HOME > 2009

◆ 救世主になれるのは証券化だけ

◆ 商業銀行の限界

昨年、「投資銀行バブル」が破壊されたと思ったら、その次には商業銀行の過小資本が浮き彫りになった。ある友人のメガバンク役員から、「商業銀行の終焉」なんて本出すなよ、とメールを貰ったのは昨年暮れのことであったが、それが冗談とは思えないほど、商業銀行の環境には厳しさが漂っている。但し、欧米では自己資本不足が巧妙に隠蔽されてしまったため、それが溶け出すまでにはまだ時間がかかるかもしれない。

もっとも、商業銀行の問題が本当に自己資本不足にあるのなら、公的資金だろうが民間増資だろうが、頭を下げて資本増強すれば済む話である。金融の深刻さを米議会が理解しないのなら、IMFは本気でシティグループへの出資を考えるべきかもしれない。自己資本不足の解消によって世界を暗雲で覆う現代金融問題が解決するならば、そんな荒療治であっても許されるのではないか。

筆者は、究極の商業銀行問題は自己資本不足ではないと思っている。「預金で貸出する」ビジネス・モデルはどう見ても脆弱である、というのがその基本認識にあるからである。資本を多少増強したからといって、そのモデルにおける耐震構造が急激に改善する訳ではない。しかしながら、よく提示されるナロー・バンクという処方箋1は、現実的に合意を得るのが難しい。

100%返済することを前提とした預金で「リスク・テイク」をするのは筋違いである。10年前から馬鹿な評論家は口を揃えて「日本の銀行はリスク・テイクしない」とステレオ・タイプに批判していたが、リスク・テイクしないのは銀行の本来業務である。だから担保を取る。問題は、その担保価値に対する哲学が欠けていることである。

日本の不良債権問題は、不動産の担保価値を利用価値ではなく単なる市場の交換価値に置いてしまったことに起因する。欧米のサブプライム問題も、資産担保証券の担保価値を、計算上の交換価値で計ってしまったことによる。ともに「価値観の喪失」が原因なのである。担保はあった筈なのに、その価値がある日突然に忽然と消えてしまったのだ。

つまり内外の商業銀行は、形式・結果はどうであれ、思考過程としてはリスク・テイクしていたのではない。サブプライム問題も然りである。事業価値の計算が不得意な銀行は、所詮担保価値にすがるしかないのだ。それは、古今東西を問わず、銀行の歴史そのものである。その延長に現代を据えてみれば、経済規模の拡大によって総負債が本来の担保価値を超えてしまったため、銀行という受け皿だけではその資産が抱えきれなくなった、ということなのだ。

この状態で、100%返済を求められる預金と多少の資本によって急膨張した資産を銀行だけで保有せよ、という方が間違っている。だからノンバンクやファンドが現れたのであり、そのカタリストとして証券化が生まれたのだ。このトレンドを壊してはならない。

◆ だから証券化

議論を整理しよう。以前は不動産を中心に100という担保価値があり、これをもとに銀行は100の貸付を行って、経済社会は余剰価値を生んできた。富の増加によって生産性も高まり、担保価値は120へと増え、銀行は貸出を増やすという好循環になる。ここで市場は土地など資産価値の上昇を通じて先食いを始める。担保価値は150に増えたが、交換価値は200になる。これを見て銀行が200の貸出を行うのでバブルになる。

本来、リスク・テイクを許されない銀行は貸出を150で停止すべだったのである。足りない50は、リスク・テイカーに任せればよい。それがノンバンクやファンドの仕事である。彼らが失敗するとは限らない。バブルはいつ破裂するか誰にも解らないからだ。アニマル・スピリットが発揮され、リスク・テイカーはそれなりの利潤を得るだろう。但しそこは商業銀行の出番ではない。

だが、銀行も150で貸出停止したからといって安全は保証されない。景気循環によって、担保価値が130へと減少することもあるからだ。だから自己資本が必要なのだが、資本だけでは心もとない。理想的な経営は、担保価値が130へと低下することに対して予め予防策を張ることだ。それが証券化の本来の姿なのである。

銀行による証券化は、自己資本比率向上のために導入されたと言われるが、直接的動機がその計算上のものであったとしても、より正確には「預金・貸出モデル」の脆弱さを補強するものだ、と言うべきだろう。自己資本の適正水準とは、保有資産から計算されるものではなく、担保価値を出発点にして計算すべきものである。

本誌は先般遂に300号を越えたが、いま思えば第1号を発刊した頃は資産のプライシングの必要性を主張しようと躍起になっていた。だが銀行資産は事業価値であると同時に、或いはそれ以前に担保価値であると言っても良い。無担保債券などは希少な存在であり、経済の大部分の資産額とは有形・無形の担保価値の総計なのである。クレジット・プライシングとは、むしろコラテラル・プライシングと言うべきかもしれない。

話が脱線したが、銀行が「預金・貸出モデル」を捨てられないとすれば、経営戦略としては自己資本増強とともに証券化を進める以外にないだろう。現在、前者のみが強調されすぎている嫌いがある。資本は有限資源であり、経営はそれに依存する訳にはいかない。レバレッジを抑えた適切な証券化を通じて、銀行は保有資産を回転させて、新たな資金重要に応じねばならない。それが出来ないならば現代の銀行制度は捨てられねばならない。

証券化市場を育成することこそ、日本の企業金融を支援する究極の策である。そのためには担保価値をどう捉えるか、真剣な再検討が求められる。土地の経済学なしに証券化市場を再建させることは難しい。このチャレンジなしに、日本の商業銀行復活は有り得ないだろう。

2009年10月16日(第206号)