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◆「走・攻・守」の経済モデル

◆ 外れる長期見通し

ある酒の席で物識りの知人が語るには、戦後間もない頃に米国の著名な機関投資家が投資戦略を立てた際に注目したのはアジア経済であった、という。その中では当然国別の分析が行われる。株式見通しの中で、どの国がベストと判断されたと思うか、と聞かれてはたと考え込んだ。

勿論、結果論で言えば日本である。戦前の日本の経済力や戦後の米国における対日政策を考えれば、日本という予想が立てられてその通りになった、と推測するのは一つの手であるが、クセあるその知人がそんな簡単な問い掛けをする筈も無い。ちょっと頭を捻って台湾と答えたのだが、完全に外してしまった。彼が言うのには、フィリピンが一位で日本は何と最下位であったらしい。

かの知人はその分析内容までは詳しく語らなかったが、フィリピンが米国の植民地であったことからくる政治的判断が背景にあったことは想像に難くない。また戦後はフィリピンの主要産業である農業が重要な時期でもあった。その一方で、日本は焼け野原となり産業は壊滅、反日感情も強く、投資家からそっぽを向かれていたとしても不思議ではない。だがその投資判断は見事なまでに崩れてしまった。時代の変わり目の予想とは、得てしてこのようなものである。

いま、まさに時代の変わり目から新興国が注目され、誰もが長期的に中国経済が米国経済とともに楕円構造の二つの重心になると考えている。その過程で日本は弾き出される存在、或いは忘れ去られる存在として、一時は大国として輝いたことのある英国やオランダ、スペイン、ポルトガルのような落日国家として揶揄されがちである。GDPで中国に抜かれる、という報道もそんな雰囲気に拍車を掛けている。

だが、米国投資家の戦後予想が全く的外れであったように、こうした予測が当たらない可能性もある。むしろ、全員の合意や長期予想など当てにならぬものだという市場のアナロジーからすれば、現在の雰囲気だけに定規を当てて延長線を引き、チャート占いよろしく経済構造を予測するのはたいして意味がないかもしれない。

もちろん、中国経済に期待するのは理由がある。工業力、労働力、資本などの各側面において資本主義国が成熟へ向かう要素が揃っているからだ。購買力がまだ弱い中で割賦販売や消費者金融という金融浮力を備えれば、経済力は上昇するだろう。日本経済は、その重力を使って旋回すれば良い。そうなればWin-Win構造が達成され、名実ともにアジアの時代が来るだろう。

だが、それも結局は現在から単純に演繹された世界観でしかない。そもそも一人当たりGDPが3,000-8,000ドルの範囲に入るとその国の経済成長速度は大幅に鈍化して社会紛争が多発すると言われている。中国は2008年に3,000ドルを超えた。そもそも富や所得の配分組織がない中国に、格差社会を是正するシステムは無い。これは、リスク要因としては決して小さくないと思われるのだ。

◆ 経済の三拍子

米国もダメ、中国もダメ、では日本のみならず世界経済の立つ瀬が無いが、そこまで悲観的になる必要は無い。翻って、日本経済の強みは何だったのかと考えて見る。一つは優れた技術力であり、もう一つは豊富な個人貯蓄である。前者は輸出として、後者は資本として内外で稼げる資源だ。さらにサービスの質も卓越している。そんな強力なシフトウェアを三つも持っている国は他にはない。その強さを我々はすっかり忘れている。

民主党が政権を取って以来、「成長戦略がない」というメディアの論調や、「日本パッシング」を続ける米国の戦略に、我々はすっかり自信を無くしてしまった。成長戦略は民主党が考えるものでなく、ビジネスに携わる我々が考えるべき問題だ。米国の日本軽視は、日本が対等な関係を欲することに対する傲慢ともいえる不満の表明である。こうした雑音を振り払い、冷静に自己再評価をしてみることがいま最も必要だろう。

モノは丹精込めて作るべし、サービスに磨きを掛けるべし、金融はこれをサポートすべし、というのが筆者の結論である。野球で言えば、「走攻守三拍子揃った」名選手である。最近は、講演などでことあるごとにこのフレーズを挙げて「日本は世界経済という舞台でイチローを目指すべし」と話している。勿論、松井選手でも良いのだが、体力・体格的にいえば、米国や中国といった大国に挟まれた日本は、やはりイチロー型が適しているように思える。

野球選手の「走・攻・守」を筆者流のアナロジーで経済に強引に適用すれば、まずバッターとしての攻撃力はモノ作りとしての技術力、内外野の守備力はサービス力、そして走塁のスピードやセンスは金融力である。

日本経済はこれまで攻撃力を生かして輸出という得点を稼いできた。さらに、守備力としてのサービスの質の高さは、海外から評価されてきた。だが金融という走塁に関しては、あまり褒められたことがない。1980年代は必要のないケースで盗塁したり、浅い外野フライでもタッチアップしたりするなど無謀な走塁が祟って自滅した結果、今度は盗塁もタッチアップも出来ない「走れない選手」になってしまった。海外勢はいまや日本の走塁力に対して完全に無警戒であり、牽制球すら投げない始末である。

三拍子揃った経済構造を構築するには、この鈍化した走塁力を回復させねばなるまい。その具体策をここで書き連ねる必要はないだろう。それは本誌の読者が一番良く解かっている筈である。だが残念ながらそれは短期に成就できるものではない。

先日あるパーティで大手邦銀の役員が、「ボルカー・ルール」導入で米国がダメになりそうな今こそ「ボルカー・ルール」の逆をやって日本は反撃すべきだと述べていたが、勘違いも甚だしい。未だに米国的価値観の土俵に上がって米国的戦術で戦おうとするのは時代錯誤以外の何物でもない。まずはこういう役員が淘汰されねばなるまい。

米国の金融は、上記の例に喩えて言うなら、体力にモノを言わせて相手の守備を蹴散らす走塁を誇ってきたようなものだ。そのセンスは「金融恐竜時代の遺物」である。日本はもっとスマートに生きたいものである。

2010年3月26日(第217号)