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◆ 2007年の初夢「日米固定相場復活」

◆ ニクソン・ショック

「ニクソン・ショック」という言葉を覚えている人は多いだろうが、それが何を意味したか、現代の通貨システムに慣れきった我々は往々にして忘れがちである。ある酒席で為替市場の話になった時、ニクソン声明で変動制に移行したという話が出たが、それは明らかな間違いである。1971年のニクソン声明は、ドルと金の交換停止を述べたに過ぎない。通貨レートが雪崩を打つように変動していったのは、1973年2月以降のことである。

35年も前の話を正確に覚えている人も少ないかもしれない。私は当時まだ高校生であり為替など興味の欠片もなかった。だが1週間ぶっ続けで行われる母校の学園祭の、明治以来の伝統であった「竹人形作り」に、ニクソンをモチーフにしたのでこの「ニクソン声明」は何となく記憶に残っている。但しそれが8月15日という歴史的な日に発表された、という史実は後になって確認した程度だから、私の認識もたかがしれている。

当時の新聞の複製を読み直すと、そこには日本の緊張感と焦燥感が詰まっている。だが意外な面もある。朝日新聞など当日の一面はまさに「ニクソン声明」一色なのだが、そのトップの見出しは「輸入課徴金10%」なのである。「金とドルの兌換停止」はその次の見出しとなっている。

確かに輸出で外貨を稼ぐしかなかった日本経済に米国による輸入課徴金は大きな問題であったが、今から見れば金・ドル兌換停止という世界を揺るがすビッグニュースが二番目の見出しとはこれ如何に、である。勿論、大蔵省の内部では蜂の巣をつついたような騒ぎだったと聞くが、当時は米国の意図を計りかねていた、という資料も残っている。ドルを切り下げる意図は当然推測されるところであったが、その後の金とのリンケージ分断や変動相場制への移行など、その時点では想像も付かなかったのかもしれない。

因みに、ニクソン声明が8月15日に行われたのは、第二次大戦終了を意識した米国の対日報復の意図があるという講釈をよく聞かされるのだが、米国にとっての対日戦勝日、いわゆるJ-DAYは日本が戦艦ミズーリ号で降伏文書に署名した9月2日であり、この「解説」はいかにも日本的な「怪説」のような気がしないでもない。

閑話休題。ニクソン・ショックの4か月後、米国のスミソニアン博物館で、新たな固定相場が決められる。円は、360円から308円と最も厳しい切り上げ率を受容せざるを得なかった。だが、この新固定相場も長続きはしなかった。米国の貿易赤字は拡大し、ドル不安は止まず、1年余りで主要国通貨は変動相場の荒波の中に放り出されていくのである。

◆ 金との離別

変動相場制が未知であったのと同様に、世界にとって金とのリンケージが切れた通貨制度にも大きな不安を抱いていたに違いない。金は、銀と同様に過去数世紀にわたって通貨の礎であったからだ。1944年以降のブレントンウッズ体制は、事実上「金ドル本位制」としてドルの地位が圧倒的な制度であったとは言え、フランスのように手持ちのドルを全額金に交換するよう申し入れる国もあった訳で、やはり通貨制度の本質的な拠り所はつい数十年前までは金だったのである。

だが考えようによっては、なぜ金が通貨として長く君臨できたか、の問いかけの方が興味深い。たかが金属の金がなぜ延々と国際的に通貨たりえたのかは、現代人にとっては逆に大きな謎である。筆者にその問いに答える能力はないが、ざっとその歴史を振り返るのも無駄ではあるまい。

金や銀が国際決済に利用されるようになったのは、16世紀以降の欧州・アジア間の交易拡大の結果でもある。欧州にはアジア物産は大きな魅力であったが、アジアには欧州物産はたいしてアピールしなかった。従って、欧州は銀や金を支払うしかなかったのである。幸いなことに欧州には、スペインの中南米征服による銀の流入が続いていた。そうして銀による国際通貨制度が完成していく。

だが現代人もキャッシュの運搬よりも送金を選ぶように、当時の人々も金や銀の運搬は面倒だと思ったに違いない。そこに目をつけて商魂逞しいイタリア人が「バンコ(Banco)」を開業して為替手形の取扱いを始める。それは自国通貨建ての通貨取引だ。その中心地は、国力の変遷によってジェノバからアントワープ、アムステルダム、ロンドンと移りゆく。

七つの海を征服した太陽の沈まぬ大英帝国は、その経済力と金融ネットワークでその決済機能を一手に引き受け、ここにポンドの基軸通貨性が完成したのであった。だがそれも「金」あってこそ、である。ポンドは、金という王政のもとでの「摂政大臣」であったとも言えるだろう。そしてその摂政の位を狙ったのがドルであった。二つの世界大戦を経て、ドルは計画通りポンドからその座を奪うことに成功した。それがブレトンウッズ体制である。そして、その体制も「金ドル本位制」であり、飽くまで信用の裏付けは「金」であった。

それを破棄したのがニクソン・ショックである。金はスミソニアン体制で1オンス38ドルという新しい切り上げレートが設定されており、正式な廃貨、つまり通貨としての死亡宣言は1976年のIMF総会まで待つことになるが、1971年8月の声明は既に事実上の金の退場を意味していたと言って良いだろう。

ここに金は通貨としての存在意義を無くして、コモディティの世界に生きることになった。だがその後の運命は、必ずしも通貨と無縁になった訳ではないことを示している。金は外貨準備にまだ利用されており、保有比率の高い欧州各国も簡単に手放す姿勢は見せていない。むしろ国家の債務が増える一方の先進国経済を見るに付け、誰の債務でもない金に対する信用力が復活しつつあるのでは、と思いたくなるのも事実である。海外に上場されている金ETFへの機関投資家の熱い視線は、そして昨年末にドルの軟調推移に反応するように下値を切り上げた金の価格動向は、それを如実に示しているのではないか。

◆ 変動相場の運命は

金とのリンクが消滅し、為替は自由に変動するようになった。だが欧州は、ニクソン・ショックの1年前に「ウェルナー報告」で既に共通通貨への構想を打ち出している。それは、その後のスネーク制やEMSにおけるECUの創設を経て、ユーロに帰結する。英国のようにひたすら我が道を行く国もあるが、為替は変動しない方が良い、という欧州独特のDNAは今でも生きている。

日本は1973年以降、為替変動は受容せざるを得ないものと耐え忍んできた。為替政策というよりも、米国による政策誘導は効し難いもの、と認識してきたという方が正しいかもしれぬ。ただ、中国のしぶとい通貨政策と比較しても仕方が無いだろう。日本は敗戦国であり、中国はどちらかといえば戦勝国なのである。

変動相場制が悪い制度であったというつもりは無い。変動に耐える企業力が育成され、変動に備える派生商品が開発された。活発化する資本移動は、グローバリゼーションを通じて金融産業の発展をもたらした。金融の発展は、企業経済を鼓舞する役割も果たした。

貿易摩擦や為替介入など国家間の軋轢も増えたが、それは以前のように戦争のような悲惨な結果をもたらした訳ではない。企業はむしろ如何に競争力を高めるかを競い合い、消費者にメリットをもたらしたのである。

金とのリンクを外れた変動相場が、各国の政策に自由度を与えたこともそのメリットの一つである。為替制度に縛られて、紙幣発行が抑制されたり不況下に高金利政策を余儀なくされたり、といったデフレ的事態も回避された。1992年、英国は景気低迷時に金利を上げ続けたが、その限界を見破られてジョージ・ソロスの餌食になった。それはEMSレート維持という一種の固定制に縛られていたが為に起こった出来事であった。

変動相場に慣れると、固定相場は古臭くてカビの生えたような制度に見える。為替ディーラーにしてみれば、固定相場は職が無くなる迷惑な制度である。ユーロ導入によって、欧州市場では実際にクロス・ディーラーの仕事は激減した筈である。

但し歴史が物語るように、国際経済社会が固定相場を放棄したのは、その当時それが維持できないと判断されたためであって、変動相場がより正しい制度だと社会的に証明されたからではない。「民主主義は最悪の政治形態だ。これまで試みられてきた民主主義以外のあらゆる政治形態を除いてだが。」と言ったのはチャーチルだ。それと似たようなところが変動相場にも言える。他に良さそうなアイデアが無いだけなのである。

だが、そこでふと考える。1960-70年代と2006年現在とでは、世界経済の構造が変化しているのではないか、という疑問が浮かぶ。成熟国の経済が収斂していくのであれば、その為替レートの変動率も縮小していくのではないか。ドル円にみる最近のボラティリティの低下は、そうした構造を先取りしているのではないか。今後の為替変動のポイントは、成熟国と新興国との間の問題に限定して良いのではないか。

◆ 固定相場復活は愚策か

ここから先は、正月気分の抜けない勝手気ままな推論である。ドル円だけでも固定化するような議論を米国に吹っかけると、米国はどんな反応を示すだろうか。米国の視点は、今や人民元にしかない。日本円を固定化したところで抵抗は小さいかもしれない。米国自動車産業の苦悩は、もはや為替レートでの話ではなくなっている。

為替を固定化すれば、日本から米国への運用はうんと楽になる。投資立国を目指す日本にこれほどの順風はない。金利差が3-4%もあって為替リスクがないとなれば、1500兆円の個人資産は一斉に米国へ向かうかもしれぬ。ドル買い圧力で上昇する為替市場に、日銀は豊富な外貨準備でドル売り介入を行う。これで無用の外貨準備も減らせるわけである。

ドルへの投資だけでなく、ドル・ペッグしている通貨への投資もやりやすくなる。新興国への投資が急増するかもしれない。日本からの安定資金によって、新興国経済は伸びるだろう。そうなれば彼等の通貨も切り上がり、日本は悠々と配当・利子に加えて為替益をも享受できる。

そんなに上手く行くか、と嘲笑されても結構。これは一種の思考実験である。だが、19-20世紀のように、各先進国の経済状態の相対性がドラスチックに変動することはないとすれば、当時は維持できなかった固定制度のメリットも蘇る。もっとも、そこに金の復活まで期待するのは無理があろう。

ニクソン声明は、確かに「ショック」であった。だがその歴史的な流れの中での位置づけを見直してみると、そこには今後を占う上でのインプリケーションも含まれている。金融史を学ぶことは、金融の将来像を、そして金融と社会の対話法を想像することでもある。固定相場復帰論は、その一つの思考実験に過ぎないが、笑って済ませられるほど軽いものでもなさそうに思える。

2007年01月12日(第138号)