政治体制から獲得した貴重な財産なのである。それを死守する為に大西洋を渡った「自由」は、疑う余地も無い絶対的な価値観となって米国に根付いたのである。

こうした意味での自由は、時代を経て資本主義や議会制民主主義体制を育んでいった。思想的には英国のアダム・スミスやジョン・ロックが中心となって現代的な資本主義や政治経済体制への道を切り開いていく。現在、日本が享受している自由主義的な環境も、本来こうした欧州の「自由の獲得」を起源に持つ筈ではあるが、実際に戦後日本に「自由」を輸出したのは米国であった。

だが、私のように呑気に「自由」の意味を空気のように捉えてきた日本人も少なくない筈である。「平和ボケ」ならぬ「自由ボケ」でとでも言うべきか。つまり、現代資本主義や議会制民主政治が「当たり前」の「最善」の選択であると思い込んでいる人も多いのではないか。自由の何が悪い、自由な市場のもとで「金儲け」して何が悪い、といった自由主義偏重世代の言葉に現代の大人たちがあまりに静かなのは、恐らく日本の現代的な自由主義が米国からの「与件」として導入されたもので、自ら獲得したものでないという歴史と無縁ではないような気もする。

◆ 私有財産と市場

自由主義経済といえば、その根幹を成すのは私有財産と市場機能であろう。日本では当たり前すぎて議論にもならない(与件ゆえ、でもある)が、それが自然に存在しない国もある。中国はその例であろう。

金融においても最近中国に関する話題が多くなっている。市場ではもっぱら人民元や外貨準備、不良債権などの話が多いようだが、土地の所有権や国内有価証券市場の整備などのインフラ面での報道も増えている。特に、これまで私有財産や市場機能を否定してきた一党独裁の社会主義国が、一転してそうした資本市場における「自由主義の原理」を導入したことが俄かに注目されている。あのロシアでさえ、政治が時々「自由主義の原理」を唱えることがある。

自由主義は、欧州を起源とする思想である。世界史を思い出せば、ギリシア時代の「自由奔放さ」あたりがその下敷きになっているような気もするが、欧州において私有財産や市場は昔から歓迎される存在であった訳ではない。プラトンはその著書「国家」において私利私欲や私有財産を否定し、共通意識で結合されたまるで共産主義のようなポリスを理想像に置いている。逆にアリストテレスは私有財産を肯定するが、それは生活の維持のための必要性を説いたに止まり、富の蓄積や交換(市場取引)には否定的である。因みに高利貸しは最も憎悪すべきものだと「政治学」で述べている。

中世キリスト教社会も、似たような倫理感を引き継いでいる。おカネに関わる「不浄な仕事」をユダヤ教徒が一手に引受けることになったのも、そうした背景があると見て良いだろう。神学者トマス・アクィナスもアリストテレス同様に私有財産を認めながら、自分自身の生活を満たすため以外の「利潤獲得」目的の交換(市場)や利子の取得を「神学大全」で厳しく批判している。

こうした反自由主義的なキリスト教社会に、資本主義が芽生えた背景を説明したのがマックス・ウェーバーであることはあまりに有名だ。ウェーバーは、プロテスタントが営利を否定しながらも「救済の確証の場」である職業に専念した結果としての冨の蓄積は神に忠実であったことの証であると見做し、宗教的目的に沿った資本主義の正当化を図ったと見る。それは次第に宗教的倫理を超えて、冨自身を正当化する社会へと変質していく。

つまり、欧州においては私有財産や市場が原理的に自由主義の証であった訳ではない。むしろ宗教的に抑制された中で、宗教的に正当化され、それが自己増殖を始めていったというのが実状のようだ。但しそれは飽くまで市場社会の論理の変遷であり、私有財産や市場の必要性が現実社会に溶け込むためには、民主主義的な政治体制と、価値観(道徳観)における自由主義の後押しが必要であった、と故藤原保信教授は述べている。

簡単に要約すれば、まず政治的な側面から民主制を支援したのがホッブズやロックらの思想であり、さらにそれを道徳的な側面で支えたのがベンサムの功利主義であった。現代の自由主義的社会は、こうした礎の上に築かれている。

◆ 民主主義と自由

ギリシア時代の政治制度認識において民主政は、貴族政や名誉政、寡頭政に次ぐ順番であり、せいぜい僭主政よりましなものという程度のものでしかなかった。中世に至っても、民主政は「貧者ないし愚者の支配」という認識(あながち間違いではなさそうだが)が一般的であった。支配する者と支配される者とは、自然秩序に内在していたという解釈である。

これに挑戦したのが、米ブッシュ政権誕生とともに登場する「ネオコン一派」に影響を与えたと言われるホッブズである。ホッブズの政治理論は自然状態をスタートに置く。つまり、人間社会には明示的な政治的権威が存在している訳ではない。そこでは自由すなわち「自然権」を保全するために自然法が生まれる。国家はその契約関係として設立されるものに他ならない。ホッブズはその最適な形式は君主政であるとするが、ネオコン「総帥」のレオ・シュトラウス教授は、これが欧州政治における自由主義の初定義だと解釈する。

但し故藤原教授は、より明確な政治的自由主義の提唱はジョン・ロックであると言う。ロックは民主政をベストと断定している訳ではなく参政権拡大や普通選挙制を要求するでもないが、「同意による政府」の設立を通じてそれが所有権の保全を担保すると主張することで、ホッブズよりもさらに「自由度」の高い議論を展開する。ロックが「政治論」を執筆した10年後には、英国で名誉革命が起こっており、その思想が市民革命に繋がったと見ることも出来ると同教授は述べている。

さてアダム・スミスが「自然的自由の体系」を描写し、ジョン・ロックが「民主主義的政府論」を主張して、資本主義と議会制民主主義への道が敷かれた。だが、道徳的価値観の浸透無しに、自由主義は根付かない。因みにアダム・スミスは経済学者以前に倫理学者として「道徳感情論」を著し、市場の相互交換の中にも人間を拘束する道徳規則が存在しており、その遵守を通じて調和的な秩序へ到達すると述べていた。

その道徳規則を否定したのが「功利主義」の始祖ベンサムである。ベンサムは、快楽と苦痛という自然的事実は価値基準として量的表現が可能だと述べ、社会のプライオリティを有名な「最大多数の最大幸福」のスローガンへと帰結させていく。ここに至り、従来最低ランクに置かれていた「欲求的行動」こそ人間の本質的なものであるとの評価を獲得し、資本主義・議会制民主主義における「自由」が見事に正当化されていったのである。

◆ 自由主義のゆくえ

こうした自由主義に支えられた資本主義社会の将来像を考えるにあたり、唯物史観を以って社会主義への移行は必然と説いたのがマルクスであったことは言うまでも無い。そしてその「社会科学性」にもかかわらず、現実の経済社会はマルクスの予言から大きく逸れて展開していく。今やマルクス経済学者は、社会学に特化するか転業するかの選択しかないと揶揄される。その決定論的歴史的法則性への幻滅からか、一挙に180度方向の違う複雑系経済学に転向した学者もいるほどである。

それは兎も角、マルクス・エンゲルスの予想を遥かに越えた現代の経済社会は、決して自由主義を盲目的に正当化している訳でもない。社会主義は失敗したが、自由主義の下での資本主義経済にも弊害は見えている。アダム・スミス流の「ユートピア資本主義」は、むしろマルクス的社会主義陣営からの攻撃によって、自由度の適度な束縛を受けて発展してきたと見ても良いかもしれない。それは欧州での社会民主的な資本主義に現れている。また中国における市場制度の導入は、社会主義的な資本主義といっても良い。

自由主義という絶対的価値観をもつ米国の資本主義は、その意味で極めて例外的な存在であるが、「外国=米国」の日本では、米国の自由主義的な資本主義社会が唯一の資本主義であると見る人も少なくない。

小泉首相らに代表されるような日本の「構造改革派」は、そうした倫理的束縛のない時代遅れのユートピア資本主義の再現を目指すが如く自由主義を旗頭に置いた。それは、自由主義とは当たり前に存在する最善のもの、というナイーブな自由主義思想を基盤としている。米国から自由主義を教わった日本の面目躍如であろうか。

だが、小泉政治が窮屈な日本社会に風穴を開けたことを評価する一方で、その自由主義に一種の胡散臭さを感じる人も増えたことだろう。表沙汰になったライブドアや村上ファンドだけでなく、その亜流や予備軍、子分たちが静かに増殖していることも既に周知の事実だ。自由を穿き違え、義務感無き権利を主張し、資本の論理は社会の論理と言い切る道徳観の欠如にすら拍手する知識人は絶えないのである。

自由とは何か。マルクスはすべて間違っていたのか。民主的であることの意味は何か。株式教育をする前に、学生に教えるべきことは沢山ありそうだ。金融における自由の思想史に関しては、稿をあらためてもう少し深く考えてみたい。

2006年09月22日(第131号)