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◆ 明治維新とマルクス

◆ 世界史と日本史の接点

昨年、全国の高校で卒業に必要な履修が足りないという事件が起きた。それが家庭科などであればまだ話は可愛いものだが、その大半は世界史の履修不足という深刻な問題であった。これも最近しばしば批判の対象になる「ゆとり教育」の弊害のひとつだろうと思っていたが、ある友人曰く、それに加えて地歴・公民という社会科目の構造変化も大きく影響しているらしい。

筆者と同年代の読者の方々は、多分大学入試選択科目として「世界史+日本史」とか「日本史+地理」といった組み合わせで勉強されたことだろう。政治経済という科目もあったように記憶するが、受験科目としてはマイナーであった。だが、今日の高校生は、全く異なる教育環境に置かれている。

まず世界史と日本史、地理の三科目は「地理歴史(地歴)」というカテゴリーに入り、現代社会と政治経済・倫理という二科目がもう一つのカテゴリーである「公民」に分類される。大学センター試験では、受験生は地歴から一科目、公民から一科目を選択する。但し、高校の授業においては地歴のうち世界史は必修科目とされている。

そんな改革があったとは知らなかったが、受験生達にはその「世界史必修」が大きな負担になっているらしい。地歴の受験対策としては、地理を選択させるのがいまや常識だとその友人は言っていた。その次が日本史で、世界史を受験で選択するのはよほど世界史が好きな高校生に限定されるのだという。二次試験で地歴から二科目選択する場合には、「日本史+地理」の組み合わせを選ぶ学生が多いとも聞いた。

つまり、膨大な量を抱える世界史は、必修科目なのに高校生から敬遠されているということだ。先生もそれを知っている。だから世界史の履修時間を減らして、他の科目を勉強させる。こうして、解っちゃいるけど止められない、というスーダラ節現象が全国に蔓延したというのが実態だ。この問題は、教育現場の長である校長の自殺事件にまで発展したが、そうしたスナップショット的な社会問題という視点だけで、この問題を捉えるべきではなかろう。

世界史が軽視されるというのも確かに問題だが、それ以上にここで問題視したいのは「世界史+日本史」という組み合わせを受験科目として学習する高校生が希少であるという事実である。これは、かなり問題がありはしないか。確かに、二つの歴史をまともに学習するのは大変である。だがその大変さは、特に日本経済・金融のこれからにとって、他の組み合わせ科目にはない大きな収穫を伴う筈である。

日本史と世界史の接点はせいぜい1902年の日英同盟あたりから始まる程度の長さしかないが、その辺の微妙なバランスを知らずにいると、本年成立した国民投票法の雲行きが読めなくなる危険性だけでなく、今後の日本経済や金融における課題に取り組む為に益々必要となるであろう史観や思想史が欠如するという、相当に深刻な問題にも直面しかねない。

◆ 1867年

ちょっと力が入って大上段に構えすぎたので、もっと具体的に二つの歴史の「接点」について考えてみよう。ここでは1867年を採り上げる。この年は、日本史で言えば大政奉還・王政復古、つまり明治維新の直前であり、世界史では普墺戦争が終わってプロシアの力が一層強まった後に北ドイツ連邦とオーストリア・ハンガリー二重帝国が成立するという、日欧ともに激動の年次であった。因みに、山川の世界史総合図録を見ると、米国とロシアの間でアラスカ買収の取引が成立したのもこの年だと書いてある。

もう一つ、1867年で見逃せないのがマルクスの「資本論」第一巻の出版だ。ご承知の通り、第二巻、第三巻はマルクスではなくエンゲルスが編集したものであり、それぞれ1885年、1894年と長い年月をかけて世に送り出された大著である。アダムスミスの「国富論」と並んで古典経済学の名著と言われてきたが、「資本論」を通読したことのあるビジネスマンはたぶん少数だろう(筆者も学生時代には睡魔に負けて第一部読了で挫折した覚えがあるので、最近また「再チャレンジ」している)。

それは、あまりに膨大な量であることも勿論だが、何より「共産主義」に対する現代的アレルギーが大きい。現代経済社会にとって「マルクス主義」は死んだに等しい。だが「マルクスの経済学批判は死んだ」というには、まだ早過ぎる。日本にとって明治維新が近代への転換期としての存在感を失っていないのと同じように、経済社会にとってマルクスが批判した古典経済学への批判の眼は、少なくとも私の心の中には、まだひっそりと息づいているからだ。何せ、資本主義を批判的に見る眼は、資本主義の精神からは出て来ないのである。

「資本論」が出版された1867年に、日本は「明治」という欧米列強に負けない為の富国強兵を目指した国家体制を築く宣言を行う準備に取り掛かったのである。それは、英国やドイツ、米国などにおける工業化の波が日本に押し寄せた一つのグローバリゼーションの流れを意味している。

ここにおいて、世界史と日本史とが微妙に重なってくるのが解る。前述したように、明確な形で日本が世界史(正確には西洋史)に登場するのは20世紀になってからの日英同盟と日露戦争ではあるが、ある意味ではこの1867年を以って世界史と日本史の実質的な最初の接点と言っても良いだろう。その年に「資本論」が出版されたというのは、決して偶然とは言えない、かなり意味深いことのようにも思える。

内田義彦氏 は、さらにそれを遡って1841-42年あたりを「資本論」と「明治国家」の同時胎動として捉えている。1841年はマルクスが学位論文を書き上げた年であり、翌1842年は社会人第一歩の「ライン新聞」に入社した年だ。また中国では、英国が南京条約でのちの自由貿易都市となる香港を手に入れている。一方日本では1841年に水野忠邦による天保の改革が行われ、貨幣経済の発展を背景とした財政改革が実施されている。

ジャーナリストとしてスタートしたマルクスは、ドイツで成立し始めた工業社会とフランスから流れてくる社会主義思想、そして急速に進展する英国の資本主義経済という環境の中で、その後の「資本論」に行き着く経済学の研究を始める。日本は、南京条約でズタズタにされる中国を見て、列強の資本主義経済の力に怯えつつも、世界に対抗しうる国づくりへの模索を始めることになる。世界史と日本史の接点が、経済面で徐々に重要性を帯びてくるのである。

◆ 現代資本主義批判

さて現代に戻るが、なぜマルクス主義は死んだのにマルクスの経済学批判は生きていると言えるのか。それはマルクスが観察した資本主義の強さと弱さは、21世紀の現代にも引き続き残存しているからである。いや、むしろ「資本論」を書いた時期よりも、その資本主義の性格が社会に対してより鮮明にそして多様さを増して浮かび上がっているからだ、ということも出来るだろう。

マルクスが描いた「共産主義の実現への歴史的必然性」は、もはや何ら議論の対象となり得ない。但し、マルクスが抉り出そうとした資本主義社会の「構造」或いは資本そのものの「機能」への問題意識の設定は、簡単に捨てて良いものではない。むしろ、そうした批判の眼を失って、現代の資本主義を無批判にあるがままに受け入れることのリスクは小さくない。

その危険性は、昨年来の村上ファンド、ホリエモニズムに対する議論が深堀りされぬままいつのまにか日本社会から消失してしまったことに表徴されている。日本の新興市場バブルが崩壊した本質を、我々はきちんと整理しなければなるまい。いったい、日本の経済学は何を見ているのだろうか。

もう一つ、現代の企業経営を襲うファンドの騰勢と、企業の大型化を刺激する再編の激化、そしてサブプライム問題を契機とするその潮流の崩壊という一連の茶番はいったい何を意味するのかを、現在の経済学は語れないままである。これを単に現代資本主義の中で起きたコップの中の嵐と見て良いのだろうか、と問われればそうとも言い切れまい。この動きは株価にも大きな影響を及ぼしており、また銀行にも重大な変化が押し寄せている。そして我々個人にも無視できない社会の変革を実感させている。

1980年代以降、我々は新自由主義の世界経済成長への大いなる貢献によって、資本主義という経済構造を批判する眼を失ってしまったように思う。グローバルな企業活動は経済成長の機会をもたらし、自由競争は経営の効率化を生んだ。そして資本市場の発展は収益拡大の機会を供給した。そこにソ連の崩壊という名実ともに共産主義への幻想を崩壊させる事件が起きて、資本主義の勝利が確定的になった。

だがその資本主義基盤は、米国経済の衰退と新興国の台頭という構造変化と、資本そのものの性格変化という二つの面からチャレンジを受けている。そして今、過剰流動性という得体のしれない資本にその未来を託していたという極めて不安定な事実が判明し、市場自らがその不透明さに怯えているのである。現代の資本主義は、とても安泰で磐石には見えない。そこにマルクスの目を借りると何が見えてくるのか。それが筆者のここ1年くらいの問題意識だ。その思考実験はまだ十分ではないのだが、一つの論考を次号で展開してみることにする。

2007年11月02日(第158号)