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◆ 商品から貨幣、そしてまた商品へ

◆ 為替証拠金取引の増大

外国為替証拠金取引は、金融関係者の多くが想像していたよりも遥かに速いペースで規模を拡大しているようだ。その背景に、不自然な低金利を続ける日本の金融政策があったのは間違いないし、思うように上がらない日本株への失望感なども影響したかもしれない。もともと外貨預金や外債など海外金利への関心が高まっていたところに、手頃に売買できる証拠金取引がフィットしたと見ることも出来る。

2年ほど前、沖縄金融特区会議の際にこの証拠金取引を巡ってある経済学者と意見対立したことがある。団塊の世代を対象とした沖縄での「金融教育プログラム」に証拠金取引を入れようという筆者の意見に対し、その学者はあんな危険な取引を個人に薦めるのは如何なものか、と反対した。議論の詳細は省くが、マージン取引など真っ当な投資ではない、というのがその論旨であった。

氏の論理の片隅に一理あることは認めよう。先物業者や証拠金取引に一般世間の視線が冷たいのも事実である。レバレッジさえ適切に管理すれば証拠金取引ほど為替を利用した効率的な投資はないのだが、確かにこれを理解する人はまだ少数であろう。世間の歩みが遅いのと同様に、先物や証拠金取引を「やってはいけないこと」に区分けする知識人達の社会通念の変化も悲しいほど遅い。

だが昨今外国為替証拠金取引が猛烈な勢いで伸びているのは、「庶民の一部」が識者の懸念をよそに、その利便性や収益性に気付き始めたという大きな社会現象であると言って良い。円安基調というトレンドに助けられたというのも事実であろうが、為替市場は確実に個人投資家にとって必需の投資対象になりつつある。それを投機的との一言で片付けるのはあまりに了見が狭いと言うものだ(勿論、急激な円高が起きて社会問題になるという可能性までも排除するつもりはない)。

筆者は、本誌とは別に「世界潮流」というニューズレターを制作しているが、それは金融と経済は地球儀を眺める感覚で観察すべきだという、昔からの信念に基づいて編集しているものである。投資も、本来は地球規模で考えるべきである。従って、為替市場を無視することは出来ない。日本円の経済社会は地球の10%にも満たない偏狭な世界に過ぎない。為替証拠金取引は、その観点で言えば個人投資家にとって「世界への窓口」という大切な意味もある。

◆「商品化」する為替レート

だが、一方ではこうした取引が増加することによる構造変化にも留意すべきだろう。それは、個人投資家が行う「為替取引」が、為替本来の「通貨価値としての相対性」ではなく「運用商品としての絶対性」という意味合いを強めていくからだ。

当たり前の話だが、金融市場でドル円相場を見る際には米国と日本という二つのマクロ経済を比較する中でその相場観が帰納されて来る。それは二国間の金利差で説明されることも多い。地政学上の動きや政治的影響、更には外貨準備のような第三者によるドルへの考え方の変化が左右することもあるが、基本は日米間の基礎的条件の差異をベースに組み立てられるシナリオに基づいている。

一方、敢えて単純化して言えば、証拠金取引で稼ごうとする人々は「ドル円」という一つの陳列された商品価格が上がるか下がるかという一点に関心があるだけである。それは三洋電機の株価やトウモロコシの先物価格を見る眼と違わない。「ドル円」は既に通貨の相対性という色彩を弱めて、金融の一商品として捉えられている。海外で為替取引がETFの形で浸透し始めていることが、その潮流を表徴している好例だろう。

それは、為替市場関係者に発想の転換を迫る可能性を秘めていると言えるかもしれない。何が言いたいか。それは「米国売りはドル安を意味しない」という今まで全く予想もしなかった現象が起きる可能性である。

2月末の世界同時株安の際には、日本円の買戻しも表裏一体の動きとして注目された。ヘッジファンドなどの円キャリー巻き戻しによってドル円は110円程度まで下落するかもしれない、といった声もあった。実際、1998年の円キャリー手仕舞いの際にドル円が一気に130円台から110円台に下落したことを思えば、警戒感が出るのは当然であった。

だが一方では、値頃感から円キャリーがむしろ増大するのではないかと読む人々も少なくなかったようだ。筆者も、日本の個人投資家の動きは馬鹿になりませんよ、といった声を何度か聞いた。そして実際に115円を割れることなく綺麗に反転したところを見ると、海外勢のみならず、満を持した日本の個人投資家が「買い出動」したのはほぼ間違いないだろう。彼等は運用商品としての「ドル円」「ユーロ円」などの底値を感じ取ったのかもしれない。

二国間比較に慣れた眼では、ドルが下がってくると米国材料を丹念に調べ始め、どこまで下落するのだろうという懸念が先立つが、商品価格として見る眼ではそうした意識は薄いのだろう。それはある意味ではテクニカルに見る眼と同じであるが、プロはテクニカルだけで判断することが許されない世界であり、テクニカルを横に置きつつマクロでの説明責任を負う。だが個人はそんな面倒なことをしない。そうしたマネーが増えれば、結局相場はその「ある意味で無邪気な動き」に支配されることになる。

インターバンクのドル・円取引も、外貨準備多様化のドル・ユーロ取引も、市場での「ある通貨買いの他の通貨売り」であるが、証拠金取引や為替ETF取引はそうした通貨交換を実感させないところ(ちょっと直感的なアナロジーを使えば、生のクレジットリスクを実感しない証券化投資と似ているとも言える)がある。単に「ドル円」といった新しいタイプの変動金利商品、いわば「毎日金利がつく株」のような存在なのである。

その延長線上で最近一番気になっているのは、「米国離れ」と「ドル売り」は等価なのかという簡単なようで難しい命題である。これまで米国不信や反米感情、経常赤字、財政赤字、景気後退、米金利低下といった要因がドル下げを誘い、その反対側が買い材料として捉えられてきた。「有事のドル買い」は流石に影を潜めつつあるが、金利差は今でも大きな要因であるし、対中赤字拡大や他国の外貨準備での通貨多様化といったニュースは直ぐにドル売りを連想させる。

従って、今でも「米国離れ」は「ドル売り」に等しいと考えたいのだが、上述のようにドル円やドル・ユーロが商品化する中で本当にそれは恒等式であり続けるのか、と首を捻りたくなっている。証拠金をもとに「為替商品を買う」人々の意思は単に「ドル円という金利差」を買うことであり、米国不信など関係ないからだ。

誰もドル下落を望まない「ドル再生機構」としての国際金融システムは、こうしてさらにドルを支える内燃機関を加えることになる。FRBが金融緩和に向かうという可能性は薄れつつあるが、円金利は上昇基調が鮮明になりつつあり、その中でドル下落を読む声が増すことも有り得よう。そうした動きと、為替取引の「商品化」を通じてドルが売りにくい通貨に変貌し始めた構造変化との綱引きも注目される。

◆ 商品化する貨幣

為替相場は、通貨交換という貨幣の世界を通り抜けて一つの商品になりつつある。古典的な経済学が商品の一発展形態として貨幣を捉えたのと対比すれば、現代の証拠金取引は反対に「貨幣が商品へと逆戻りするプロセスを描いて見せている」と言っても良いだろう。これは金融市場が経済学に対して価値観転換を迫るというチャレンジングな、そして極めて重要な転機のような気もする。

為替取引の前提となる貨幣は、昔から貨幣であった訳ではない。ご存知のように貝殻や貴金属は本源的に貨幣として存在していた訳ではない。交換される商品の中で、すべての商品交換に利用されうる商品が貨幣としての概念と役割を備えていく。商品から貨幣的性格が演繹されるのである。いわば、商品の一形態が貨幣として抽出されていったのだ。

その貨幣が国家間の交易手段として利用されるようになると、必然的に外国為替が生まれる。19世紀のポンド・ドル(ケーブル)はその代表例であるが、その相場は時代を経て21世紀には一つの商品としての性格を強めていく。そして次第にそのレートに表徴される二国間マクロ経済の相対性が絶対価値を持つようになる。つまり「相対性の絶対化」というやや矛盾を孕んだ必然プロセスが生じるのである。

金融資本の過剰蓄積が通貨の相対価値を益々低下させていくのは自明だが、それはまた別の意味でも通貨交換のイメージを希薄にしていく。証拠金取引や外貨ETFがさらに拡大するならば、恐らくはそういう世界になる。相対性が絶対化することで、為替レートは交換の世界から「記述の世界」に移っていく。つまりドル円レートのような為替相場は通貨交換というよりも商品としての存在、あるいは記号としての表現となるのだ。

そこでは貨幣の意味論とでもいうべき「国家を背景とした通貨」という概念は希薄化する。それが通貨交換の行き着く先であるならば、ドルや円など当たり前の存在として捉えてきた我々の常識も再検討すべき時代がいずれ到来してもおかしくない。金融資本の過激な増大は、金融通念を大きく変化させる可能性を示唆しているように思える。

2007年06月08日(第148号)