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◆ 認識主体としての金融市場

◆ 実体経済と株式市場の位置

本年の内外株式市場ほど、見事に多数の人々の予想を裏切ったものはない。ファンダメンタルズ議論が通りにくい為替市場では、ドル安懸念に対してドルが上昇することはよくあるが、株式市場はより実体経済を反映するものと見做されるので、景気見通しと株価動向が大幅にズレることは少ない。

だが、悲観論一色だった本年の相場は、中国市場の反転に始まって米国も転換、日本を含む他諸国も半信半疑のままで上昇相場を迎えることになった。まだ1か月余を残してはいるが、年初に怯えたような暴落シナリオを説く人は殆ど居ない。だが、実体経済が本当に回復したとは思えない。景気後退を脱したと言われる米国では「Job-less Recovery」との言葉が定着しているが、筆者は「Hope-less Recovery」だと考える。海外のブログなどでは「Job-loss Recover」だと言う人もいる。

株式市場は経済回復を先取りしているというのは一つの伝統的解釈であるが、今回はむしろ作られた相場だと考えることも出来る。演出は米国のSGBトリオである。これが誰を指しているかは、本誌の読者ならば容易にお判りであろう。米国経済が「株式本位制」に支えられた社会であることを、誰よりも良く解っているのがこのトリオなのだ。

金融市場で働く人々は、SGBトリオが本当に米国経済を救ったと考えているが、彼等が救った「本丸」は株式市場であり、それゆえに資産価格が回復して、上昇すべき貯蓄率が再び下落に向かったのである。よって企業業績も好調だ。米国の経済回復とは「構造改革不要」という米国の本音に他ならないのだ。

だがこういう解釈は一般的に「陰謀説」として退けられる。よって、この話に深入りすることも避けよう。それよりも、一般論として株式市場を通じて経済実態を把握する危険性に眼を転じることにしよう。筆者は国債市場などにおける現代市場の政策批判力の低下を嘆いてきたが、米国株には特にその傾向が強まっている。本年3月以降の株価上昇は、2007年10月の高値更新と全く同じとは言わないが、似たような雰囲気を醸成しつつある。

だが市場を否定しても仕方ない。市場は市場である。重要なのは市場を通じて世界を見ないことである。市場も世界を見ている一つの認識主体に過ぎないことが解れば、特定の市場を通じて社会を理解することの危険性を感じることが出来るだろう。

筆者は市場で生まれ育ち、20数年間の学習の後、卒業して市場を観察する場に立った。そこで解ったのは、市場の見方とは現実認識の一方法でしかないということだ。認識主体が世界に無数存在する中にあって、市場とはその一つに過ぎない。そしてその主体は、経済メディアが煽るような「神の視座」でも何でもないのである。

◆ 市場は語り、我も語る

実体経済をカントが言う「もの自体」に見立てれば、株式市場はそれを認識する高度な主体であり、市場の感性が高まるにつれてその視点は絶対的な存在へと近づいていく。市場周辺で働く人々は、市場にその役割を期待し市場が経済を写す鏡として機能する夢を描いている筈である。

だが、ニーチェはその「神」は死んだと述べた。神の座を占める認識の主体などありはしないことを、「ツァラトゥストラ」に言わしめたニーチェは、認識主体は相対的なものに過ぎないことを100年も前に我々に示していたのもかかわらず、現代人は未だにその「神」の存在を追いかけているのである。

株式市場とは相対的な認識主体の一つに過ぎないのである。当局者が株価を重視して政策決定することがどれほど社会像を歪めることになるか、想像に難くない。株式市場も為替市場も、そして社債もCDSも並列的な市場に過ぎない。勿論、社債市場が悲鳴を上げれば大企業の資金調達は凍りつくが、銀行融資という別の相対的存在がこれを埋めることは出来る。

ニーチェは「神の死」から「超人思想」へと辿り着いたが、市場に「超人」を望むことは不可能だろう。市場が不完全な認識主体であることを踏まえた上で、システムの不備を補強することしか我々に出来ることはないだろう。「神の不在」において、金融機関は淘汰が不可避の規模に分割・縮小されることを要求されるのだ。

昨今、欧米では金融危機再来を回避する為の方策を考える際に資本増強という形で「神の復権」を追い求めているが、「預金・貸出モデル」と「融資・投機の並存」を踏襲したままで、資本増強が万全の策になるとはとても思えない。

特に米当局は、いまだに「絶対的な認識主体」としての株式市場の存在を信じているとしか思えない。株価上昇を通じた、資本家による資本提供期待、銀行の収益力回復期待、実体経済での投資・消費増大期待、そしてそれが呼び込む更なる株価上昇のサイクルである。

過剰債務というバランスシート上の問題が存在しない古典的社会であれば、まだ救いの道はあっただろう。残念ながら、米国では国家、金融、個人すべてが過大な債務を背負っている。他の先進国でも、似たような状況が観察されている。

日本を含めて世界の経済実態は大きな危機に晒されたままである。米国が日本と同様の長期的な経済低迷に直面することは避けられない可能性が高い。株式市場を見る限り、そんなシナリオは反映されていない、との反論もあろうが、それは株式市場が潜在リスクを反映できない相対的存在でしかないからである。

認識主体は相対なのだ。ということは、「もの自身」も実は相対なのである。従って、一部の認識主体の視点で全体像を見ているという錯覚だけでなく、どこから見ても本質は探れないという諦観も必要になる。だからこそ、金融・経済危機はいつの日か必ず再現されるのである。

2009年11月13日(第208号)