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◆ 「米国CDS」の意味するもの

◆ ジャパンCDSの始まり

1997年の7月にバンカース・トラストからチェース・マンハッタンに移籍した際、直後に発生したアジア危機で24時間振り回されることになった。タイから韓国、インドネシア、フィリピンなどの債務問題に飛び火したアジア危機は、クレジット市場の大混乱を巻き起こしたことは記憶に新しい。そして当時は、日本の金融不安ももう一つの大きな「クレジット問題」であった。

バンカースのクレジット部門にいた筆者は、クレジット・リンク債から派生したCDS(当時はデフォルト・オプションと呼んでいたが)取引がいずれ日本にも伝播するだろうと確信していたが、それはまず邦銀のリスク・プレミアム急上昇という形で実現した。

邦銀は当然この取引の輪に入れないため、彼等は当時自らのリスクがどの程度で取引されていたか知る由もなかった。某邦銀に、SPVを使ってこの高い利回りを「買戻し」しないかとやや品無く提案したことがあるが、その企画担当役員はなぜこんな高い利回りが出るのかとなかなか理解できないようだった。

そしてその後、遂に日本を対象としたCDSが登場する。いわば日本国債のデフォルト・リスクである。5年で5BPといった低価格にせよ、自国の破綻リスクがプライシングされるのを見るのはやや心中複雑なものがあった。それを、筆者が当時キャスターを務めていたNHK衛星放送で話したところ、即座に日本銀行のある審議委員から詳しく状況を知りたいと電話が入った。

その頃は、キャピタル・フライトや国債入札未達などの話題が盛んに取り上げられていた時期である。記憶されている人も多かろうが、海外市場でも日債銀や富士銀、興銀など邦銀大型デフォルトの話題が飛び交い、利金債には国債比6%以上のプレミアムがついた。邦銀CDSも急騰し、市場では「不良債権総額は100兆円を下らない」「日本は金融システムを支えきれない」といった厳しい見方が増えていった。「日本CDS誕生」にはそんな切迫した背景があった。

あれから10年が経過、日本のCDS市場は銀行だけでなく幅広い業種に裾野が広がり、JALやソフトバンク、三洋電機、消費者金融、不動産などヘッドラインに連動して上下動する銘柄も増えている。一方で、日本CDSの話題はいつのまにか消えていった。

いまや、CDSはサブプライム問題を契機に、欧米市場で「大活躍」である。これもビジネス・サイクルなのだろうか。自動車、金融などの価格は大荒れである。そして、ついに7月にはリスクフリーであった筈の米国を対象とするCDSが欧州市場に登場したのである。

◆ GSE、投資銀行、地方銀行、住宅ローン

米国の金融問題をあらためて整理して見ると、その公的資金投入による支援で米国の実質的財政赤字は気が遠くなりそうなほど巨額になる。公的資金投入で何でも解決、というのは単なる幻想である。ジャーナリスティックに言えば、米国型金融の終焉と言われてもおかしくない現実が眼前に横たわっているのだ。

GSEはいずれ国有化されるだろう。その資本投入額を正確に推測するのは難しいが、法定資本を参考にすれば2社合計で300-500億ドル程度は必要だろう。今後も損失が膨らむ可能性を考えればもっと増える可能性もある。シティやゴールドマンは不要との見方を示しているが、それは評価損で自社を含む環境が破壊されるのを防ぎたいという表層的自衛本能に過ぎない。

そして内外で調達している債券発行残高5兆ドルは「暗黙の政府保証」から「政府債務」へと切り替わる。投資銀行はすでにJP Morgan経由でBear Stearns向けに290億ドルの投入を完了しているが、それに加えてリーマンなどの民間買収が難航すれば同程度の投入のシナリオも有り得えない訳ではない。急増するのが不可避である地方銀行破綻は、FDIC基金では賄えないことがほぼ確実であり、これも数百億ドルの負担が必要になるだろう。

仮に金融機関を支援しなくても、住宅ローンの借り手を救済する必要は出てくる。民間に任せても、利益相反する借り手救済策は生まれない。大統領選挙を意識した、寛容な救済になる可能性もある。こうした金額を積上げれば、気の遠くなる公的債務の金額となる。これが、借金大国としての米国の「富の実態」である。

GSEにしても国有化したからと言って安全な機関になる訳ではない。保有資産は飽くまで民間ローンでしかないのだ。FRBのバランスシートも、米国債から民間ローンに振り替わり、ドル紙幣の裏付けも怪しくなる。疑い出せばきりがないが、要するにいまの米国には至る所にクレジットリスクが纏わりついている、ということがわかる。米国のCDS価格が登場したのは、むしろ遅すぎた感すらある。

◆ もはやリスクフリーではない

米国債をリスクフリーと呼ぶのは、米国産のファイナンスの教科書だけで十分だろう。現代の金融市場で、米国債やエージェンシー債をリスクフリーだと心から確信している人は余程の楽天家である。

デフォルトの可能性が全くないというのと、結果的にデフォルトしない、というのは違う。前者はリスクフリー・アセットと呼ばれ、後者はリスク・アセットと見做されるが、厳密に言えばこの世に前者は存在しない。米国債は紛れもなく後者であることを、今回の金融不安は如実に示している。米国債のリスク・プレミアムが存在するのは当然だ。巨額の米国債を保有するアジア、産油国は、そのリスクに対してより真剣になるべきである。

現在、ユーロ建ての米国CDSは5年で10BP前後のようだが、水準そのものよりもこうした市場の存在が、米国に警告を発するというメッセージ効果になれば効果はある。米国はこれまで国際金融を牛耳る「主体」であり、システムを監視する「主体」であった。だがその主体としての実在は消滅しており、米国は既に絶対的な「金融神」から実質的に引き摺り下ろされている。その自覚がなかったことが、大きな問題であった。

CDS市場は、貴重な「警告場」でもある。企業も自治体もそして国もそのメッセージを重く受け止め、自省しつつ財務改善を図ってきたのだ。米国リスクを米国自身が自覚することに、「米国CDS」の大きな意味があると言えるだろう。

2008年09月05日(第178号)
 
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