HOME > 2009

◆ 不動産プライシング

◆ 計算根拠の不思議

「世の中で何が一番信じられるか」といった質問には、大人になるほど答えたがらぬものである。ホリエモンみたいにお金と言えば世俗っぽいし、鳩山首相のように友愛だと言えば偽善者だと疑われる。家族というのも面映い。自分自身しかありません、などというのも厭世的だ。まあ「一番」を問う設問自体が悪いのである。信じるものと信じられないものが峻別できれのならば、それで十分だろう。

投資も同じである。信じるものとそうでないものを区別し、信じるものの中でその度合いに応じて配分すればよい。だが存在自体が信じられたとしても、そのプライシングの根拠が解らなければ意味がない。その意味で、筆者にとっては骨董品というのが一番解らない。ITバブルの頃、かのウォレン・バフェット氏は「解らぬものには投資しない」とノタマワッタが、蓋し名言だ。

次に解らないのが実は土地である。有価証券のプライシングも見掛けほどに堅牢ではないのだが、不動産のプライシングはそれ以上に眉唾である。Cap Rateを使った収益還元法の概念は理解できるが、Cap Rateの本当の意味が良く解らないからである。

信用リスクを割り引くためのDiscount Rateは、Risk Premiumから演繹できるが、そのプレミアム自身は倒産確率と回収率の関数であり、厳密な計算は不可能だとは言うものの、とりあえず経験則的なデータは存在する。従って、理論値を導き出す作業には一定の割り切りが出来る(もっとも複雑な証券化商品は例外である)。

一方の不動産におけるCap Rateはどうだろう。これは具体的な収益予測以外にも市場観測が可能である、と言われる。だからこそ不動産市場は、取引事例比較から収益還元へと評価方法が変わっていったのだろう。但し、Cap RateとRisk Free Rateの差が理論的に何を意味するのかが実はよく解らないのである。

その疑問が、最近さらに増幅した。ある会議で、昨今のJ-REIT市場における各投資法人保有の不動産ポートフォリオの定期的な評価見直しに関し、不動産鑑定士の評価価格がもっぱら「投資家調査」によって行われている、と聞いて唖然としたのである。

鑑定士とはモノの値段を「眼力」で鑑定する資格を持った「技術者」の筈だ。相当額のおカネを支払ってその鑑定士に依頼する評価価格が「投資家調査」とはいったい何事だろう。そんなアンケートなら中学生にだって出来るじゃないか、と席上で興奮しながら批判したら、そうなんですけど最近は市場が冷え込んで取引事例もないので仕方ないのです、という答えが返ってきた。不動産市場とはそんなものなのだろうか。

◆ プライシングの弱点

不良債権時代、整理回収機構が邦銀から不良債権を買い取るに当たって、その価格が正当かどうかを判定する委員会の委員を5年間ほど務めたことがある。膨大な資料を前にして何時間も議論したことがあった。その際に最も多かったのが不動産担保融資であり、その買取価格は殆ど不動産取引価格と同義であった。

その際に参考にしたのは、不動産鑑定士の評価価格である。勿論、その価格は参考価格であって、そこに様々な評価要素を組み込んで購入価格を計算するのだが、鑑定士の価格算定根拠は殆どが収益還元法であった。だから不動産市場の素人である筆者は、J-REITだろうがなんだろうが、不動産はCap Rateという「プロが認める利回り」が存在すると理解していたのである。

だが前述した会議で、現在の市場における「プロが認める利回り」とは投資家が買いたいと思う利回り、つまりIndicative Bid Rateに過ぎないことが解った。市場価格でもなく、理論値でもなく、「流動性の乏しい市場でのビッド」という現実離れした価格で評価が行われるということである。その投資家調査に参加したある企業の責任者にこっそり聞いたところ、まさかあんなものが評価に使われているとは知らなかった、と述べていた。投資家として買いたい価格を書け、というので、こんなご時勢なので猛烈に保守的な価格を買いて出した、というのである。それが上場商品の評価価格に堂々と用いられるのだ。

但し、真相が何であれ鑑定士が出した鑑定には文句は言えない。権威付けされた価格が市場に受容される。その情報を元に様々な金融商品はプライシングされるのだ。だが市場に映し出されたこのプライシングは価値を正確に反映した実像ではない。壊れた鏡に映った虚像なのである。だが虚像は実像として語られる。鏡の歪みに気付かない投資家は騙される。米国金融機関の不良債権問題が封印されて、気付かぬ投資家が増資資金を提供するのは、反対のケースであるが、壊れた鏡という意味では同じである。

一般論として、真実が暴かれないのであれば仕方がない、という考え方もある。騙された方が幸せだ、という刹那主義もあろう。だが、それは資本市場では許されないことである。

米国不動産ファイナンス市場に資産流動化専門のPanel Groupというコンサル会社があり、そのヘッドを努めるElena Panaritis女史という専門家がいる。世銀勤務の経験もあり、Wharton SchoolやJohns Hopkins大学でも教鞭を取る才女のようだ。彼女が書いた一文に「今回の証券化問題において、誰も不動産プライシングに基本的欠陥があることを指摘しないことは最大の問題である」という文章がある。これはあるブログで見つけたものだが、目から鱗であった。

彼女は、米国の不動産プライシング・メカニズムが崩壊していると述べている。原資産の価格根拠が崩れていれば、CDSだろうが証券化だろうが、その価格も根拠レスである。それが危機の本質であり、それが再構築されなければ市場も回復しない。市場化が最も進んだはずの米国市場でこれである。日本は推して知るべし、ということなのだろうか。

Panaritis女史は「制度学派」によるアプローチの重要性を主張しているが、それはさておき、不動産の利用価値に基づいた交換価値を求めるための施策がよりグローバルな形で行われない限り、不動産の証券化という商品設計も現在直面している壁を乗り越えることは難しいかもしれない。例に挙げたJ-REITの評価問題は壁に突き当たった一つの現象に過ぎない。

プライシングとは「言うは易し」の世界である。有価証券にも問題がある。不動産にも問題がある。だから不動産の証券化に問題が無い筈がない。この原点に立ち返って、まずは鑑定士だけでなく、業界や学界を挙げて、不動産プライシングを徹底的に見直す必要があろう。ある友人の言葉を借りるなら「不動産は経済連鎖の原点」なのだから。

2009年10月30日(第207号)