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◆ 世界システム分析に学ぶ

◆ 経済システムは定常状態なのか

世界的な貯蓄増加に歩調を合わせるかのように、あらゆる国の個人投資家における世界的資産分散が顕著になっている。特に日本では、国内資本市場は1,500兆円の資産受け皿としては小さ過ぎることもあり(政府がブラックホールのようにそれを吸い上げるリスクもまだ多少残ってはいるが)、投信などを通じて国外に資金が流れている。国内でも漸く世界経済への関心が高まりつつあるようだ。

一般的に我々は世界の見通しを語る際にGDPやインフレ率或いは失業率といった各国経済指標の「期待値」を利用する癖がついているが、実はそれは世界経済構造が定常状態に近い場合にのみ有用な判断方法である。最近の典型例としては、1980以降の新自由主義・グローバル化に支えられた、そして米国の経済覇権による主導で浸透した、「特殊な」市場構造の定着が挙げられるだろう。そこでの金融市場は、単純化して言えば「米国を見ておけば世界がわかる」という解り易い環境であった。

既に何度か述べたとおり、新興国経済の躍進や米国金融力の相対的低下を通じて、筆者はグローバルな経済システムが過渡期にあるとほぼ確信しているのだが、システムが定常状態にあるとかないとかは、数学の証明問題のようにある公理から導くという手法で判断できるものではない。つまり論理実証的でないために、またポパー的に反証可能でもないがために、そういう議論は科学論の立場や厳密性を重んじる人々からはあまり好意的な印象を持たれない。従って、科学の女王を標榜する経済学からも、引き続き客観性と合理性を至上命題とする金融市場からも、印象論的な構造変化論は評判がよろしくない。

だが、如何に金融市場が非合理的で、如何に経済学が反証不能であるかを体験的に実感している筆者にとって、世界的な構造の「大転換」への不安はまさに「体感的予感」である。実証的でもなく反証的でもないからといって、その懸念が心から消え去ることはない。

そこには歴史的存在でもある経済構造を見るに際して、近現代史に単一視点しかもたない自分自身への不安もある。歴史といえば高校時代の山川の教科書あたりを思い出す人も多いだろうが、あれは一種の戦争の歴史でしかなかった。経済構造から見る歴史は、政治と戦争でみる歴史とは全く異なった絵巻物語であるはずだ。金融市場の実務から離れて以降、そんな思いとともに経済・金融構造変化に対する「説得力ある分析」の欠乏を感じてきた。その中で、ウォーラーステインによる世界システム分析は、確かに実証科学的でないが故の不安定さはあるが、従来見慣れた歴史とは異なる風景を眼前に広げてくれるという意味では貴重な社会学である。

◆ 近代世界の三大革命

教科書に載っている近代史的な革命といえば、名誉革命やフランス革命、米国独立戦争、そしてロシア革命や中国文化大革命といったところであろう。こういう流れで経済や金融を見ても、何の構造も浮かび上がってこない。それは以前、拙書で示した通りだ。

「世界システム分析」流に従えば、資本主義的な世界が形成され始めた16世紀革命、中道的リベラリズムの起源となった1789年のフランス革命、そしてその終末局面の前触れを示す1968年の世界革命こそが、重要な転換点となる。

16世紀の「長い世紀」は、イタリア、スペイン、ポルトガル、オランダ、そして英国が世界中で海上覇権を争った時代だ。その中で、軍事において最終的に勝ち残った英国が金融覇権を握り、産業革命による資本主義的経済覇権を唱えていく。その英国と競い合ったのが18世紀のフランスであったが、そのフランスにおける革命こそが主権国家という概念とともに「主権者としての国民」という主権在民のシステム基盤を作った。そしてその革命は米国独立を促して、20世紀の単独スーパー・パワーを生み出す動力ともなったのである。

その米国が英国を凌ぐ覇権を獲得した背景として、貿易や軍事、金融などに覆い隠されたイデオロギー的展開を忘れるべきではないのかもしれない。ウォーラーステインが、1968年に起きたパリの五月革命やチェコの「プラハの春」、米国での反ベトナム運動そして中国の文化大革命を一まとめにして「20世紀唯一の世界革命」と呼んで重視するのはその為である。それは、極めて特異な革命であった。

一般に革命とは政治レベルでの政権転覆といった文脈で語られる。だが1968年の世界革命は、政治経済的側面に加えて、或いはそれ以上に思想や芸術などの面、つまりイデオロギーとしての革命であったが故に、教科書的な発想では革命と認識されにくいところがある。日本国内で20世紀の革命と言えば1945年の敗戦であるが、それは日本流の政治的イデオロギーのジャンプ過程に過ぎないとも言える。

1968年にパリで起きたこの革命を一つの視点に番える思想は保守層から「新左翼」として煙たがられることも多いが、逆に言えばその影響を頭から無視することは「極右」の謗りを免れないかもしれない。時代は、左から右へと動く時もあれば、右から左へと動く時期もある。いや、右や左などは所詮、相対化される運命なのである。安定した経済成長とそれを支える金融機能を目指す視点にとって、あまり右翼・左翼と騒ぐのは意味がない。ウォーラーステインの思想を、単に左翼的だと斬って捨てるのはつまらぬことである。

実際に、当時あまりに左翼的だと批判された大学自治や労働者団結の自由、第三世界主義や地域主義、そして環境保護や女性解放は今や社会の常識となっていることに気付く必要もあるだろう。これが日本にまで飛び火して全共闘の時代をもたらしたことは既に述べたが、大学生を中心に暴走したこともあって、日本では「1968年=学生運動=ゲバ棒=悪しき社会現象」という図式の印象で固められた感もある。

1968年の革命はイデオロギー抗争でもあった。それは20世紀米国の経済・金融覇権のインフラともなった資本主義的思想基盤に突きつけられた叛乱でもあった。1989年のソ連崩壊は「資本主義の勝利」であるどころか1968年の延長線上にある現象に過ぎず、むしろ現代の資本主義システムの閉塞性が増しているというのが、ウォーラーステインの観察である。

◆ 資本主義とは何だったか

などと言えば、何を今さらとお思いの方も多かろうが、考えてみれば資本主義とは何かを家庭や学校で教わった記憶もない。我々はいわば空気のように資本主義を認めてきた世代であり、対立概念である共産主義への生理的嫌悪感を植え付けられ(或いはマルクス主義の否定こそが現代的であると考え)てきた。私など多分その典型例であり、資本主義の定義も確認せぬまま、社会主義と共産主義の違いもきちんと勉強せぬまま、金融市場の中に放り投げられてしまった。

資本市場は資本主義経済を支えるインフラであるというただそれだけの認識の下で、金融市場を相手に30年近くも仕事をしてきたが、昨今の金融構造変化時代、特にファンドの増殖や銀行の存在感の低下を見るにつけて、そうしたインフラが支える資本主義に対して大きな疑問が湧き始めている。これは、果たして現代社会が求めている資本主義なのだろうか。

ファンドの行動原理は、単に市場個体の自己満足を満たすだけのものと見えなくもない。銀行もファンドもそれほど違わないという声も聞くが、それは景気循環サイクルが悪化するまで解らない。だが想像するに、クレジットリスクを抱えるファンドの多くは、貸出先のことよりも出資者のリスクを優先させるだろう。ロング・ショートの株式運用では、空売り先の破綻リスクは願っても無いシナリオとなるだろう。PEファンドによる一種の市場忌諱的な行動に、戸惑いを感じない人は少ないだろう。

資本主義は、19世紀以降の世界の経済成長をドライブしてきた仕組みである。それはマルクスも認めた「社会に必要な体制」なのだ。だがマルクスが唯物史観というある意味で「非科学的」アプローチで資本主義の崩壊を予言したのに対し、ウォーラーステインはその飽くなき自己増殖欲こそが資本主義の首を絞めると指摘した。これはまさしく現代の資本市場が推し進めようとしている資本主義の姿であると言えまいか。

筆者には理想の資本主義とは何かを語る力などない。だが、現代の資本主義が次世代の成長や豊かさをもたらしてくれるという保証はどこにもないことくらいは解る。従って、そのシステムを支えている現代の資本市場が最適だと言うことも出来ない。歯車が狂い出していることを否定する論証は、いまや不可能なのである。

資本市場は、ある意味で反市場的な競争原理を持ち込むことによって、辛うじて資本主義を演出してきたのだ。現在は、その微妙なバランスが崩れようとしているように見える。ウォーラーステインの世界システム論は、資本主義を支える資本市場の内的矛盾を突くことにより、その帰結を「予言」していたとも言えるだろう。現代資本主義がそのシナリオを辿る可能性は、マルクスの予言よりも確実性は高いかもしれない。

2007年07月20日(第151号)