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◆大手銀行が消える日

◆ 存続する大銀行

銀行は大きいほど安全に見える。金融危機が来れば、人々は預金を大手銀行に移し変えたりするものだ。通常、先進国では預金保険制度が整備されているので、例えば日本では一人当たり10百万円までの預金は保護される仕組みになっている。2008年以降の危機で、ドイツは預金保険対象を無制限にするなど、緊急措置を講じたりもした。だが、政府が国民の全預金を保証することの現実的合理性はゼロに近い。

日本には、感情的には許せないが現実的には銀行救済はやむを得ない、という空気が広がり、「銀行救済必要説」がほぼ通念として受容されている。だが、リーマン・ショックを契機に7,000億ドルもの公的資金を投入した米国では、今回は仕方がなかったが、もう二度と同じことは許さない、という意見が大勢である。大手銀行は公的資金を「博打」に使ったとの批判も、この議論を後押ししている。数年後にゴールドマンやシティグループが再び経営危機に陥ったとしても、米政府・議会が彼等を支援することはないだろう。

欧米では、事前に大型救済を想定した基金を作る案が検討され始めている。他にも、潰れる前に「遺言書」を書いて事前の備えにする案、また危機の際には自動的に株式に転換される債権調達を増やす案、といった方法が遡上に上ってはいるが、最も解りやすくて国民に負担や迷惑を掛けないやり方は、銀行規模を縮小することである。つまり、破綻しても上記のような手法を使ってスムーズに事業を継続することが可能な規模に、銀行を分解するやり方だ。

米財務省やFRBには、「国内的にも対外的にも大規模な銀行は必要だ」と、現在の銀行規模を支持する意見が多いように見受けられる。だが、実際に大銀行が再度経営危機に陥った場合にどうするのか、上下院の法案を見ても、危機を教訓とした防止策が完備されているようには思えない。

◆ ジェファーソンの抵抗

米国経済には「市場重視」「合理的」といったイメージが強く、議会が公的資金注入に強く反発したこと、或いはリーマン破綻という事実もあったことから、金融機関支援には否定的だと思われがちだが、必ずしもそうではない。米国が好んで用いる「競争市場」の観点で言えば、大規模な金融は寡占市場を形成し易いので「非競争的」なのだが、むしろ金融覇権の維持には一定の規模は欠かせない、という判断が透けて見える。

実は米国は建国以来、金融の威力を利用しようとする政治力と、金融の勢力を抑制しようとする政治力がぶつかり合ってきたのである。元IMFチーフ・エコノミストであるサイモン・ジョンソンMIT教授らの著書である極めて興味深い「13 Bankers」から、少し話題を拾ってみよう。

米国独立宣言でお馴染みのトーマス・ジェファーソンは、金融に関しては嫌悪感を抱いており、「銀行は武装兵力よりも危険である」と述べたほど、金融機関を信用していなかった。中央組織としての銀行を設立するなど背信行為だと語った、という逸話も残っている。

一方で、これに強く反対したのがアレックス・ハミルトンであった。彼こそが、中央集権的な政治経済システムが必要だと述べて、経済振興のためには英中銀をモデルとする中央銀行が必要だ、と現代金融モデルの基礎となる見取り図を声高に主張した主役だったのである。

ジェファーソンはワシントン大統領に拒否権を発動するように要請するが、大統領はハミルトンの主張に傾き、第一合衆国銀行が誕生した。その管理の下で、1789年には3行しかなかった銀行が1790年代には28行に増え、1800年からの10年間には更に73行が設立された。それに伴い米国経済も拡張していく。ハミルトンの選択は正解のように見えた。

だが一方で、第一合衆国銀行は徐々に「政治化」する。銀行に対する生殺与奪の権限を持ち始めたのである。それは企業の生存判断を中銀が握ることをも意味していた。これこそが、ジェファーソンが直感的に忌避していた「金融の権力的危険性」であった。それは、2008年にリーマンが破綻しAIGが救済された、ほとんど説明不能の米金融当局の行動原理に重なり合うものである。

第一合衆国銀行の免許は1811年に切れたが、米英戦争を契機に経済・金融危機が発生してやはり中銀が必要だという声が高まり、1816年には第二合衆国銀行が設立される。そのライセンスが切れる4年前に大統領に就任したアンドリュー・ジャクソンは、銀行に対してジェファーソンと同じ警戒感を抱いていた。彼は信用貨幣を「信用」せず、また第二合衆国銀行が政治に口出しすることを嫌った。

「銀行戦争(Bank War)」とも呼ばれる19世紀初頭の金融論争は、ジェファーソンに始まりジャクソンに終わる一連の「銀行嫌い」を勝利に導いた。だがそれは必ずしも経済的損失をもたらした訳ではない。19世紀半ばから20世紀初頭にかけて、世界最大の工業国にのし上がったのは、中銀を持たない米国であった。

但し、鉄道建設や重化学工業などが中心となる新経済システムにおいて、信用は益々重要になってくる。中銀のない米国ではトラスト(企業合同)が勢力を持ち始めた。1897-1904年の間に、4,227社あった米企業は257のトラストに集約され、1904年には318のトラストが全米製造業の40%を握るに至った。トラストの中枢を握るのが金融資本である。その代表がモルガン商会であった。

ジェファーソンの思想を継いだセオドア・ルーズベルト大統領は、20世紀初頭に金融権力として台頭してきたJPモルガンの「トラスト」を解体させている。それは、金融勢力の肥大を恐れて中銀設立を排除した発想と同じであった。だが1907年の恐慌が再び米国の風向きを変え、FRBの設立へと動き始めるのである。有名な1910年11月のジキル島での秘密会議の重要な論点は、破綻銀行を如何に救済するかにあった、という。

結局、金融を封じ込めようというジェファーソン以来の戦略は挫折し、ハミルトン流の金融拡大戦略が生き残った。それが現代にまで息衝いている。危機があるたびに金融の集中が起き、FRBを中心とする金融機能は団結を増していく。規模も拡大する。

2010年現在、四つの商業銀行の総資産7.7兆ドルと二つの投資銀行の総資産1.7兆ドルを足せば、9.4兆ドルであり、リーマン・ショック前よりはかなり減少したとはいえ、6社でGDPの72%という資産規模を保有している。大手金融は潰せない。だがそのコストはもはや誰も負担できない。このシステムはどこか狂っている、としか言いようが無い。

欧米が検討している対応策は、金融システムの安定性確保に一定の効果を挙げるだろう。だが、金融市場に「絶対安全策」などありはしない。そもそも通貨や国債自体の「信任」が剥げ落ちてしまえば、市場がどういう混乱に陥るのか誰にも予想不能である。格付け会社のトリプルAが一種の「神話」に過ぎないように、金融の絶対的安定を担保する政策などありはしないのだ。

日本を含めた先進国において、金融機関の絶対規模見直しに着手する日はいずれ来るだろう。それが財政危機と表裏一体の問題として、米国危機の第一幕、欧州危機の第二幕に続く、危機第三幕の大きなテーマになることは、恐らく間違いないだろう。

2010年5月28日(第221号)