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◆ リプライシングの逆襲

◆ 6年前の問題意識

このRPテックという外部からは事業内容の解りにくい会社を立ち上げた直後に、当時日経ビジネスの名物編集委員で鳴らしていた谷口智彦氏(現在、外務省副報道官)と出会い、彼の紹介で日経BP社の黒沢正俊編集長と会った。お二人とも、我が社が何をしているのか多分おわかりにはならなかったと思うが、「信用リスクの値段」というコンセプトには、異常なほど関心を抱いて頂いた。

当時はまだクレジットのプライシングという考え方は(読者の皆さんのような一部のプロは例外として)それほど一般的ではなかった。筆者が両名と麹町のイタリアン・レストランでパスタをつつき合いながら、現代の商業施設の中ですべての商品価格が均一である産業など銀行以外にないでしょう、と説明した瞬間に黒沢編集長が「それ、本にしましょう」と一声出したのがきっかけで、モナリザの微笑を表紙にあしらった「金融市場は謎だらけ」という本が出来上がった。

正確に言えば、「全商品均一価格」の先輩としては100円ショップというユニークな商売がある。バッタ屋から始まったこの形態は1991年にダイソーが常設店を始めたと言われるが、当時はまだその存在は大きくなかった。むしろ、100円ショップは銀行の単一価格経営を真似したのではないかと皮肉りたくなるほど、その経営形態は似ている。銀行は企業にとっては「短プラ・ショップ」であり、預金者にとっては「ゼロ金利ショップ」だったのだ。

2002年にその本を上梓した際に、面識のなかった学会や銀行界、メディアなど多方面の方々から様々な感想を頂いた。慶應の池尾教授には朝日新聞に書評を書いて貰った。日経新聞も日曜版に書評を載せていた。それほど、金融における価格不在は意外な盲点であったのだろう。

同書の出版を通じて、日本の銀行界に対しクレジットに応じたプライシングの必要性を主張することには成功したと思うのだが、あれから6年経過した現在、金融界を眺めてみても事態はほとんど変わっていないように見える。ペンは剣より強し、というのはいつも正しいとは限らない。

なぜ今になってこんな話を蒸し返すのかと言われれば、プライシングに拘ったはずの欧米金融が、いとも簡単に瓦解してしまったからである。価格形成は、アングロ・サクソン金融の中枢インフラであった。19世紀にクレジット・カーブを作った英国金融と、20世紀にイールド・カーブを完成させた米国金融は、磐石のプライシング世界を築いた筈であったのだ。だが、プライシングを無視し続けた日本は軽傷に終わり、プライシングを突き詰めた欧米は、瀕死の重傷を負っている。それは、リ・プライシングによる逆襲の結果でもあった。

◆ リ・プライシングの機能

個別企業のプライシングと証券化のようにプーリングする場合のプライシングとでは、そのアプローチが異なることは明らかであり、サブプライム・ローンの証券化と格付けがその落とし穴に嵌ったという指摘は正しいだろう。だが、その問題はさておき、プライシングに付き物の倒産確率という概念はどこまで現実社会に通用しうるのか、という点にもメスを入れる必要がある。

当たり前の話で恐縮だが、信用リスクのプライシングは大雑把に言って倒産確率と回収率の関数である。どちらも扱いは厄介であるが、究極的にそして必然的に、恣意的変数になり易いのが前者であることは論を待たない。スコアリングと倒産確率とを対応させるというロジックは、新銀行東京経営の瓦解で破綻してしまった。倒産確率が、景気循環に滅法弱い論理性の乏しい確率変数であることは、今では誰でも知っている。

間接的にとはいえ倒産確率と密接に連動する筈のCDS価格が、パニック的なリ・プライシング過程においてそうした論理的インフラから完全に脱輪することも発見してしまった。つまり、現実社会は確率というコンセプトを常時受容れている訳ではないのである。その傾向は証券化市場に顕著に見られるが、個別企業においてすら、恐らくそうなのだ。

特に今回のサブプライム問題のように、金融自体が実体経済を蝕み、その成長率を押し下げるという本末転倒が現実となった社会においては、考えようによっては金融のプライシングが過度の経済変動を通じてそのプライシングに再び影響するという負のフィードバックこそがリ・プライシングの本質である、とも言える。その意味では、統計的な倒産確率に基づくプライシングとは静学的なアプローチであり、リ・プライシングは動学的アプローチにおいて倒産確率が大胆な確率変数として暴れまわる結果であるとも言えるだろう。

ミクロの企業財務とマクロの景気とは相互に密接に関連している。その関係では、どちらが独立変数でどちらが従属変数であるとは言い難い。ミクロの積み重ねがマクロであると同時に、マクロはミクロを直撃する。そのミクロの世界で起こるプライシングは整流なのだが、リ・プライシングは乱流である。

今回の欧米金融危機における重要な撹乱要因は、いうまでもなく過剰なレバレッジとそれが引き起こした過激な景気変動、そして枯渇した市場流動性であるが、その混乱の中で起きた「リ・プライシング」に、市場社会は翻弄された。それは、パニック的なリ・プライシングをどう受け止めるかという問題を提起したと言えるが、より正確にはリ・プライシング機能の重要性をも浮き彫りにするものであった。

つまり、リ・プライシングの円滑な作動が確認されないマーケットでは市場メカニズムは担保されないという当たり前の、然しながら、証券化(あるいは流動化)においては皆が過小評価していた事実の再確認である。プライシングだけでは金融市場は成立しない。リ・プライシングが出来てはじめて市場と言えるのである。それはまさに、シンジケート・ローン組成が増えるだけではローン流動化市場など出来るはずがない、という筆者の持論に接木するものでもある。

◆ では何を準備すべきか

エンロン事件で大手米銀が潰れなかったのは、証券化とCDSの発展、つまりプライシングの外部発展のおかげであったが、今回のサブプライム事件では、その証券化やクレデリがベア・スターンズを潰してしまった。それはリ・プライシングが原プライシングを破壊した為でもある。

リ・プライシングが乱流になるのは、倒産確率が不安定になるからでもあるが、もっと重要なことは、プライシング時にはそれほど大きな存在ではなかった「流動性」が突如として推測不可能なパラメータとして入ってくるからである。

債券発行、ローン組成などの原始プライシングの際には、流動性はある程度加味されるが、それは「社債とローンの流動性の違い」「公募と私募の違い」程度しか認識されない。だが、一度オリジネーションの手を離れた後のリ・プライシングにおいては、流動性の影響は増幅される。結果論ではあるが、証券化商品のようにそもそも流動性を期待していない商品のリ・プライシングが悲惨なものになるのは明らかであった。

そんなことよりも重要な問題は、リ・プライシングの枠組みが担保されていない金融商品を、果たして「市場性商品」と呼ぶべきかどうかである。モデルでしか価格算定の出来ないものは、市場商品なのだろうか。恐らく「似て非なるもの」と言うべきだろう。

プライシングとは「時価とは何か」を問うものであり、リ・プライシングは「時価はいくらか」を問うものである。マルクス的にいえば、前者は使用価値に近い概念であり、後者は交換価値と見ることも出来る。つまり前者が存在するからといって、後者が存在するとは限らないのだ。サブプライム・ローンを利用した巨大証券化ビジネスは、価値を単純化した人々の幻想によって作られた虚像であったのである。

さて日本はといえば、リ・プライシングの落とし穴に掴まる前に、プライシングで足踏みして助かったようにも見えるが、欧米を見てプライシングとリ・プライシングの相違という教訓をどこまで実践に応用できるのか、を問われ続けることになろう。

金利が上昇しない環境ではプライシングの説得力が乏しいのは事実であるが、アジア市場やイスラム金融など今後発展が予想されるビジネス戦場において、リ・プライシングの重要さと怖さとは、重要なノウハウになるだろう。欧米に追いつくことを目標にする時代は、我々の世代で終わった。欧米の失敗を如何に日本とアジアで活かすのか、現役日本勢はそろそろ目覚める必要がある。

2008年05月23日(第171号)
 
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