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◆ 資本の再投資と剰余価値

◆「儲けて何が悪いんですか」

もはや遠い昨年の話になるが、村上ファンドを率いる村上氏が記者会見で「儲けて何が悪いんですか」とやや開き直って叫んだ際に、記者クラブの面々からは殆ど反論も出なかった。それどころか、その主張に頷く記者も少なくなかったらしい。

翻って、堀江氏の「金で買えない物はない」といった主張に対しては世間からそれなりに反発があった。論理的に「金では買えない物がある」と反論すれば良いからだ。これは簡単である。だが、村上氏の人間の本性に迫るこの言には、流石に市場経済訓練を受けていない日本のサラリーマン・メディア職員に、反論を期待するのは無理であった。せいぜい「儲けるにも限度があるだろう」といった、妬みに過ぎない呟きが洩れる程度であった。

資本主義とは、生産設備を私的所有する企業に資本を投じることによって「剰余価値」を生み出し、それを消費と再投資に用いて、さらに「剰余価値」を生み出し続けるシステムである。そこには明らかに「儲け」のシステムが組み込まれている。「儲け」のない単純再生産が資本主義と呼べないのは、アダム・スミスやマルクスを持ち出すまでもない。だから、資本主義社会において、資本家の手に余剰価値がもたらされるのは当然のことであり、村上氏の言葉に「ぐうの音」も出なかったのは仕方ない、と言えるかもしれない。

だが村上氏に対してメディアは、その儲けがどのように生み出され、どう再利用されるのか、を問い質すべきではなかったのだろうか。確かに収益を追及するのは企業経営者の務めであり、それを怠れば、資本家からクビを宣言されるのが現代社会だ。資本家には配当を要求する権利がある(但し株価を押し上げることを要求するような虚無的権利までは無い筈だが)。従って、村上ファンドのようなアクティビストの存在を頭から否定することは出来ない。

そうした前提の下で、「儲けて何が悪いんですか」との開き直りには、「その儲けとはファンドの社会的存在を正当化しうるものなのですか」と問うこともできた筈であった。それはインサイダー取引などの法的議論ではなく、もっと経済社会に密着した構造的問題である。この問題意識の底には、筆者が様々な局面で直面した「売上と営業論理に関するジレンマ」体験、即ちビジネスにおける論理と倫理の相克における、未だに割り切れない悩みが流れている。

どんな株主も、経営者が売上を伸ばして収益を拡大くれることを願っている。だがある企業の商品売上が1億円伸びる一方で、それによって社会に10億円のコストがかかることもある。それが眼に見えるケースもあれば、そうでないケースもある。やや卑近な例で言えば、「個別銘柄株価予想」を1万円で買った個人投資家が、結果として外れ続けて100万円の損をする、といったケースもあるだろう。確かに投資は自己責任であるが、投資の時代到来を利用して、当たる確率の低い予想を売り続けることに疑問を持つ諸氏もおられよう。それを資本家はどう判断すべきか。村上氏の論理に従えば、それは「儲けて何が悪いんですか」で終わってしまうのだ。

この例はあまり適当でないかもしれないが、儲けにも「資本主義的でない儲け方」があるのは事実である。村上ファンドの投資手法にも、結果として社会的コストの負荷となったような行動が全く無かったとは言い切れまい。

◆ 剰余価値の生産

当たり前の話だが、株主或いは資本家は配当や株価の値上がりを求め、経営者はその成果としての役員賞与を、そして雇用者は賃金上昇を期待する。高度成長期にあってはすべてがかなえられ、労働者も資本主義の有難さを知ることになる。現代社会ではストックオプション導入などで経営者と労働者、資本家を明確に区別することも難しくなっており、新興企業などではそれが顕著に窺える。

そんな時代にマルクスが描いた労働者疎外論や資本主義崩壊の必然プロセスが色褪せて見えるのは当然であるが、それでもなお筆者がマルクスの言説の一部に惹かれるのは、資本主義社会における剰余価値の生産と蓄積の過程を、「資本論」が経済活動の原点から深く考察しているからである。

アダム・スミスの商品価値論を独自の価値形態論に発展させた話はさておき、マルクスが示した「剰余価値がどのように生まれて蓄積されるか」という視点は、現在の企業収益増大や株主価値の増大を通じた金融資本の急増の行く先をどう想像すべきか、という問題意識に少なからぬヒントを与えている。ここでは、理論的敗北が明らかな所謂マルクス主義は議論の対象にしない。単純にマルクスの思考のごく一部を参照するに過ぎない。

マルクスの資本論はまず「絶対的剰余価値」が労働時間の単純増加によってもたらされると説き、その後に「相対的剰余価値」を説明している。その相対性は、生産力の上昇によって必要労働時間が低下する、という過程で生まれるものだ。そこで労働の絶対時間が減らなければ剰余価値は増大する。それが相対的な剰余価値である。

だがこの相対的剰余価値は一定速度で社会に満遍なく発生するものではない。生産力の発展は特定の企業や産業において特殊な出来事として生まれる訳で、これが特別剰余価値として出現する。個々の企業がその特殊利潤を追求することで、結果として相対的剰余価値が生まれるのである。つまり、特別剰余が相対的剰余価値の始動点であるといえる。

ファンドに代表される現代の資本家達も、19世紀の資本家と同様に飽くなき特別剰余価値の追求を狙う存在だが、大きく異なるのは彼等が企業の生産性に関してはあまり興味を持たないことである。勿論、事業に深い関心を持ち長期的視点での育成を図る資本家がいない訳ではないが、20%という根拠の無い収益率を求める投資家のプレッシャーの下で働く似非資本家達は、忙しないM&Aを仕掛け、高配当を要求して、相対的剰余価値に結びつくとは限らない特別利潤だけを求めている。

剰余価値の増大を生まない単純再生産は資本主義とは言いがたいが、この相対的剰余価値を生まない再生産もまた資本主義とは呼びにくい。現代のファンドは、マルクスの想像とは全く違った形で、資本主義を蝕んでいるようにも見える。換言すれば、それは「資本家なき資本主義」という現代社会の病巣が各主要臓器に転移するのを助長しているかようだ。

◆ 資本の蓄積過程

以前、貨幣と資本はどう違うかという嫌味な質問を学生にしたことがある。君達の財布の中の1,000円札は資本と言えるか、と聞いてみたら50人中3人ほどがYESと回答した。お札も広義の資本といえるのかもしれないが、資本主義社会においては、やはり紙の紙幣は資本ではなく貨幣に過ぎない。別の機会で高校生に、財布の中のお札とガソリンスタンドで貯蔵されているガソリンとはまだ資本やエネルギーに転化していないという点で似たようなものだ、と解説したら何となく通じたようだった。

剰余価値とは、マルクス流に書けば、G→W→G’(G+冏)における貨幣の増量としての冏の部分であり、これが消費や再生産に振り向けられて経済は拡大する。資本とはその拡大再生産のために投じられるという意味で増殖した貨幣の一部である。まさに、なぜ資本主義経済は拡大しうるかという疑問からマルクスの剰余価値分析は始まった訳だ。

「資本論」では剰余価値はすべて資本家の裁量に委ねられていると記されているが、現在では労働者への充分な配分を通じて経済運営の柔軟性が担保されている。その意味では「現代的資本」は剰余価値のうちのほんの一部に過ぎないが、資本がそれ自体再生産されるメカニズムに埋め込まれていくのは、マルクスが描いた通りである。資本はその蓄積過程で、同時に再生産されていくのだ。それが資本主義のエンジン機能である。

そのプロセスは、銀行が資本と負債の両方で企業の面倒を見ていた「日本的資本主義」の下で極めて鮮明に映し出される。債権者でもあり資本家でもある銀行は、企業の成長を願って割り当て増資に応じ、融資を増やすという形で資本再生産の役割を担ってきたのである。

一方で、現代の欧米金融を代表するファンドは、資本の再生産には無関心である。株を買い増すのは、資本の再生産ではなく保有シェア増によって増配などを迫る為の覇権拡大が主な目的だ。それは冏とは無縁の行動であり、これまた資本主義的な経済拡大に資する投資哲学とは程遠いように見える。

かといって、日本流の銀行主義がファンド主義よりも優れているとも言えない。その負の遺産として生産性低下が放置されたとも言える訳で、どちらにも軍配を上げようがない。筆者には、やはり投資信託やMutual Fundのような形式で集積された資本による再生産プロセスが、現時点に限って言えば、理に適っていると思われる。

但し、現代の資本再生産はマルクスが書いたG→W→G’ではなくG→G’→G″といった貨幣増殖に依存するシステムに内臓されていることに留意すべきだろう。それは明らかに、剰余価値が労働以外の要素によって肥大していることを示している。資本のバブルと呼ぶべきこの金融肥満は、現代金融における危険を一気に凝縮したような過剰流動性に全く関係が無いとは言えない。サブプライム問題もこのプロセスから派生した病状の一つに過ぎないように見える。「資本論」は、その意味でもまだ読むべき価値は失せていない。

2007年11月16日(第159号)