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◆ 「カジノ資本主義批判」再批判

◆ 強まる金融界批判

スーザン・ストレンジが現代の経済ステムとそれを支える金融市場を「カジノ資本主義」と批判したことに対し、2年ほど前の本誌でそれはジャーナリズム的批判に過ぎないと反論したことがある。だがサブプライム問題を契機に、こうした資本主義・資本市場批判が燎原の火の如く広がっている。いまや金融業界には反論の余裕も無く、その批判と非難の勢いは止まりそうも無い。

筆者は消耗記事の多い新聞や週刊誌の類は殆ど読まないが、月刊誌はかなりの数に眼を通すことにしている。サブプライム問題の発生を機会に、最近論壇誌でも徐々に金融を取り扱う機会が増えてきた。これは不良債権問題の時代を髣髴させるものである。その前回のほぼ100%が「邦銀バッシング」であったのに対し、今回はほぼ「米国金融モデル・バッシング」である。米国の作り上げた金融帝国が崩壊寸前になっている、という警告モノも少なくない。

中には鋭い指摘をしているものも無いではないが、品の無さが目に付いたのが「世界3月号(岩波書店)」の特集「カジノ資本主義の終焉?」である。目次だけ見ても、「バブル・リレー経済の袋小路」「リスク売買ビジネスの歪み」「ドル、人民元、そして円の運命」「政府系ファンドとは何か」などなど、何が言いたいのか読む前に大凡想像が付く編集企画である。読まなきゃいいのに、と仰る向きもあろうが、根っからのへそ曲がりはこうした論文を読まずにはいられない。

岩波の雑誌であるから当然のことではあるが、その特集の中には、現代資本主義を徹底的にこき下ろし、資本市場はモラルも品性もないマネーゲームの賭博場に堕落したと蔑み、金融立国など有り得ない痴人の夢だと掃いて捨てている論文がある。現役金融マンには耳障りな内容だろうが、世間一般にはそう思っている人が少なくないのが現実なのだ、といいう健全な実感を持つにはこうした文章にも眼を通しておく必要があろう。

日本のアカデミズムもどちらかといえば金融業には冷やかであり、金融業の擁護派は少数である。だからこそ、金融問題の検討においてはいつも同じ顔ぶれが揃ってしまい、議論の発展が乏しいという難点もあるのだろう。岩波の特集は、日本の経済学界の多数派を占める反金融アカデミズムの声を集約したような格好になっているので、ある意味では参考になる。

ただ読んで解ることは、彼等の主張にも少なからぬ正論が含まれていることである。金融実務に溺れ過ぎると、或は金融ビジネスへの思い込みが強過ぎると、どうしても死角になる部分がある。経済学者による金融批判は、初歩的な勘違いや実務的に納得しがたい部分も多く有益と言い難いのは確かだが、それでも何かヒントがあるのであれば、暇な時間に読んでみるのも一興だろう。

◆ 特集の内容概観

さて「世界3月号」の「カジノ資本主義終焉特集」に組まれた論文は7本あるが、その中から筆者が問題視する大瀧雅之・東大教授による「金融立国論批判」を採り上げてみよう。この小論で大瀧教授は、政府による救済に依存してばかりいる金融業など基幹産業の資格はないとかなり感情的に糾弾し、間接金融の市場化や証券化を奇妙な角度から批判し、銀行員はすべからく物理・化学に造詣が深くなければならぬ、という非現実的な提案で締め括っている。

世間の金融立国論の理論構築がかなりナイーブであることは否定しない。日本の金融史を概観すれば、その金融力にいま過大な期待をすべきでないことは、指摘を受けるまでもない。だがそれを以って、金融立国論を「痴人の夢」とまで断定するのは穏やかな表現ではない。教授の言葉の端々からは、金融への嫌悪観がプンプン匂ってくる。

それは、不良債権問題を自力解決できず政府に泣き付くことで延命を許されてきた事実への厳しい批判であると好意的に解釈することも出来るが、金融を基幹産業として認知するのは暴挙だとまで言い切るその姿勢には、一言程度は反論しても良いだろう。この小論は、とても東大教授の肩書きが添えられた書き物にはそぐわない「無知性の塊り」である。

サブプライム問題の日本への波及問題に関して、同教授は、日興がシティグループに吸収された事象を、みずほのメリルへの出資と同様に、日本の金融機関による米銀経営支援策であると述べ、米国問題によって日本の金融経営が深刻な状態に追い込まれていると描写している。

またサブプライム問題が日本の資産運用に与えた影響として、ドル建て土地信託から国債へのシフト、日本株から国債へのシフトという二つの潮流を挙げ、その結果として円高と国債利回りの低下がもたらされた、と解説している。どこから持ってきた説明なのか理解に苦しむが、とにかく米国からのこうした余震で日本経済は景気後退の淵に立たされているという。兎に角、申し訳ないが、実務感を無視した文脈には辟易とさせられる。

また教授は、金融・保険・不動産業の就業者数は230万人(2004年現在)で就業人口の僅か3.6%に過ぎず、こんな雇用創出能力に劣る産業は基幹産業足りえないと述べ、また付加価値生産額でも7%程度の貢献でしかない金融業に市民の命脈は託せない、とも言う。

就業人口統計は、もう少し詳しく見るべきだろう。2007年末の「労働力調査」では、非農業部門の就業人口は6,170万人で金融・保険・不動産は247万人であるからそのシェアは確かに4.0%と大きくない。だが金融よりも「立国論」が喧しい情報産業は213万人で、同教授のいう「雇用創出能力」は金融よりも乏しいのである。

むしろ問題は、生産性の低い建設業や卸売り・小売、飲食セクターなどの就業シェアが高すぎることではないか。さらに金融が生む情報、リサーチ、法務、会計などの周辺分野を含めれば、見かけの数字よりも雇用創設力は高い。

付加価値生産額は確かに問題である。日本の数値は、英米が10-15%を稼いでいるのとは対照的だ。だが逆に言えば日本もその程度にまで伸ばせる機会があるということである。1970-80年代には、英米日のそのシェアは5%程度で並んでいたのであった。そうした史実を、卑しくも学者ならもう少し思慮深く検討資料として認識すべきであろう。

◆ 誤解はまだまだ続く

日本の銀行が大きな課題として抱える間接金融の市場化への動きも、同教授にかかれば「貯蓄から投資へ」という意味不明の政府プロパガンダに乗っかった、「横着で傲慢な金融機関の経営とそれを黙許している金融行政の甘さ」を露呈したものである、という評価になる。これはサブプライム問題を巧妙に銀行批判の格好の材料として用いた、悪意に満ちた論説であろう。

証券化によって無知な個人にリスクを転嫁し、安全資産から危険資産へと誘導する政府の支持の元で、手数料を稼ぐあくどいやり方が「市場型間接金融」であり、金融立国論とは、姿と名前を変えた「金融過保護行政のヴァリエーション」なのだというから、噴飯もここに極まれり、の感がある。こういう見方もあるのですね、と感心したくもなる小論である。

だが、この劣悪な論文にも二つほど収穫がある。一つは、現代の金融工学におけるリスク評価の稚拙さ、そして金融界におけるプリミティブな「数学信仰」への批判である。「無用の複雑化」が席巻する中で、穏やかな視野での論理的思考が必要である、との主張には素直に首肯したいところである。

また、(註)に収められた「福田首相の無策は近来稀に見る賢策」とするくだりも、筆者の同意するところである。現政権が市場不安を前にして何もしない、何も考えていない、と批判を強める論調が目立っているが、こと日本に関する限り、政策的に必要なものは何もない。米国ではいずれ銀行国有化議論も起きてくる可能性もあろうが、だからといって日本が何をするでもない。勿論、福田首相が意識してこの賢策を採用しているのかどうかは全くの別問題である。

さて、今回はやや後味の悪い小文となったことをお詫びしておく。大瀧論文は、金融関係者など読まないだろう、という気楽さで書かかれたものかもしれない。だとしても、その読者にはこの論文が日本の金融像を大きく歪ませることに貢献することは間違いない。

それに比べれば、同じ特集に組み込まれた本山美彦・京大名誉教授の「リスク売買ビジネスの歪み」は、LBOを過小評価している部分もあるが、格付け会社とモノラインの関与を整然と論じ、リスク・テイク概念の転倒を指摘するなど、本質を突いた議論を展開している。

大学の話にはあまり踏み込みたくもないが、最近の経済・金融問題に関する東大の先生方の話を聞く機会が増えるにつれ、その意識レベルの低さに驚愕することも多くなった。現代の金融に問題があるのは誰にでも解る。「カジノ資本主義」が終焉すると説くのも良し、だがそれはどう修正されなければならないのかを示すのも学者の務めであろう。金融制度を修正するためのアカデミズムの役割は貴重なのである。だが大瀧論文には、残念ながら、そうした誠意の一片もなかった。

2008年03月07日(第166号)
 
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