HOME > 2008

◆ 「錬金術・化学」と「重商主義・経済学」

◆ 変化する知の体系

怪しげな錬金術が現代の化学の礎となったことは、読者もよくご存知だろう。アイザック・ニュートンは、最強の数学者にして最期の錬金術師でもあった。その事実を現代の視点から眺めてはいけない。彼の時代に視座を据えれば、造幣局長官をも務めたニュートンが錬金術に並々ならぬ関心を抱いたのも当然のことにように思える。

そして占星術はのちに天文学を導くことになる。ヨハネス・ケプラーの生涯は、両者の境界線の危うさと面白さを象徴している。宇宙の秩序を数で表現するなど占星術師の顔を持ったケプラーは、同時に数学的モデルに基づく天体軌道の説を唱えて天文学の基礎を作ったのであった。

こうした「術」から「学」への変貌は、思想史的に極めて衝撃的なジャンプ過程であると見ることが出来る。正直言ってこの意識革命は、産業革命などよりよほど心を惹かれるものがある。中世ルネサンスから古典主義へ、そして近代へと歴史が流れる中で、魔術を含む「術」は消滅して多くの「学」が生まれていく(もっとも、不安に囲まれた現代社会に様々な面「術」の復興が見えることは否定しがたい。金融も然り)。

生物学もまた、近代社会が産み落とした大きな学問である。その祖先は、中世に「類似」をベースとして分類・解釈された「自然の記述法」であり、同一性と相違性をもとに様々な物質や現象を分類していくこの手法は、古典主義の時代に「博物学」へと進展する。博物学は南方熊楠の研究でも有名だが、現在も燦然と存在する学問である。これが生物学に進化した訳ではないが、18世紀にこの博物学にある「衝撃」が与えられ、そこから生物学が生まれたと言われている。

その衝撃とは、「生命」への意識であった。博物学を支えたのは「生物」の概念であったが、生物学は「生命」の概念によって発達したのである。その生命の概念を発見したのはフランスの解剖学者ジョルジュ・キュヴィエであった。彼は、パリの自然博物館に保管されていたガラス容器に入った生物を片端から解剖し、「器官の意味」を転換させたのである。

この大胆な作業によって、これまでの「眼で見る分類」から「生命という機能からの分類」へと視点が変化することとなった。それが生物学の起点となった。それは生物における不連続性を開眼させることになり、のちの進化論へと繋がっていく。

さてこんな長い前置きを書いた理由は、この博物学から生物学が生まれていくのと併行して、「富の分析」が「経済学」へと変質していくという流れを述べたかったからである。それを時代的に鋭く観察したのは、ミッシェル・フーコーであった。

◆ 富の分析

生物学は、生物を生死という対立軸で観察する生命の学問である。それと同じように経済学は、経済という生き物のダイナミクスを扱う学問である。いささかこじつけ、という謗りも免れ得ないが、フーコーはこの生物学と経済学、そして言語学を「人間の学問」の成立として捉えている。

我々の馴染みの深い経済学では「冨」は現代的にGDPなどで定義されるが、古典主義の時代には貨幣或いは金の保有量を以って「富」と見做した。つまり輸出は富であるが、輸入は富の喪失という訳である。この考え方は重商主義或いは重金主義と呼ばれ、とうの昔にテキストから葬られているが、現代の政治家や評論家の中には依然としてこの15世紀的感覚の呪縛から抜け切れない人も少なくない。

さて、博物学が「可視的な生物」を対象としていたように、富の分析も「計量可能な貨幣」という側面から見る時代が続いた。価値と価格が同一視され、労働や生産などは一切捨象されていたのである。そこに「土地が富を生む」という重農主義が現れ、富は交換体系の中で生まれるものだと考えた。これに対して、商品に価値があるからこそ交換されて冨が生まれるのだ、と反論したのが有用性の理論であった。そこに「労働による生産」という新たな概念を導入したスミスとリカードが前世代の富の理論を粉砕し、経済学を成立させる

フーコーは、この「労働の導入」こそが「経済に時間と歴史を浸透させることになった」と読む。鋭い視点である。死に支配される生身の人間が身体を消耗させながら行うのが労働であり、「労働者が提供する労働と交換価値を形成する労働は切り離されて導入される」ことに、フーコーはスミスとリカードの経済学の意味を感じているのだ。

労働とは、労働者にとって有限の資源である。つまり労働の本質とは希少価値であり、それを根本的原則とする経済学は、生物学と同じように基本的に人間学的な原理から成り立つものである。マルクスが搾取される労働の本質を疎外から回復させるのは革命しかないと考えたのもこの延長にある、とフーコーは読み取る。

因みに生物学と経済学と併行して語られる言語学は、私にはよく消化できないのだが、ルネサンスにおける「一般文法」という言語表現の学が言語学へと進化していく過程が、生物学と経済学と同じように、「人間」を社会認識の表舞台に引き摺り出すことに成功した、というのがフーコーの論理であるらしい。

認識する「人間」がその至高の立場から引き摺り下ろされて認識される一部となる。それが「人間科学」の目覚めであったとすれば、現代のメディアで語られている富や価値の薄っぺらな議論(例えばサブプライム問題やソブリン・ウェルス・ファンドなど)は、何やら古典主義時代に逆戻りしているような錯覚さえ覚える。金融からいつのまにか人間的臭さが消えたのは、金融工学や格付けなどの幻想的枠組みの影響も多分にあるだろう。

◆ 生命的な金融分析

さて、フーコーをダシにして人間と金融という土俵に読者を強引に引っ張りこんできた。もっともフーコー自身は、精神分析や文化人類学、構造論的言語学を通じてこの「人間らしさ」と訣別している。人間は、歴史的主体としての終焉を迎える、というのである。その話はまた別の機会に譲るとして、フーコーによって中世から近代への科学の進展の一環として捉えられた経済学の意味を、いま一度考えてみたい。

簡単なアナロジーとして、「錬金術と化学」を「重商主義と経済学」に対比させてみる。錬金術は「金(ゴールド)をつくる」という目的に世界中の頭脳が集結したものであり、重商主義は「金(カネ)をつくる」という目的に向けて各国の政治家が奔走したものである。それが古典主義時代の豊かさを求める姿であった。

それらが科学へと発展していったのは、合理性への追及といった思想背景以外に「視覚的な分析」から「生命的な分析」へと深堀りされた意識改革があったのは間違いないだろう。ここに生物学と接木される経済学が浮かび上がるのだ。そして、経済の裏面を刻印する金融に対する分析は、そうした生命の概念を利用する前に、一気に数学へと「飛び級」してしまったのだ。これが金融社会の悲劇でなくて何であろう。

格付け、正規分布、シミュレーションなど現代金融を支える屋台骨には、生命の息吹は感じられない。生命のダイナミクスを排除することが、金融工学の前提であったからである。その無機的金融基盤は、BISや各国当局など規制体制の支持すら得た上に自らを「ダイ・ハード」さながらの永久利益機関と勘違いした人々が作り出したサブプライムというマグマの噴出で終焉を告げた。

経済は一種の生物である。それを資本で支える金融も別種の生物である。その有機的関係を忘れて肥大した金融は、自壊するとともに経済という重要な生物をも傷つけたのだ。リスクとは生命の別名である。神は死んだとしても、経済や金融は死ぬわけにはいかない。死を意識した生という有限性こそが近代科学を育んだ、とフーコーは見ている。その視線の延長に金融を位置付けてみることは、それほど無謀な試みではないだろう。

2008年12月12日(第185号)