HOME > 2009

◆ データベースとしての通貨

◆ 言語と通貨

世界で最も普及しているのは英語ではなく「Broken English」である、と言われる。だから日本人も恥ずかしがらないで下手糞な英語でもどんどん喋りましょう、という手合いもいるが、完璧主義の日本人にはなかなか難しい。中学から厳格な文法を学ぶ民族にとって、やはり英語は正確な英語であらねばならぬ、という意識を「脱構築」することは容易でない。

それはそれとして、英語とドルは「世界で最も普及しているもの」という意味で似たもの同士である。原点は19世紀の大英帝国による「英語とポンド」であるが、それが20世紀に「英語とドル」になった。通貨危機からドル不信の話に及ぶと、往々にして英語が世界中で利用されるように、ドルも世界中で流通するのだ、という反論がなされることがある。英語の普遍性を否定するのは難しいので、ついドルもそうなのかな、と思ってしまう。岩井克人教授は、貨幣と法と言語の中に社会の媒体としての共通因子を見出している。

確かに言語と通貨には相似性がある。どちらの利用度も、ユーザーが感じる利便性の強い関数で表されるからである。今後、中国経済がどんなに加速度的に成長しても、世界の共有言語が英語から中国語に代わることは想像しにくい。それと同じように、人民元がドルに代替することも数十年はないだろう。

ではなぜ、ポンドが基軸通貨の地位をドルに取って代わられた過程で英語は普遍言語としてその地位を保ったのか、と言えば英国も米国も英語を使っていたからに他ならない。勿論、英語と米語は微妙に違うのはご存知の通りだ。現在日本の教育で「主流」になっているのは英語ではなく米語である。

因みに私と兄貴は7歳違いだが、兄貴の英語の教科書は英語であり、私のは米語であった。英国に住んでいた頃、米国からと思しき若い旅行者らが電車の中で「こいつらの英語解んねえよなー」てな会話をしていたのを思い出す。一方、オフィスの英国人らは、ニューヨークから出張してきた人々の言葉をやや軽蔑的に真似して遊んでいた。

そんな差はあるとはいっても、やはりEnglishであることに変わりはない。通貨戦争が言語戦争に及ぶことはなかったのだ。そしてもう一つ、言語が普遍性を維持するにはデータベースとしての重要性がモノを言う。英語で積み上げられた知識の歴史は、単純にひっくり返せるものではない。

60億人中の13億人が中国語を母国語とするのは事実であっても、それで中国語は普遍言語にはならない。経済や金融のような社会科学だけでなく、自然科学も文化・芸術の世界も、覆すことの出来ない英語のインフラが出来上がっている。仮に22世紀に中国が米国を凌ぐ覇権国となっていたとしても、中国が英語を捨てることは無いだろう。英語は普遍的な共通語として残る。データベースとしての英語インフラは、いわば現代社会の資産なのである。

◆ 通貨の脆弱性

ビジネス上の通貨選好において、決済機能とヘッジ機能は不可欠である。だから「ドルしかないのだ」という主張には一理あるし、その論理は否定しない。だが、決済もヘッジもそれほど難しい機能ではない。人民元が50年後にドルや日本円と同じようなレベルに追いつけないという理由は無い。

それでは通貨をデータベースとしてみた場合、何が言えるだろうか。まず、通貨のデータベース性というのは言語ほどに明確ではなく頑強でもない。通貨取引は一過性のものが多いからだ。決済で利用されると通貨の役割は終了し、売り手に残った通貨は次の利用に備えて待機する。ただ、そこに歴史は存在しない。

通貨に系譜があるとすれば、借金で借り入れた資金つまり資本に伴う時限性である。3年前にドル建て5年債を発行した企業は、データベースとして3年前のドル債務を引き摺りながら、2年後のドル返済に備える。データベース期間は3年であり、将来のデータベースとしての期間も2年である。233年前にアダム・スミスが書いた「諸国民の富」のデータベース性とはえらい違いである。

つまり、データベースとしての通貨という面で考えると、言語としての英語と違ってドルの耐久性は意外に脆いのかもしれない。利便性など、当局の努力や制度次第でユーロやSDRなどのバスケット通貨がドルに追いつくのはそんなに困難なことではない。データベースとしての必然性が無ければ、簡単に他通貨に主役の座を奪われるかもしれない。これが英語と大きく異なる点である。

筆者は昨年来、各メディアでドルのしぶとさを強調しつつも、資本市場でのユーロ利用殿拡大を無視できないと言い続けてきた。それは、資本取引こそが通貨のデータベース性を裏付けるものであるからだ。その主体がユーロとなれば、決済も返済もまたユーロとなり、ユーロの利用度は飛躍的に伸張する。

また中国が盛んに主張するようにSDR取引での資本取引が増加すれば、いつのまにかSDRが準備・決済通貨に「化ける」可能性は、小さいけれどゼロではない。多くの有識者は「SDRは通貨にはなれない」と述べて中国の言い分を未熟だと批判しているが、何を通貨にするのかを決めるのは経済学者ではないのである。

通貨も言葉も、スナップショットで見る利便性とデータベースとしての重要性が、その普及度を決めるのだ。現在の「基軸通貨論」は前者だけを捕らえて議論している。両者において卓越した地位を持つ英語は間違いなく次の世紀にも共通言語だろうが、ドルは恐らくOne of the Major Currenciesの位置付けに止まるだろう。そして通貨も英語と同様に、恒久的かつ普遍的な社会インフラとなるのが望ましい。その意味で、やはり世界共通通貨への夢を持ち続けることが、世界経済の安定的成長と健全な金融市場のために必要なのではないか、とつくづく思うのである。

2009年8月21日(第202号)