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◆ 東京金融特区構想の行方

◆ 金融相の金融特区構想

1月8日、ロイターに「山本金融相が東京都内に金融特区の創設構想」というヘッドラインが流れた。一瞬、何かの間違いではないかなと眼を疑ったが、同大臣が英国訪問中、英中銀のキング総裁らとの会談の中でその構想述べたことは事実だったらしい。経済財政諮問会議の中に研究会を立ち上げて、東京の金融センターとしての地位を強化することを目指すのだという。翌日のメディア報道を見ながら、東京市場の誰もが熱狂した1980年代を思い出さずにはいられなかった。

東京の国際金融センター構想というのは、新しい概念ではない。バブル華やかなりし頃、兜町や大手町の若手金融マンはこぞって「金融で最も刺激的なのは東京市場」だとはしゃぎ、シティやニューヨークなど海外派遣の人気は急速に衰えていった。「洋行帰り」した自分にとってはどこか違和感を抱かざるを得ない環境であったが、その直感は数年後に的中することになる。

だが当時、金融関係者が「幻想」を抱いたのは無理も無いことである。1970年代末期のシンジケートローン市場での邦銀の活躍に始まり、英シティの証券引受は日系業者の独擅場となり、外資系金融に対する畏怖の念は消えていく。更に日本株は「今日の高値は明日の安値」とばかり連日のように値上がりし、不動産を持たぬ人間は無能扱いされるほど土地の価格は日本中で急騰する。東京は外人が徘徊する街になり、世界に新たな金融中心地が誕生したかのような印象を与えていった。

東京の地理的環境は確かに米国と欧州を繋ぐ絶好の位置にあり、その頃は北朝鮮問題も「地政学的リスク」などの言葉も存在しなかった。欧米金融機関もこぞって日本に進出し、東京が「国際金融センター」に育つかに見えた時期があったのは事実である。

その後、東京市場は日本経済のバブル崩壊を契機に銀行経営不安、株式低落などの長いトンネルに入り、その薔薇色の将来像も吹き飛んでしまった。そしてほぼ15年を要した負債処理を終えて漸く迎えた景気回復と金融復興の時代に、忘れられていた金融センターの夢が蘇る。或いは香港やシンガポール、上海市場などの盛隆を目の当たりにして、危機感がムクムクと湧き上がってきたと言うべきかもしれない。

いずれにしても、気付いてみれば今や東京金融市場はアジアの一市場にしか過ぎない存在に成り下がったという認識が広まっている。それをバブル崩壊の所為だと言う事は容易いが、それだけで東京の地盤沈下のイメージを説明できるものではない。シティもニューヨークも色々な意味で逆風に苛まれてきたが、国際金融センターとしての地位を失ったことはない。つまり東京市場の「転落」には、もっと本質的な問題が数多く隠されていると見るべきである。但し、山本金融相の発言がそこを見抜いたものなのかどうかは報道では解らない。

以下、例によって筆者の経験のみをベースにした独断的な観察を雑談風に述べながら、その問題を紐解いて見ることにしよう。

◆ 何だかよく解らぬセンター構想

その前に、少し周辺の見取り図を確認しておこう。既に本誌で何度か紹介したとおり、金融特区構想は既に筆者も多少関わりを持つ沖縄県名護市において様々なプロジェクトが進行している。但し特区といえども税制優遇は事実上無いに等しく、「名護市だから金融のこれが出来る」という売り物は乏しい。この既存特区と山本構想は何が違うのか、明確な説明は何も無い。

また金融庁は2004年12月に「金融サービス立国への挑戦」という金融改革プログラムを発表している。面白いことに、沖縄特区とのコラボレーションは全く無い。金融特区構想に関わるプロジェクトに、金融庁はノータッチなのである。むしろ関与するのが内閣府であることは、如何に名護市の金融特区が国内政治的な産物であったかを如実に示している。

また加えて、安倍内閣のもとで根本首相補佐官が推進する「アジアゲートウェイ構想」というのがある。そこに掲げられた7つの重点政策の一つとして「日本・アジアの金融資本市場機能強化」というタイトルが見える。副題には「日本の国際金融センター化とアジアの金融資本市場の育成」とある。

この伏線となったのは、昨年9月にリリースされた「世界の中の日本・30人委員会」による「リーダーシップをもつオープンな日本へ」と題する政策提言である。この委員会は外務省が様々な分野のエキスパートに呼びかけて組織されたもので、明石康氏から木村政雄氏までユニークな構成になっている。そこには塩崎官房長官の名前もある。そこに「東京をアジアと世界の金融センターに」と一言入っており、塩崎・根本コンビによる「国際金融センター構想」が盛り上がったという背景があるものと推察される。

だがこの官邸主導の構想と山本金融相の特区構想にも、具体的な接点は見えない。どうやら日本の悪い癖が出て、閣内で別々に花火を上げて事務方が混乱するという雰囲気も伺える。前政権同様に見栄えのよいワンフレーズだけを放っておきながら、縦割りの議論が再燃してさらに政治家と官僚の隙間風が吹くようでは、前政権よりも始末が悪い。国際金融センター構想はそれほど簡単な話ではない。鳴り物入りで導入された金融商品取引法ですら、商品ファンドを締め出しているのが現状である。日本の「金融国際化構想」は、再び絵に描いた餅で終わりそうな雰囲気も漂う。

◆ 大西洋間の歴史

さて本題に入ろう。なぜ東京が国際金融センターになるのが難しいのか。私なりの結論をひとことで言えば、金融市場史は「大西洋間の歴史」でありそれが現在まで延々と続いているからだ。それでおしまい。冷たいようだが、地理的なアジアが無くても国際金融は機能するのである。24時間を三分割して、どうしてもアジアが必要だと言いたい気持ちは解るが、早起きや夜なべすれば欧州と米国は十分アジア時間をカバーできる。

アジアが必要なのは、そこにキャッシュと可能性が眠っているからだ。1980年代の日本に欧米金融が進出したのは、ある意味では20世紀最後の「ゴールドラッシュ」であり、現代版「金融上の発見」であった。それが21世紀に入って中国やインドにまで伸びている。国際金融資本は金融市場としてのアジアではなく、宝物を探しにアジアに来ているだけである。その基本哲学は、たぶんマルコポーロや16世紀大航海の時代からそれほど変わっていないのだ。

国際的な金融取引は、欧州に端を発しそれが大西洋を越えて米国と「ケーブル」で繋がれたものである。そこには通貨覇権の駆け引きもあった。その傍らで両市場はお互いに刺激しあう形で資本市場化を進めていく。米国の社債・株式市場や先物市場の驚異的な発達は、英国のシティを鼓舞することにもなった。今では反対に、英国の資本市場が米国を脅かし始めている。証券取引所は合従連衡時代を迎え、大西洋を挟む金融機関の買収なども珍しくなくなっている。

冷淡に言えば、国際金融市場にとっての欧米市場と東京市場の存在感の関係は、ロイターやブルンバーグが必須の道具であるのに対し、日経クイックなど無くてもよいのと似ている。たしかに日本経済の台頭による日本円や日本株の存在感の高まりは、アジアでの株式・為替・デリバティブなどの市場の存在を要求した。だがそれは、従来の彼等の「言語圏」でありまた法制や当局規制などの金融感覚が近い香港やシンガポールを利用すれば事足りる。

欧米金融のアジア本拠地は、殆どがそのどちらかであり、私の米銀時代もボスは香港にいた。それは特に驚くに値しない。日本が金融を考える際、東京という地理感と日本円に重心を置かざるを得ないが、それが国際金融センターを考える際の障害になっている。

東京は昔から、グローバル金融から取り残された市場なのである。別にバブル崩壊で落ちぶれた訳ではない。東京は、シティやニューヨークと同質な市場を求められている訳でもない。東京は、東京としての自立した金融センターを目指すしかないのである。そして、それは極めて合理的な選択でもある。

◆ 投資立脚型の金融立国

あまりに「国際金融センター」にネガティブになり過ぎたかもしれない。だが筆者は外資系企業が東京で大幅増員したがるような金融センターを構築することが不可能だと思っている訳ではない。勿論、拙書でも述べたように構想としては「金融立国」よりも「投資立国」の方が現実的である。但し、「国際金融センター」ではなくその両者を結びつける形での「国際的な」金融センター作りは、かなりの思想的困難が伴うが、可能であろう。

まず始めに、「グローバル市場」といった概念での金融センター構想は捨てる必要がある。日本の資本市場は、悲しいかな円建てでしか有り得ない。円建て市場はグローバルにはなり得ない。そのあたりは英国の巧妙な戦略を参考にすべきだろう。ポンドは地域通貨でしかないが、シティは国際金融市場として生き延びている。

次に、国内に溢れる金融資産に着目する。これは米国を見習う。米国が金融覇権を握ったのは、軍事・政治力を支える資本蓄積があったからだ。軍事は別として、米国からは資本力を学ぶ。

何が言いたいか。日本円や日本株、円建て債といった市場ビジネスに拘らぬ多様な金融ビジネスの活性化を考えればよいということである。ゴールを決めれば、あとはプロモーションだ。日本には、厳格すぎる検査体制や商品認可体制(そしてやや過剰気味な投資家保護)を除き、特に撤廃すべき規制はない。例えば一部の地域に「国際色豊かな資産活用センター」を作り運用商品だけに限定しない様々な海外の商品を並べる「資産活用ショッピング・ビジネス」を東京に誘致することも一案だ。そこには先進国だけでなく、新興国などエキゾチックな海外情報も満載となり、旅行・長期滞在ビジネス、海外文化交流などの副産物をも誘発するかもしれない。

こうした「国際色」は様々な国際会議ビジネスをも呼び込むことが出来るだろう。会議ビジネスは、英国シティでも収益性の高い商売であると聞く。雇用機会の増大や税収増などにも寄与する可能性もある。GDPにだって貢献しうる。金融博覧会のようなアイデアもあって良いだろう。

つまり「東京にいないと情報が集まらない」という環境を作ることである。NHKに二か国語放送によるアジア金融・経済特化番組を企画させてもよい。これが出来れば、香港やシンガポールに拠点を置いて日本に投資する海外ヘッジファンドを東京に呼び込める可能性も出てくる。これはまさに東京市場の「国際化」の一つであろう。その場合には、従来指摘されている配当課税の所謂「二重課税撤廃」も必要になる筈だ。

この国際的構想は、東京を日本からの海外への投資と海外から日本への資本流入という双方向の資本循環の「場」にするという発想だ。この延長には、東京市場をアジア企業の円建て資金調達の場にするという発展性(特にアジア地域プロジェクト・ファイナンスの証券化)も考えられようが、投資家の準備が整わないままに、いきなりアジア共通通貨やアジア債券市場を東京市場のアジェンダにするのは間違いである。アジア資本市場の活性化は一世代先の夢物語である。 

以上、東京市場が「国際化」するには、東京が世界の中に置かれた位置と強み・弱みの再認識から出発するしかないというのが結論だ。冴えないと思われても仕方がない。それが東京市場の実力なのである。だが、己を知ることは、1980年代の幻想を繰り返すことなく地に足のついた論議を可能にするスタートラインでもあろう。

2007年02月09日(第140号)