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◆ 信用コストの社会的コスト

◆ インターバンクのクレジット

また昔話である。スワップのディーラー稼業を始めた頃、一つの疑問が湧いて上司に尋ねたことがある。それは、インターバンク取引ではスワップの相手方のクレジットをきちんとチェックしろと言う割りに、その相手によってレートを変えないのは何故か、というド素人的な問いであった。

相手のクレジットが低ければ、レートは悪くなって当然である。変動利付債市場では実際に格付けによって銀行債のスプレッドには差が付いていた。スワップ取引を行った瞬間に長期間のエクスポージャーを食う訳だから、それを補填すべくバッファーを取るのが自然であると思ったのだが、現実の市場はそうではなかった。

上司は、お前の屁理屈はもっともだがスワップ市場はそういう対応が出来ないのだ、と笑いながら、でも10年先には信用を加味した市場に変化しているだろう、と真顔で答えていたのを覚えている。あれからもう20年近く経つが、市場は多分変わっていない筈だ。スワップ市場で異なるレートを出し合っているなどという話は聞いたこともない。つまりプロ間のスワップ市場は依然として均質な共同体の産物なのである。

スワップ取引に全く信用力が反映されていない訳ではない。銀行や証券は、顧客に対しては信用力に応じてレートを決定する。それは融資における金利決定判断と同じである(未だに融資も均質世界に生きている銀行もあるが)。逆に言えば、インターバンクとは信用コストのかからない社会だったのである。相手の信用度に問題が生じれば、担保を取るかレートを提示しないか、どちらかのデジタル判断で解決できた。

だが8月以降の信用収縮は、この仮説を見事に打ち砕いてくれた。インターバンクの「安全度」が崩れてプロ社会の均質性が喪失されたのである。欧州短期マネー市場の動揺はLIBORを直撃した。9月に入っても混乱は続き、オーバーナイトやトムネクなどに加えて12月という特殊な期越えのターンが付く3か月ものLIBORも、中銀による必死の流動性供給にもかかわらず、なかなか低下しない。LIBORという表示すら形骸化し、そのレートでも資金放出に応じない銀行も出始めた。

スワップのような長期モノでは銀行間で担保を差し出すのも珍しくなくなったが、流石に数か月でのマネーで担保という訳にもいかない。そういえば、金融危機時代の邦銀はドル資金を取れず、直先スワップや円資金と交換するベーシス・スワップを通じたドル調達を行っていた。中には、えいやあとスポットでドルを買う、経営管理能力を疑いたくなるような操作をやった銀行もあった。

昨今では欧米銀行がこの逆(流石に為替アウトライトはやらない)をやっていると聞く。寛容に豊富な円資金を取り漁り、これをベーシス・スワップでドルやユーロの資金手当てを行っているのだろう。アジア危機の対象軸がサブプライム危機であり、邦銀のドル調達危機の裏側が欧米銀のドル、ユーロ調達危機なのだ。金融史もまた、ねじれを起こしながら繰り返していく。

◆ 金利社会とクレジット

インターバンクにおけるクレジットが揺らげば、資金だけでなくスワップなどの派生商品もすべてが揺らぐ。LIBORが信用できないならば、スワップ金利などどこに意味があると言うのだろうか。現代の金融取引というのは所詮虚構の世界なのだろうか。銀行間取引という金融内でのリスクフリー社会の構築は、幻想だったのか。

結論を急ぐ前に、金利社会の枠組みを再考してみよう。この社会の憲法に相当するのは、現在価値と将来価値とを繋ぐ公式である。これが金融市場社会の屋台骨を支えていると言っても良いだろう。国債を売買する場合も、インターバンクでスワップやオプションの取引を行う際にも、本質的にはこの公式を使って取引の両当事者に不公平が生じないような経済合理性を確認している。

だが、企業融資や事業価値評価などの場合には、そこにクレジット要素が加味されることになる。AA格企業に2.0%で貸し出している時、通常の感覚であればBB格の企業に同じ金利では貸せない。それを2.5%にするのか3.0%にするのか、それは貸出期間におけるCash Flowの割引率をクレジットに応じて調整するという「政令」に従いながら「憲法」を遵守して決まる。BB格にも2.0%で貸し出せ、というのは政令違反であるが、金融社会には違反者を取り締まる機関が無いので、無法地帯が生まれやすい。違反者が退場するか違反者続出で共倒れになるかを待つばかりである。

こうして「正しい」金融業者はクレジットに応じて融資金利を決め、事業価値を評価し、社債の価格を計算する。理屈に適った政令を守ることは、理解しがたい法律などと違って、それほど難しいことではない。クレジット要素を金利として調整するという「政令」は、優先株や不良債権などのプライシングにも応用され、ファイナンスの大きな部分で活躍する。

勿論この「政令」は道筋を与えたに過ぎず、その具体論は当事者が考えるべきものだ。例えば弊社のような金融情報事業価値を計測する際に、向こう5年間のCash Flowを何%で割り引くのか、筆者は3%位と言っても、読者は8%位でしょう、というかもしれない。その安全度など所詮誰にも解らない。信用とは本来確率であって、主観的なものに過ぎない。そこまで規則では縛れない。

昨今の金融社会の格付け会社依存は、その本質を忘れた現象であると言えるだろう。格付けもまた主観的で意見に過ぎないが、それを「政令」だと見做したことが、サブプライム問題の影響を膨張させたのである。信用力の要素を判断に取り込め、というのが社会の掟であって、その数値判断は自分で行え、というのが慣習なのだ。それが出来ないムラの居住者は、クレジット・リスクなど取ってはならないのである。

◆ インターバンクのクレジット化

つまりインターバンクというリスクフリー世界と、その外側に広がるクレジット・リスク世界という棲み分けが、金融機関の世界観であった。例外は、邦銀危機の際に邦銀全体が世界のインターバンク市場から撤退させられた時期であろう。その安定した価値観が、今回の信用危機で崩れ始めている。市場には、混乱が一時的なものであるという楽観論は影を潜め、問題が長期化するとの見方が圧倒的に強い。恐らく来年以降もこうした不安定な環境が続くだろう。

インターバンクにクレジット要素が入ってくるとすれば、いったい何が変わるのだろうか。新米ディーラーの私が上司に質問した世界がいよいよ出現するのだろうか。そもそもどんなリスクを取っているのか解らないというのだから、第三者が判断する銀行の格付けなども怪しいものである。疑心暗鬼が続く中で資金放出するとすれば、相手を見ながらレートを出すしかない。

資金担当者の立場になって考えれば、LIBORその1、LOBORその2といった段階付きの複数LIBORを公表することになるかもしれぬ。LIBORの概念そのものが信用を失う可能性もある。或いは、資金手当ては機関投資家との直接取引に移行して、銀行間レートなど存在しなくなるかもしれない。永遠なるシステムなどどこにもないのだから。

となれば、もはやインターバンクというリスクフリー社会は存在意義がなくなってしまう。金融は、すべてクレジット・リスク社会に統一されるのである。それはある意味では当たり前の世界であろう。インターバンクだけがリスクフリーと考えるから、その想定が崩れて混乱が起きるのだ。ヘルシュタットも、コンチネンタルも、ベアリングも、北海道拓殖銀行も山一證券も潰れたではないか。

だが、これは大変にコストのかかる社会である。インターバンクにもクレジット・コストをという「政令」には、納得しない金融機関が続出するだろう。だが信用が崩れた中で自分を守るにはそうするしかない。現代金融社会は、つまり最も貴重で安全な環境を、自らの失態で失う危機に瀕しているのである。この「インターバンクがクレジット化」した環境を脱出して以前のような低コスト社会に復帰できるのか、或いは高コスト社会のまま成長産業としての足場を失うのか、欧米金融はかなり危ない橋を渡りつつある。

「金融は大西洋間で決まる」というのが筆者の考えであるが、今回も日本はそのコンテクスト通りに被害を免れた(もっとも信金クラスで大変な損失を抱えているとの噂も絶えないが)。日本の金融機関はもとより均質化しており、それほどの多様性がないために、インターバンクがクレジット化することはないのかもしれない。現時点に限定して言えば、それは結果オーライの大きなメリットである。だがサブプライム問題が軽症に終わった安堵感に浸るだけで、そのメリットをメリットとして感じていないような雰囲気もある。

クレジット・コストに悩む欧米金融。そして機会を攻めに転じることが出来ない日本の金融。どちらの社会コストが大きいのだろうか、とやや暗い疑問に囚われている。

2007年10月05日(第156号)