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◆ 米国は何故オプションを作ったか

◆ 金融と思想との接点

金融技術が大西洋間の歴史の中で生まれ育ってきたというのはある意味で常識だと思うが、それが何故そこで生まれ得たのかという想いに馳せる時、金融と西洋流社会思想の接点を感じずにはいられない。金融派生商品が、金融市場の発展の中から生まれてきたのだと解説するのは易しい。だが変動する市場に対するヘッジニーズがオプションのような現代技術をもたらしたのだという説明は、物事の半分しか描写出来ていないような気もする。

オプションは現代金融の革命的存在である。だがその革命児の誕生には、例えばナポレオンがそうであったように、何らかの思想的な支持を得るという社会的背景があった筈だ。それは単なる市場ニーズという表層的なものでなく、基軸通貨としての不安定性を別の客観的論理基盤によって補完したい、といった米国なりの計算も背景にあったのではないか。

それは、BMA140号(2月9日号)で藤崎達哉氏が指摘したように、新古典派経済学における科学的論拠を与えるもの、つまりマルクスが客観性を解析しきれなかった主体としての論理性に数学的な息吹を与えた、という意味で捉えることも可能だろう。但し、その解釈は現代の視点に基づく技術の価値判断であり、必ずしも開発当時の臨場感や昂揚感を代弁するものではないと思われる。従って、本稿ではやや違った観点から特にオプションの出現についての論考を試みてみよう。

◆ オプションの誕生

1973年にフィッシャー・ブラック氏とマイロン・ショールズ氏の両名が論文を発表したのはあまりに有名な話なので、特にここで付け加えることは無い。だが実際の金融市場がこの理論を十分に消化して実務化するまでには数年の年月を必要としている事実はもっと注目されて良い。

市販の書籍には、あのギリシアの哲学者ターレスが天候予測に基づいてオリーブ油の圧搾機を利用する権利の売買を行ったのがオプションの起源だという描写もあるし、17世紀のオランダのチューリップ球根バブルがオプション市場の幕開けだという説を紹介しているものもある。米国でも18世紀に既にオプション取引の原型が見られたらしい。だが価格合理性の無いオプションは、現代的な意味ではオプションとは言えまい。

やはりオプションはブラック・ショールズの編み出した理屈に基づいた取引を以って嚆矢とすべきである。その現代的オプションの誕生は、1973年4月のCBOE(シカゴオプション取引所)での個別株オプションの上場と見て良いだろう。但しその上場数は16社に過ぎず、また当初はオプションの買い建てのみの取引であった。売り建てが可能になったのは1977年である。また、当時のシカゴ市場では不正取引も多く市場に対する不信感も根強いものがあったと聞く。オプションのような新しい市場取引が、一気に拡大したという話ではなさそうだ。 

さてブラック・ショールズの論文が発表されたのは、CBOEでオプションが上場された1か月後のことである。通貨先物はシカゴ大学のフリードマン教授が設計したことで知られるが、オプションはむしろ実践が最初で理論は後付けであったことがわかる。つまり、理論がオプションを作ったのではなく、既存の市場取引に対して理論がその存在の証を与えたのである。それは、制度的意味での担保ではなく飽くまで理論としての裏付け認知であった。つまり、オプション開発とは既に存在していた取引に対して論理基盤を与えたという意味での技術開発であり、先物やスワップのような「新発見」ではないことが、この革命の特徴を浮き彫りにしているとは言えまいか。

◆ 1970-1980年代

筆者自身が実務の上で最初にオプションに出会ったのは、1982年頃にユーロ市場で流行し始めた、社債に付加されたワラントである。当時は社債へのSweetenerとして調達コストを引き下げる為のグリコのオマケみたいな存在であった。だがそれは次第に市場を席巻し、1980年代後半から1990年代前半にかけてのワラント債全盛時代を迎える。現代的オプションが誕生したシカゴでも、取引が活発化するのは商品先物取引委員会が1982年に厳格な規制を導入してからであった。

但し、為替市場や商品市場ではそれ以前にオプション取引が始まっていた。筆者がオプション理論の勉強の為にCorporate Financeの教科書を買ったのは、当時の為替チーム勉強会で先輩から薦められたからだ。ある欧州系ハウスの老練トレーダーが筆者のデスクの上に置いてあったその教科書を捲りながら「俺達はデルタとかベガなんか知らないで金オプションなんかやってたもんだがな」と言っていたのを思い出す。

当時はオプションの公式を理解するのに資料が無くて困っていた時代である。だが我々は、確率微分方程式の意味よりもむしろオプションの利用法や応用法を追い掛けるのに忙殺されていた。そしてそのペイオフを計算したりオプション売りの意味を想像したりするのが精一杯であった。オプション価格構造が胚胎するあまりに極端な合理性と強引な理屈付けに気付いたのは、それから10年以上も経過してからのことである。

だが、オプションの本質はその価格への論理付けではなく、権利をお金で買うというその行為或いは思想自体にある。通常の社会感覚では権利は義務の履行によって与えられるものであり、それをお金で買うという発想は自然には出て来ない。米国は、オプション取引の開発と拡大によって、「権利をお金の価値として表徴する」という新しい社会通念を生み出したと言えるのではないか。

◆ 権利の取得

日本でもオプション取引の理屈やその価値計算の根拠などは既に金融社会の一般常識になっている筈だが、どうも経済的土壌としてこうしたオプションの意義が根付いているのかどうかは疑わしいところがある。株券オプション市場で閑古鳥が鳴いているのも、為替証拠金取引の急増の一方で為替オプションがあまり話題に上らないのも、ストックオプションの意味を税務署や裁判所がきちんと理解しようとしなかったことも、オプションへの意識の薄さを示しているような気がする。

それは金融取引への意識の問題というよりも、より根本的な「権利の追求」への意識の希薄さを象徴しているのではないか、と推察することも可能だろう。日本で一般的にオプションといえば、車を買う時のカーナビであったりパソコンを買う時のアドビーであったりする。つまり、本体とは別料金で追加の商品を買うというイメージが強く、権利を買うという意識ではないのである。

保険のオプションは、たしかに特約つまり別の保険の権利をプレミアム支払いによって購入するという行為になるが、それも恐らく新たな権利をプレミアムで購入するというよりも、本体の保険商品にプラスして追加の保険商品を購入するという考え方が一般的だろう。そういう意味では、日本には「権利の取得」という金融的なオプション意識は定着していないのである。

そもそも社会思想的には、権利を取得するという意識は、王の権限を制限することを定めて自由の取得に一歩を踏み出した1215年の英国マグナカルタあたりに遡ることが出来るだろう。これはのちの清教徒革命にも米国建国にも大きな影響を与えたように、アングロサクソンのDNAとして根付いたものである。

前述のように権利購入の起源を現象論としてターレスやチューリップ騒動に求めることも可能だろうが、より心情的な動機としては、こうした自由獲得の社会的プロセスを権利取得の金融取引を生んだ思想的インフラとして理解することも可能ではないだろうか。つまり、権利の獲得には多大なコストがかかるのだ。

そのDNAが有価証券という金融世界で息吹き、ブラック・ショールズ・マイロンの三人がそこに「神」に代わる主体としての論拠を与えたのである。そして米国はそのオプション取引を様々な分野に展開させ実践的に武装した上で、いわば余裕を持って金融市場のグローバル化を迎えることが出来たのであった。権利をマネタイズすることで、脆弱化しかかった基軸通貨が救われた、というのが筆者の見方である。

翻って日本では、権利を何がしかの代償を払って獲得するという歴史的な転換に乏しかったように思う。戦後の自由民主主義の導入も、敗戦による米国支配というタナボタでしかなかった。自力で権利獲得の為にプレミアムを支払った経験は無いに等しい。それが、金融市場においても影響していると考えるのは、やや論理の飛躍かもしれないが、全く無縁の話でもないように思える。

金融力としてのオプション。それをもたらしたのは高度な数学ではなく、連綿と続いた欧米社会における権利との戦いという貴重な経験的蓄積であったのかもしれない。

2007年05月25日(第147号)