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◆ デフォルト国家から金融救済主へ

◆ 金融救済額は14兆ドル

昨年来、米国などの金融救済がどの程度まで膨らむのかを割りと真面目にトレースしていたのだが、複雑になってきたので途中でギブアップしてしまった。欧米当局が不良資産問題に蓋をし、メディアもその攻撃の矛先を緩め、市場も問題先送り歓迎のムードを呈するようになったので、馬鹿馬鹿しくなって止めた、という厭世気分も多少はある。

だが中銀筋にはきちんと分析を続ける人がいる。先月公表された英国中銀の「Banking On the State」という報告書は、英米そしてユーロ圏において昨年来どれだけの政府支援がなされたかを整理している。その資料に拠れば、これまでの支援額は14兆ドル以上で、世界全体のGDPの約25%に相当するという。

国・地域別では英国の金融総支援はGDPの74%、米国は73%、ユーロ圏は18%となっており、あらためてアングロ・サクソン系の金融支援の凄さが解る。実額ベースの内訳は下記の表の通りである。

欧米大手金融機関の中には早期に公的資金を返済しようとやや無理をし始めたところもある。その是非は置いて、全体の金融システムとしてみれば、こうした国家支援なしに自力再生するにはまだ数年、或いは10年程度必要だろう。日本のように10年経過してもまだ公的資金が完済されないどころか、新たな公的支援を必要としている例を見れば、欧米も似たような状況に陥る可能性は高い。

つまり、2008年を契機として、世界は国家関与なしに金融システムの安定が図れない世界に突入したと見ることも出来るだろう。金融史上、2008年はリーマン・ショックというよりも現代国家が金融救済機関になったエポック・メイキングな年として記憶されることになるだろう。

だが歴史を紐解けばすぐわかるように、数百年前までは銀行が国家を救済していたのであった。14世紀、英国のエドワード3世が100年戦争の発端となるフランス侵攻で失敗、イタリアの銀行からの巨額の借金をデフォルトして有力なバルディ家やペルッツィ家が破綻し、メディチ家の台頭を促したのは有名な話だ。だがいったい、この国家と銀行の関係の「見事な逆転」は、どこでどのように起こったのだろうか。

◆ 徴税、借金、そして紙幣濫発

中世国家は当初、徴税によって財政を賄っており、戦争が拡大するたびに税率を無限に上げていった。その徴税の厳しさは、1215年に英国ジョン王が貴族からの猛烈な批判で「マグナ・カルタ」に署名させられたことを見ればわかる。当時、絶対的な権力に反発するのは余程のことであった筈だ。あの歴史的な大憲章は、立派な国王が発布したものではなく、最悪の国王から生まれたものなのだ。

こうして国王による勝手な徴税は難しくなる(もっともマグナ・カルタはたびたび無視されたが)。となれば、国が考えるのは古今東西同じであって、民間から借り入れるよりほかはない。戦争に勝って返せばよいのだ(この戦法は現代社会にも受け継がれている)。

エドワード3世はその典型だが、それ以降の英国王や他国の王室も似たような状況であった筈だ。各国は、借金しながら世界史に絶え間なく繰り広げられる戦争を繰り返していたのである。国家は民間銀行によって支えられ、そして時には民間銀行を破滅させていった。

その構図に変化を与えたのがイングランド銀行(Bank of England)の設立であった。世界初の中銀といえば議会の監督下で運営されることになった1668年のスウェーデン中銀であるが、中央組織として紙幣発行を世界で最初に始めたのは、名誉革命でお馴染みのオレンジ公ウィリアム(ウィリアム3世)が1694年に特許を与えたBOE、即ち今で言う英国中銀である。

BOEは、当時のファルツ継承戦争(アウグスブルグ同盟戦争)の戦費を賄う為に設立されたものであり、1693年に導入された国債制度を支えるのがその役割であった。つまり英国は、国家財政を徴税でも民間借入れでもなく、中央銀行という新たな組織から借り入れるという仕組みを作ったのだ。教科書はこれを「財政革命」と呼ぶが、実態的には「国家的錬金術の発明」である。

現在でも中銀による国債買い入れという操作は日常茶飯事であるが、その資金はどこから出ているのか、我々はあまり考えることもない。中銀による国債購入は、いわば中銀と国とのキャッチボールであり、民間からすればまさに「無から有を生じる」作業である。銀行から株や社債を購入してマネーを創造することも可能になった。現代ではそんなバブル・マネーをオブラートに包むように「流動性」と言ったりする。

こうして国家は、新たな資金源を手に入れた。富の源泉を、税金を生む民間だけでなく自分自身の中にも見つけたのである。勿論、国債は国の債務として認識・管理され、その数字を誤魔化すことは難しい。無防備に拡大させれば民間市場が警戒する。だが、その民間が困ったときにはその新しい工作機械を稼動させればよいことに気付く。その救済の代表例である銀行支援の必要性と可能性について、現代的かつ論理的な認識を示したのはかのウォルター・バジョットであったが、その論法は米国によって破壊されつつある。

国家による民間救済力は、金本位制を捨てることによってさらに増強されていく。紙幣量はインフレさえ起こさなければ幾らでも増刷可能であることをFRBのグリーンスパン前議長は見抜き、バーナンキ議長がいまその限界に挑戦している。我々は、否応なしにその怪しい実験台に乗せられているのだ。

国家は救済される立場から救済する立場へと華麗なる変身を遂げた。だがそれが永遠の姿だという保証はない。国家がいつか再び救済される立場へと転落する可能性が無いとはいえない。国家を救済するなど自分の知ったことか、と反発すれば国民は富だと思っている豊かさ(紙幣価値)を失うというジレンマに陥る。憂鬱な「金融未来」である。

折角の年末をこんな暗い話で締めくくることをお許し頂きたいが、おカネにまつわる不可思議が結構、頭の体操になるのも事実である。お正月、子供や姪・甥らにお年玉を上げる際に、その紙切れがどんなものなのか、自分なりの薀蓄を語ってあげるのも一興かも知れぬ。

2009年12月25日(第211号)