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◆ 富と生産性

◆ 幻想としての富

「富」をどう計るかといえば、通常は預金残高や金融資産、不動産、貴金属、骨董品などの保有額であろう。ではそれは何が源泉となったかと聞かれれば、労働や相続、運用というのが一般的な答えだろう。だが労働は生活の糧を得るための手段であり、一般的には余剰資産を意味する富を生む源泉であるとは限らない。

結局、現代の「富裕層」は、企業経営が大当たりした資本家や、相続・運用などにおいて資産額が増えた人々である。それは資本主義の産物であるが、その格差が拡大するにつれ、そして付加価値を生んだかどうかはっきりしない労働が巨額の所得を生む現象が広まるにつれて、「富」に対する不満や怒りが爆発する。現代のアングロ・サクソン流金融業は、その罠に嵌ってしまった。

実力主義が嫌われたとは思えない。テレビに出没するタレントや野球・サッカーの有名選手、或いは音楽や絵画の天才が巨万の富を築くことに、誰が不満を示すだろう。儲かっている企業経営者が高額ボーナスを貰うことに対し、我々には文句をいう資格が無い。

だが今回の金融危機における「不平不満」の爆発は、一部の人々が失敗した時に責任を取るどころか、税金で救済されてお釣りまで来るシステムで保護されてしまう「悪しき資本主義」または「不都合な非対称性」によるものである。そのシステムは「富」の源泉に新たな存在が加わったことに拠る。それは信用貨幣の膨張だ。

テキスト風に言えば、無責任な紙幣印刷はインフレを呼ぶとして忌避されている。だが現実社会では、無尽蔵な紙幣こそが経済社会を支援しているように思われる。その意味では、現代の危機を象徴する事件としては2007年のサブプライム・ショックではなく、1971年のニクソン・ショックを挙げるべきだろう。

貨幣と金との「リンク切れ」は、そもそも各国の「金本位制の廃止」にあるが、世界的に見れば1944年のブレトン・ウッズ会議で実質的に合意され1976年のキングストン暫定委員会で名実ともに確認されたものだ。もっとも、経験的事実としてはやはりニクソン大統領の「金兌換停止宣言」が大きい。これによって国家は「金融という浮力」の更なるギア・チェンジに成功したのである。

ドル危機が囁かれ始めた1970年代には、まだ信用貨幣の威力に米国すらも気付いていなかったのだろう。その副作用は、1980年代以降に何度も繰り返される国際通貨危機という症状になって現れたが、市場と学界はその危機をそれぞれ個別の要素に因数分解して解説してきた。だが過去30年の金融危機の歴史は、一本のマグマに収斂させることができるのではないか。それが、今回指摘しようとしている「ペーパー・マネーの膨張を通じた幻想としての富の成立」である。

◆ 消える富、消えない富

今回の金融危機では株価が急落するたびに日本でも「XX兆円の富が消えた」と報じられてきたが、Oliver Wymanの試算に拠れば、世界規模では富裕層の資産額はピークから約10兆ドル減少したらしい。これは世界の富の約25%に相当するという。それは、失われたというよりも水増しされた富が正常化された、と言うべきかもしれない。富自身もまたバブルを帯びた存在だったのだ。

金持ちの条件として「フランスに生まれ、イギリスで働き、スイスの預金勘定を持ち、ケイマンにビジネス拠点を置く」と言われることもあるが、その表現の中には得体の知れない富の姿が浮揚している。金融ビジネスはその力学の中核を占めるエネルギーであったと言うことも出来るだろう。

1970年代以降の金融が付加価値を生まなかったとは言えない。浮力としての企業金融と個人金融は確かに世界経済を底上げしてきた。そこで派生商品技術や市場流動性の向上は、間違いなく浮力機能を増幅した。GDPとして計算することが難しくても、企業収益の増大の中に金融が果たした役割は過小評価すべきでない。

だがその副作用も大きかった。但しメディアの好きな「所得格差」という言葉は正確でない。構造改革の政治も多少の格差を作ったかもしれないが、本質的には幻想の富すなわち不労所得の源泉を作った現代金融制度こそが責めを負うべきなのではないか。一連の金融危機対策において、米国が「非対称なリスク・テイク」にメスが入れられないのは、つまり未だにその制度精神から脱却できないのは、その手法を失うことは米国が作り上げた幸福の源泉を喪失することだ、と解っているからではないか。

富の蓄積は、歴史の積み重ねである。世界史的にいえば、何らかの事件を契機にして富は飛躍的に増えるものだ。近代の富の始点は、大航海時代の欧州にあったことは言うまでもないだろう。英国の発展要素は、産業革命だけでなくそれに先立つ農業革命も忘れるべきではない。米国もまた農業生産性の上昇と工業への集中的投資で英独を追い抜いたのである。富は生産性の関数であるといっても過言ではあるまい。

20世紀の富の蓄積は大恐慌で躓いたが、それを財政支出と戦争で埋めてきた。その後、米国は軍事に加えて通信技術と金融に活路を見出そうとする。新自由主義はそれを上手く支えてきた。軍事展開に限界が見え始め、ITもバブル性が露呈し、米国は金融こそが次世代の富のエネルギーだとの認識を強めていく。だがそれもまた虚空に聳える摩天楼であった。

米国の潜在成長率が、危機を通じて低下していくトレンドを回避することは難しいだろう。労働力、資本、技術進歩のどの要素をとっても3%を超えるような成長率を回復することは困難だ。3月以降のダウの上昇は明らかに「偽りの夜明け」に翻弄されている。

米国だけでなく、世界もまた生産性上昇の手がかりを失っている。グリーン政策を次の標的に奥向きもあるが、それは起爆剤になりそうに無い。上海万博を前に中国の内需も期待はされるが、どこまで潜在力があるのか現時点では不明確だ。むしろ中国は米国流の信用貨幣膨張策で商品市況を吊り上げ、「金融による実体経済の破壊」を再現させようとしているかのようにも見える。

生産性を挙げるには研究開発しかない。それは富が支えるものである。富には消えるものもあるが消えないものもある。日本には消えない富も少なくない。それをペーパーにではなく研究開発に投じることこそが、生産性の上昇に繋がるのだ。信用貨幣はいずれ収縮するだろう。その負のスパイラルに巻き込まれぬうちに生産性を高めることだけが、おそらく日本の失われた日々を取り戻す術なのだ。

2009年6月26日(第198号)