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◆ 地域通貨の「通用力」

◆ 地域通貨の有効性

経済物理学の集会に出ると、しばしば地域通貨についてどう思うかと質問を受けることがある。物理学や工学出身者の多い研究会は、最近経済学者との交流も増えているようだが、実際の金融現象に関してはやはり距離感がある。私のような銀行・証券経験者が、地域通貨の有効性をどう見るのか、気になるのだろうか。

通貨に対する経済物理的思考は、なぜ日本円という既存通貨だけにこだわる必要があるのか、という問題意識から出発することになる。過去にも金や銀だけでなく紙幣のようなペーパー・マネーを受容してきたのだから、効用さえ多数の人々に受容されればそれはどんな形態であっても通用する筈だと考える。その一つとして地域通貨があり、更にはその発展系としての企業通貨構想がある。

だが現実問題として、地域通貨が成功しているのはごく僅かの例しかない。世界では約2,000箇所で、日本国内でも約140地域でこうした試みがなされたが、失敗に終わった事例の方が圧倒的に多い。例えば日本で上手く機能しているのは滋賀県で導入された「おうみ」くらいなものであると言われている。現在、筆者が関わる沖縄金融特区でも沖縄の地域通貨についての研究が開始されており、その行方が注目されるが未知数の部分も少なくない。

地域通貨には金利が付かないという構造的な問題を指摘する人もいる。但し、地域通貨は決済性が重要視されるので、金利はそれほど重要な要素ではない。ゼロ金利で日本円での運用を諦めて海外に逃避した人でも、決済用の資金は日本円で持つしかないのだ。

ではなぜ日本円が通用するのか。一般的には日銀を信用しているからだと言われる。金融の教科書にもドルが信認されているのは世界が米国の金融当局を信用しているからだと書いてある。私もどこかでそんなことを書いた。だが一般庶民的感覚からすれば、1,000円札や10,000円札は、日銀を信じているというよりもスーパーで買い物が出来るから選好されているに過ぎない。スーパーもその紙幣で仕入先への支払いが出来るから、そのペーパーを受け容れているのである。

そう考えると、貨幣・通貨といった概念は「相互主観的な承認」によって生まれるものだと想像できる。その仮説は、相互に承認されれば何だって貨幣になれるということだ。地域通貨はそうした思想原理を基盤にして作られている。経済物理学が想定する「貨幣の土壌」も似たようなところがある。だから、私が地域通貨に冷たい反応を示すたびに、通貨の通用力に詳しい筈の金融実務経験者がなぜ地域通貨の有効性を認めないのか、といった反駁を食らうことになるのである。

◆ 貨幣流通と国家

地域通貨がなかなか成功しない一つの理由として、別の角度から「通貨とは国家である」という論理を持ち出す人もいる。「ドル=米国」「円=日本」といった印象からすれば、その主張は必ずしも間違ってはいないようにも思えるが、それが絶対的真実であるとは言い切れない。既にユーロは国家を超えた存在であり、ユーロ懐疑派を嘲笑するかのようにドルを脅かす通貨になりつつある。

通貨は、国家権力が支えることによって国内で流通するのは事実である。ユーロもその意味ではEU議会や欧州中銀などの政治的・金融的権威を背景にして圏内で流通していることに変わりは無い。だがその通貨が対外的な交易や資本取引で使用されるには、「交換」という意味での自律性がなくてはならない。共同体と共同体の間の「通貨」の概念は、共同体の中での通貨の概念とは違う。

評論家の柄谷行人氏は「世界1月号」でロシアの通貨を例に挙げて、「ルーブルは国家強権によって支えられていたけれども、通貨として流通する力を持っていなかった」と指摘している。そして商品交換から生成したものでない通貨、即ち「通用力」を持たない通貨は、国家が消えれば自動的に信用を無くして消滅する運命にあると述べている。1991年の100ルーブル紙幣消滅は、その典型であったということだ。

その意味では、地域通貨の難しさは、国家を背景にしていないということではなく、商品交換から生まれてこないという出自の問題であるということになるのかもしれない。実際に英国で流通し始めた地域通貨「LETS (Local Exchange Trading System) 」の日本への導入に関わって失敗した柄谷氏は、マルクス流の商品思考を敷衍しながら、それ自体が使用価値を持つ存在でなかったことをプロジェクト破綻の理由に挙げている。

ソ連末期にはルーブルへの信頼性は地に落ちたが、混乱時に通用する筈のドルでの決済も「投機行為」で刑法上の犯罪の対象となり、当時は煙草の「マルボロ」が代替通貨として利用されていたという。日本でも刑務所では煙草が通貨代わりに利用されていたといった話も聞くが、柄谷氏はそうした煙草の事例は、それ自体に「使用価値」のあるものこそが一般的等価物として通貨になりうることを説明するものだと述べている。

因みに、ルーブルは現在でもロシア国内の正式な通貨だが、活況を呈する株式市場のRTS指数は何とドル建てで表示されている。海外資本は、石油やガスで文字通り「沸き上がる」ロシア経済を評価する一方で、ルーブルは「使用価値」に疑義ある通貨として未だに信用していないのであろう。

従って、地域通貨も小さなコミュニティでは成功しても、使用価値が認知されぬままその輪を広げようとすれば失敗に終わる可能性が高くなる。共同体内部の通貨と、異なる共同体の間の通貨とは、違うのである。単なる相互主観的な承認といった理念的な枠組みからは、共同体間で利用される通貨としての存在意義は出てこない。つまり、異なる社会の間での商品交換において発生してきた歴史の積み重ねこそが、通貨としての担保を与えるのかもしれない。これは明らかにマルクス的思考を想起させるが、存外真実に近いような気もする。

◆ 地域通貨としての日本円

以上は、狭い社会で流通する地域通貨を想定した議論であるが、その弱点の構造は日本円の海外交易における交換通貨としてのインプリケーションを感じさせるものだ。周知の通り、日本円の貿易通貨としての地位は低い。日本企業の輸出入で利用される円建て貿易は恐らく30%を超えない水準のままである。2000年の古い資料だが、世界に占める日本貿易のシェアは15%で、円建ては5%に満たない。因みに米国の貿易シェアは31%でドル建てシェアは49%、欧州は貿易シェア19%でユーロ建ては31%である(財務省)。現在ではユーロの進展が著しいのでもう少し構造は変わっているだろうが、日本円の利用度シェアは多分同じ位だろう。

こうした議論の延長に、欧州や米国向けではドルやユーロには勝てない、それならアジアで円を、という議論も生まれてくる。そこには円の「商品交換性」や「通用力」や「使用価値」といった概念は見事に捨象されている。それどころか「相互主観的な承認」すらも、アジア諸国は日本円を受容する筈だという一方的な思い入れで、無視されている。

国という共同体内での通貨の通用力は、国家が決める。だが国と国との間の、つまり異なる共同体の間での通貨の通用力は、使用価値が決める。ポンドが基軸通貨になったのも、 金や銀による現物決済ではない振替決済としてどこでも使える使用価値があったからだ。日本の経済成長とともに日本円に使用価値が認められるような工夫がなされたのなら、日本円も立派な決済通貨になったかもしれないが、大蔵省は逆に他の共同体による使用価値を制限する仕事に専念していた。日本円は、いわば地域通貨としての宿命を負わざるを得なかったのであり、それは将来も変わることがないだろう。

日本円を地域通貨として見ると、その「資本市場通貨」としての限界もよく説明できるように思われる。勿論、社債市場や株式市場などの有価証券やスワップ取引などの派生商品として日本円のインフラは国内で一定の役割を果たしているが、資本通貨としては日本海や太平洋を越えて外には出て行かない内弁慶の通貨である。

むしろ海外では今やキャリー取引の隆盛で、ドルやユーロを買う為の「売り通貨」つまり資本市場で捨てられる通貨として利用されているのである。これは確かに低金利が大きな要素になっているが、その地域通貨が国内ですら活用されることなく大量に死蔵されている事実を、海外に見透かされているからでもあろう。

国内では日本円は絶対的な存在であり、地域通貨など敵ではない。だが世界の市場では国際的に見て地域通貨に過ぎない日本円を捨てている。その使用価値の低下は、新興国の台頭によってさらに拍車がかかるかもしれない、と考えるのはあまりに悲観的だろうか。

2007年03月09日(第142号)