HOME > 2008

◆ 「信仰機構」としての金融システム危機

◆ 思想基盤は何処に

ディーラーと商品開発という二面性を抱えた仕事で忙しなく日々を過ごしていた時期は、それなりの充実感を抱いていた筈なのだが、今にして思えば、それは金融市場という絶対的な岩盤の上で仕事をしているという特殊な意識に支えられていたに過ぎない。自分の置かれた底板がいかに脆弱であるのかを知らないのはある意味で幸福であった。それを疑い始めた瞬間に、人々は支えを求めて彷徨い始める。救いは信仰しかない。

チャートを信じるか信じないかは宗教を信じるかどうかと同じことだ、と言われることがあるが、まさしくそれは激動する相場に対して人間心理が如何に弱いものかを端的に示す言葉である。私が銀行で働き始めた当時、為替の腕に自信のある人はテクニカルには依存しなかった(今は違うかもしれないが)。相場師になり切れなかった筆者は、チャートに馴染めなかった為、信仰を統計学に求めることにした。因みに、それまとめて「相場を科学する」というタイトルで講談社ブルーバックス・シリーズから出版(初版1992年)したのが、様々な意味で今の仕事の出発点になっている。

宗教は微妙な論題であり、素人の筆者があまり深く突っ込むつもりは無いが、昨年8月を境目にして発生した世界的な金融市場の急激な自壊現象には、信仰を失った人間の弱さが凝縮しているように見える。市場信仰を集めたグリーンスパンが退き、代わりに教祖となったバーナンキ議長はサブプライム問題への対応の拙さでそのカリスマ性を失った。市場は、さらにAAAという高格付けへの信仰が幻想であったことにも気付く。信じるものを失った人間心理は崩壊する。1月の株式市場パニックは、そんな金融信仰の崩れでもあった。

宗教と金融の関係式については、今はまだ語る時期ではないだろう。だが現代金融を、例えば「信用貨幣を経典または聖書としつつ金利を賛美歌としながら中央銀行が教会の役割を果たしている」といった信仰の図式によって喩えることは可能だろう。エクセルで論理的に完璧に仕上げたキャッシュフローさえも、その信仰の中での真実でしかない。ゲーデルの不完全性定理を持ち出すまでも無く、金融もまた自己の無矛盾性を証明することなど不可能なのである。

金融市場のインフラは金利が形作っていると言われる。市場金利をベースに仕事を始めた筆者にとっては、実際に金利という数理インフラが経済観や相場観の拠り所になっている。だから金利そのものが否定されるようになったら筆者の金融信仰もお仕舞いである。信用も実在しないことになる。これは現代金融の実質的崩壊である。

今のところ、日本以外では「金利の実存」について疑問視するような気配はないものの、米国が仮に近似的にでもゼロ金利になればそれも怪しくなるかもしれない。だが拙いことに、世界的な「金利機能の急低下」によってその可能性は徐々に高まっている。拠り所はもはや金利ではないのかもしれない。それは一種の招かれざる宗教革命である。

◆ 日本の金利機能ゼロ時代

日本に関してのみ言えば、金利政策はもはや手詰まり以外の何物でもなくなった。下げ余地があるとは言いながらも、それはもはや実質的な意味を成す話ではない。日銀批判に熱心な向きもまた批判の為の理由探しに没頭するだけで始末に終えなくなっている。「ゼロ金利時代」は名目的に脱皮しえたものの、「金利機能ゼロ時代」は抜け切ることが出来ぬまま、もはや日本から国家的な金融の枠組みは消滅したと言ってもよさそうだ。

一昔前に「日銀は死んだか」という本があったように記憶しているが、言葉は悪いが、今や「日銀はまだ存在するのか」といった方が適切かもしれぬ。総裁人事のみが、日銀の存在感を支えているかのようだ。

筆者は、ゼロ金利から金利機能ゼロへの道程は、日銀の失態だけではなくメディアが扇動した世論と政治の暴力による社会現象だと見ている。ゼロ金利は異常事態処理としてやむを得ない選択であったが、そこからの脱出が大きく遅れたのは日銀の責務であると同時に、社会が要求した部分も少なくない。民主的な日本が選んだ道でもあり、その結果として金利もその機能も失せた環境下でクレジット問題を説くことの虚しさは、本誌の読者なら誰でも共有されるところだろう。

これで金利機能のゼロ化も長く続くようなら(その可能性は大いに高まっているが)資産の資本化や資本の適正配分など、何を論拠にすれば良いのだろうか、という気分になる。日本の金融市場に、金利観から分析すべき分野や対象は残るのだろうか。日本はすでに宗教改革の入り口まで来ているのだろうか。

クレジット市場の現代的信仰基盤が「格付け」であるとするならば、株式信仰社会のそれは「PER」なのかもしれない。一株当たり利益の何倍が株価として妥当なのか、逆数としての益利回りをかすかな拠り所としながら、低迷する市場の片隅で割安論の根拠としてひっそりと棲息している。

本年1月に株価が急落した際にも、このPER神話が語られた。トヨタのPERが10倍など有り得ないくらいの割安だ、というコメントもあった。益利回りにして10%ならば安いかもしれないし、配当利回りで見ても3%近い水準は確かに魅力でもある。だが比較すべき金利が日本にはゼロ=「存在しない」ので割安なのかどうか良く解らない、ということも出来る。

金利がゼロなのだから配当利回りの3%はお買い得である、という理屈は絶対に正しいとは言えないところがある。金利が2%ならば論理的に正しいだろうが、金利がゼロということは世間の資金の根拠が金利ではないということを示しているからである。尺度にならない金利を議論のベースにしていくら割安だと言っても説得力がないではないか。ゼロ金利とはそういうことなのである。従って、株安は「ゼロ金利定着社会」の帰結であると言って良い。

日本の経済が急速に上向いた時点で金利正常化への動きに介入した勢力は、そんな日本を作ったのである。そんな輩がいま、日本経済の活性化や日本株の低迷に何らかの手立てが必要だと主張している。自分で蒔いた種はせめて自分で刈り取ったらどうだろう。

残念ながら、日本に短期的に出来ることなどありはしない。「構造改革の復活を」という声が強いらしいが、金融力問題を全く無視したような郵貯改革が果たして日本の成長を助けることになると言えるのだろうか。否、ゼロ金利を国是として定着させた時点で、日本の成長を支える金融信仰は既に崩壊しているのである。

いま、その流れが世界に波及しようとしている。名目金利もリスク・プレミアムも幻想だとするならば、いったい何が実在するというのだろうか。

◆ 信仰は復活するのか

「信仰としての金融システム」が不要だと言っているのではない。金融信仰がなければ現代の経済基盤は成立しないだろう。金利とその機能の不在によって、金融システムが揺らぐことがあってはならないだろう。宗教社会学がいうように、信仰とは「一つの歴史をもつ社会構成物」なのであり、金融における信仰も例外ではないのである。

だがその礎となる金利は日本では早期に復活する見込みが立っておらず、米国では雲行きが怪しくなっている。先進国では唯一、欧州中銀のみが孤高を保っている(英中銀も米国と同様の危機を迎えているように見える)。こうして、日米と欧州の間に信仰の対立が生み出されかねない状況になっている。大袈裟に言えば、現代金融における、ローマ帝国分割、或いはカトリックとプロテスタントの対立のような出来事が起ころうとしているのかもしれない。

信仰を失いつつある米国金融市場は大きな転機を迎えることだろう。金利と信用の信仰再構築にはかなりの時間を要する筈である。因みに宗教(Religion)という語源は、Re-legare(慎重に繰り返す)とRe-ligare(結びなおす)との間を揺れ動いてきたものだと言われる。金融信仰の拠り所をなくした米国金融も、その再定義を巡って揺れ動くのかもしれない。日本はそれをじっと待っているだけなのだろうか。

米国が偉大なる信仰社会、政教一致社会であることは論を待たない。17世紀チャールズ1世統治下の英国でカトリック色が強まった結果として、ピルグリム・ファーザーズが米国へ脱出したのは良く知られた事実である。その後の政治・経済、民主主義の発展過程において宗教が果たした重要な役割を指摘したのは、「アメリカの民主政治」を著したアレクシス・トクヴィルである。米国における宗教と自由の精神の一致は、経済発展に大きなエネルギーを与えることになったのだ。

金利の危機は信仰の危機である。米国にはまだ大手金融機関やモノラインの経営不安による危うさが漂っており、金融システムへの信仰が揺らいでいる。それぞれ形は違いながらも、現代と宗教を社会の中で見事に調和させてきた日本と米国が、それぞれ信仰機構としての金融システムの危機に直面している。時代は、金融的バイブルの原点に戻れと主張する21世紀のマルティン・ルターを要求しているようにも見える。

2008年02月22日(第165号)
 
s