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◆ 危険な青信号

◆ 信号機の役割

読者の大半の方々にとって「信号機」は、恐らく物心付いた頃には既に社会の一部として存在していたことだろう。筆者は田舎生まれということもあって、初めて信号機なるものを見たのは10歳頃であった。街に第一号機が設置されたのを、学校の帰りにわざわざ遠回りして見物に行ったことを今でも鮮明に覚えている。当時の小学生にとって、信号機は校長先生と同じような権威を醸し出していた。

成人になって運転免許を取った後も、その絶対的な審判に何の疑問も感じることなくひたすら信号機のメッセージを守り続けてきた。信号機を初めて見てから15年ほど経過して英国へ転勤した際に、信号機の役割が国によって大きく違うことに気付く。英国では、より正確には英国の「歩行者」にとっては、信号機とは二義的存在でしかない。

日本では信号機は絶対であり、運転者は勿論のこと、歩行者もまた信号無視はご法度である。信号が秩序を生み出し、事故を減らす機能があることは言うまでも無い。日本の交通秩序は信号機の存在が大きな役割を果たしている。信号機のお陰で、流量はコントロールされ、通行する人々の安全性を担保する。歩行者も対称的に信号機を守ることで、そのシステムに協力している。それに文句を付けようものなら、それこそ日本社会から袋叩きにされることになる。

では何故英国では信号機は絶対者ではないのに、秩序が保たれているのか。誤解の無きように補足すれば、英国でも自動車を運転する人には信号機は絶対的存在である。それは、強い立場にある者が守らねばならぬ規律である。たとえ不合理であっても、弱者を前にした強者はその独自の論理を捨てる必要がある、というのが伝統社会の教えである。従って、英国では信号機が無くても横断歩道に人が立っていれば、停車しなければならない。これはまさにルールではなくプリンシパルである。 

つまり運転者にとっては、信号機は服従すべき絶対的な指揮者ではない。自分自身がリスク・マネージャーなのであり、信号機はそのサポート役に過ぎないのである。それは、歩行者にとっても同じなのだ。歩行者は、(都市部の大きな道路は別として)信号ではなくまず左右を見る。自動車が来なければ平気で横断する。それを「信号無視」と捉えるのは我々の感覚だ。彼等は信号を無視しているのではなく、自らの判断を優先しているに過ぎないのである。

一方、日本の歩行者は左右を見ないで、信号機を見てから道路を渡るのが通常の行動原理である。自動車など全く来る気配も無いのに、じいーっと信号機の赤を見つめてそれが変わるのを待っている人は少なくない。それを横目に道路を横切るとき、何か背中に冷たい視線を感じるのは筆者だけではないだろう。

◆ 危険な青信号

最近は、信号が青だからといって左右を確認しないで迂闊に横断歩道を歩けば、とても危険な眼に遭う可能性もある。私の友人は、青信号で道路を渡っている途中に信号無視で突っ走ってきたバイクに跳ねられて大怪我をした。

運転手にとっても青信号は絶対ではない。私自身、自動車を運転している時に青信号でアクセルを踏んだ瞬間に、前方の左や右からから車が横切って焦ったことが何回かある。また、時には自動車の進行を無視して道路に飛び出してくるバイクや若者、老人も居る。

信号の「全赤システム」は危機を回避する仕組みなのだが、それを逆手にとって赤でも突進してくる運転手は少なくない。信号が黄色から赤に変わりそうなった途端にアクセルを踏むという危険な癖が抜けない奴も居る。信号システムが安全を担保していると言うには程遠い状態にある現代社会においては、歩行者も運転手も、決して青信号など頭から信じてはならないのだ。

赤信号もまた微妙な問題を抱えている。自動車を運転する方は、人気を感じなくても信号は遵守せねばならない。それは法律である以前に、強い立場にある者が守るべきマナーであるからだ。だが歩行者にとっては、赤信号もまた時として有難迷惑な存在になる。自動車の陰も形もない道路での赤信号は、現実論として守る必要性に乏しい。

つまり信号機は社会秩序を保つための補助線のようなものである。運転手はディシプリンに従って信号機を尊重し、たとえ青信号であろうとも歩行者が居ないかどうかを確認して運転せねばならぬ。そして赤信号は無条件に停止するというモラル感覚が大人の処世術である。

そして歩行者もまた、自動車が前後左右から来ないかどうかをまず自分の目で確認してから信号を見なければならない。歩行者という道路上の弱者にとっての行き方は、極端に言えば「危険な青信号より安全な赤信号」なのである。形式的なルールに盲目的に従うのではなく、自分で納得する判断尺度を持たねばならないということだ。

◆ 金融的弱者をどう救うか

さて、ここ数年の「貯蓄から投資へ」という政府の掛け声や、それに便乗した金融ビジネスやメディア、評論家、書籍の類は、まさに「金融信号機の青信号」の役割を果たしたと言えよう。確かに現代人にとってある程度の投資知識や実践は必要だろうが、「青信号」を教条的に信じた人々にとっての昨年来の内外株安は、まさに青信号を信じて道路を渡ろうとしたら横から猛スピードでやって来たトラックに跳ねられたようなものである。

これを自己責任と言って済まされるかどうかの問題は、もっと議論されても良いだろう。相場は水物、というのは市場を知っている人々の理屈でしかない。道路を渡ったことの無い人に「いや世間には信号無視する奴もいますから」と事故の後で釈明しても仕方が無い。窓口で「リスクがありますよ」などと説明しても、政府や有名人が「貯蓄から投資へ」と叫んでいる時に、窓口の頼りない営業マンの説明などどこまで効力があるだろう。金融商品取引法のおかげで販売が減ったのは不幸中の幸いであった、という皮肉な見方すら出来るかもしれない。

一方で「皆で渡れば怖くない」というのも一つの真理である。それは弱者の処世術であると言うことが出来るだろう。だが投資という世界においては、個人に限って言えばこれは全く役に立たない。機関投資家と違って、他の人も損しているから、という釈明など何の意味もないからだ。投資の弱者は、自分の目で左右を確認する術を取得するか、道路を渡るのを諦めるか、の選択肢しかない。恐らく大多数は後者を選ぶだろう。

金融リテラシーを上げる、投資の勉強をさせる、といった企画は何とか前者の数を増やそうという目論見であるが、それは米国では成功しても日本社会の主流にはならないだろう。現代日本人は、金融信号機が道路の信号機よりもさらに信頼感が乏しいことをバブル経済の崩壊で実感しているからである。それは信号自身の能力ではなく、金融市場という虚構のなせる業である。

道路では実際に自動車が走っているが、金融市場には「何が走っているのか解らない」という恐怖感がある。現にサブプライム問題は、プロが使う信号機など完全にすり抜けて走ってきたではないか。金融という道路に信号機能は乏しい。

その中で、「リスクテイク」という美化した言葉を添えて弱者に投資を奨励することが賢明な判断だとは、私にはどうしても思えない。「お金を銀行に預けるな」という信号などは危うさを孕むだけでなく、銀行機能を無視したものでもあり、論外であろう。

リスクを取る覚悟のある人はリスクを取るべきだ。そういう人に、世間の信号機を過大評価するな、自分で学べ、と教えるのが本当の「金融教育」なのではないか。

2008年08月01日(第176号)
 
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