HOME > 2010

◆ 「政策」にすがりつく現代経済

◆ 花見酒の現代経済

ほぼ半世紀前となる1962年、笠信太郎氏が「花見酒の経済」という書を著して、高度成長に浮かれる日本経済の姿に疑問を呈した。この成長の実態とは何であるか。笠氏は、それを古典落語の「花見酒」に模して、統計上の成長と実体経済のずれを喝破したのであった。この視点は、株価やGDPが経済の健全性から遊離することが日常茶飯事になった今、さらに新鮮さを増しているように思える。

笠信太郎氏はこの落語にひっかけて、1960年代の日本経済の高度成長を疑った。地価の高騰や信用の膨張によって、たいした付加価値を生み出していないのに数値上は経済成長しているように見える錯覚を鋭く指摘したものである。今ではこれをバブル発生の説明に使う人もいるが、笠氏の視点はバブルというよりも「信用貨幣経済における成長の本質」に置かれていると見るべきである。

現代社会に置換すれば、米国のように金融・財政フル回転による地価安定・株価上昇で健全な経済を取り戻していると思い込む錯覚がそれに当たる。中国経済もそうかもしれない。成長の本質は地価や株価などによって表されるものではなく、GDPによって証明されるものではない。さらに突っ込めば、花見酒の経済談義は、貨幣を操る金融・財政政策という麻酔薬を絶え間なく投与され続けて成長したような気分になっている病んだ現代精神を問う視点である、ということも出来るだろう(残念ながら、この書は原本も再版本も在庫切れなので中古本を探すしかない)。

◆ 落語「花見酒」

桜の満開の頃、銭が一銭もない熊さんと辰つぁんの二人が茶碗一杯を五銭で売ろうと相談した。近所の酒屋へ頼んで、酒三升、樽、柄杓、茶碗、天秤、縄、そして、釣り銭として五銭玉一つをそっくり借りた。

「たまらねえよ、兄貴。ちょいとだけ、飲ましてくれねえかな」

「馬鹿なことを言うな、この酒は商売ものだ」

「じゃ兄貴、俺が買うのなら売ってくれるだろ。俺は五銭玉持っているから、それで買うよ」

「いいだろう。商売だ。だれに売っても同じだ。」

「じゃ、俺は客になるぜ。忘れないうちに五銭払うよ」

「確かに頂戴しました。茶碗をしっかり持ってろよ。」

「ああありがてぇ。匂いだけじゃ、つらいからね。五銭玉持っててよかったよ。ああ、うめえ」

「辰公よ。そんなに旨そうに飲むなよ。ちょいと俺にも飲ませてくれねえかな」

「客のものをたかるってのはいけないよ、兄貴。これは俺が買ったんだから」

「だから、今度は俺が買うよ。五銭玉を持ってんだから」

「ああ、そうか。兄貴も買うのか。だれに売っても商売だ。」

「じゃ、五銭払うよ。先払いだ」

「確かに。へい、ありがとう存じます。」

こんなやり取りが何度か続くのである。

「兄貴、兄貴よ。寝てる場合じゃない。起きておくれ」

「どうしたい。飲み逃げか」

「そうじゃない。売り切れになっちゃった」

「売り切れ?ずいぶん早いな。」

「アッという間もなかった。最初の客が来たときには遅かった。もう、売り切れ」

「そうか。お前の腕がいいんだな。じゃ、売上を勘定しよう。出してみろ」

「あいよ。兄貴。おとすといけねえから、手を出してくれ」

「なんだい、五銭玉一つだな」

「そうだよ。兄貴は計算がうまい」

「おい、お前を疑うわけじゃねえが、酒がなくて、五銭玉一つとはどういうわけだ」

「最初に俺が五銭玉持ってたから、『買うよ』って言ったら、兄貴は売ってくれたな」

「うん」

「そのあと、兄貴が『買いたい』と言うから、俺は売ったよ」

「うん」

「そのあとも、二人が代わりばんこに買ったり売ったり、買ったり売ったり。そのたんびに五銭玉が行ったり来り、行ったり来り。そのうちに、酒がなくなったと、こういうわけさ」

「なるほど。じゃあ、五銭玉一つで、二人が三升の酒を飲んだのか」

「そういうこと」

「ありがてえ。安い酒を飲んだもんだ。」

◆ 金融・財政の「政府酒」

今日、経済低迷は政府・日銀の失策だとして、執拗に財政支出や量的緩和の必要性を主張する現代社会は、花見酒が足りなくなったと暴力を振るいだした世話の焼ける酔っ払いと似たようなものだ。その光景は、売る筈だった三升酒をお互いにカネを払いながら自分達で飲み干して儲けたような気分になっている落語の二人の主役よりも始末が悪いかもしれない。

株価が下がれば政府の無策を指摘し、デフレだといえば日銀に更なる緩和策を求めるのは、現代日本に(あるいは海外も含めた現代社会に)特有の無責任病である。メディアも政治家も評論家もそして一部の企業経営までもがその疾病に囚われているが、全く自覚症状が無いことにも呆然とさせられる。何でも政策がないと気がすまないのは、政策という「政府酒」に溺れたアル中が「酒よこせ」と叫んでいる姿そのものなのである。

金融政策や財政政策が無駄だという暴論を吐こうとは思わない。信用社会に生きている限り、そしてその恩恵に与っている限り、適切な金利操作や流動性対策があってもらわねばならぬ。景気循環の中で民間需要によって埋められない一時的な溝を政府支出が補うことは、資本主義国家にとっての宿命である。税金という、国民に売却したオプション代金を受け取った国家による義務の側面と言ってもよい。たまには赤字国債を発行することも許されよう。

こうした適量の「政府酒」はむしろ健康な経済を維持する。私の友人のようにワイン2杯くらいなら飲まないよりは健康に良いんだよ、という寛容な医者もいるくらいだから、経済も似たようなものだろう、と勝手なアナロジーを働かせてみる。それは強引な我田引水かもしれないが、経済にはムードやブームのような心理的昂揚が必要であることは否定出来まい。鬱病だらけでは、デフレは解消し得ないのだ。

だが酒飲みが何度も経験するように、適量が限界を過ぎれば健康は大きく損なわれる。昨年のメルマガにも書いたように、耐久財に乏しかった1930年代の財政政策が、耐久財に囲まれた21世紀にまだ適用できると思い込んでケインジアンや、マネーの量は神に代わって人を救うと信じ込んでいるマネタリストは、適量を超えることに対する警戒感が足りなさ過ぎる。

悪いことに、その中にはむしろアルコール漬けにしておいた方が幸せだと思い込んでいる人(或いは思い込ませようとする人)もいるようだ。数理統計的には、二日酔いで苦しむよりも酒漬けの方がGDPは回復するからである。日本経済はそんな道を目指すべきなのだろうか。

お屠蘇気分から醒めた目で内外識者たちの経済言論を眺めてみると、彼等のガンマGTPは相当高そうだ、と気づく。日本経済の二日酔いならぬ「二十年酔い」はそろそろ醒めるべき頃だが、残念ながら経済政策としての逆ショック療法はご法度であり、政府酒中毒はおそらく21世紀の経済構造として定着するだろう。だが肝心の政府酒も、いつかは在庫切れになる。花見酒の経済は、永久機関ではないのである。

2010年1月15日(第212号)