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◆知的ゲームの終焉

◆ 変わらない金融

米国では漸く金融規制改革法案が上下院で可決され、オバマ大統領が署名して成立の運びとなった。だが、その内容は「Too Big To Fail」の議論を避け、さらにボルカー・ルールを緩める形で、大手金融に優しいものとなった。勿論、影響が無いではなく、ファンド出資の制約などでゴールドマンを中心に収益源泉が縮小することは明らかだが、それでも収益が10%減程度で済むのなら、瀕死の状態から政府による救済で生き延びた業界にとっては「かすり傷」みたいなものであろう。

問題解決へのプロセスが、議論の細分化と合意成立への焦り、そして利害関係者調整の難しさなどから、その道筋が次第に本道から外れてしまうのはよくある話だ。日本の道路公団問題が、民営化推進委員の質の怪しさも手伝って、迷走したのは記憶に新しい。米国の金融規制論議も、システム安定の為には大規模金融の粛清こそが必要であったにもかかわらず、逆に業界寡占化を強化する可能性も指摘されるような改革に変質してしまった。

米議会や保守的メディアからは、「グラス・スティーガル法」に匹敵する「ドッド・フランク法」だと賞賛する声もあるが、まあ中間選挙向けのポーズくらいに捉えておいた方が良いだろう。大手金融機関は、貢献度の高かったロビイストから報酬引き上げを要求されるかもしれない。結局、危機を誘引した米金融経営は変わらないし、変われないし、変えようともしないだろう。金融の、金融による、金融のための国家は健在である。

それは兎も角。既に何度も指摘されてきたことだが、米金融が理想系の軌道を外れ始めたのは、サブプライム・ローンの急増と無縁ではない。そこにCDSとCLOが大きな役割を果たしたことも周知の通りだ。だがなぜその一部的現象が世界経済を揺るがすことになったのだろうか。その点についてはこれまで、無謀なリスクを取る投資家と、それを手助けする投資銀行や格付け会社を中心にして語られてきた。

だが、ある友人に薦められてWSJ紙のGreg Zuckerman記者が書いた「The Greatest Trade Ever」という本を読んで、別の視点も浮き上がってきた。それは、John Paulson氏など、住宅市況は異常と見て、投資家と反対のポジションを積極的に積み上げてきた、プロテクションの買い手としてのヘッジ・ファンドらの存在である。

同氏が率いるPaulson & Coというヘッジ・ファンドが、Sub-Prime問題で巨額の利益を上げたことはよく知られている。同書は、Paulson氏だけでなく、住宅市況の異常さに気付いて逆張りを始めた他の人々にも焦点を当て、それぞれが異なる運用人生の結末を迎えたストーリーを紹介している。皆が必ずしも成功した訳ではなかった。Paulson氏ですら、最終的にSub-Prime戦略では成功を収めるが、それまでは失敗の連続であった。

そんな内容だけで十分面白いのだが、同時に、Paulson氏らが逆張りを積極化させることにより、反対ポジションを取らされた投資銀行らがそれを「掃き出す」為に、CLOなどを通じて投資家を利用する構図も浮き彫りになる。価値のない証券が市場に積み上がった背景には、証券の買い手ではなくむしろ売り手としてのヘッジ・ファンドからの猛烈な投機的エネルギーと、それを投資商品に置き換える投資銀行・格付けの知的エネルギーの融合、という面もあったのだ。

◆ 変質した知的エネルギー

当世、金融における知的エネルギーなどと公然と語った日には猛烈な反論を食らうのは火を見るより明らかだ。だから、一般メディアではこうした表現はなかなか使えない。ただ、筆者にも1980年代から商品開発に携わってきた自負がある。デリバティブズも証券化もCDSも、間違いなく知的ゲームであった。そして、誤解を恐れずに言えば、それらは一部の関係者に止めておくべき領域であった。

「The Greatest Trade Ever」で知ったのは、Paulson氏をはじめとするモーゲージ関連のCDSの大量の買い手はCDSを殆ど知らない人達であった、という衝撃的な事実であった。そのポジションをどうやって評価するのか、どうやって解消するのか、よく解らないままにリスクを取り続けたというのが実態であった。因みにPaulson氏の得意分野はM&A関連の運用であり、2005年当時はCDSなど見たことも聞いたこともなかった、という。

CDSなどCredit Derivativesを考案し、それらを悪戦苦闘しながら実用品へと仕立ててきた世代からすれば、随分無茶苦茶なことをやってくれたものだという気がする。但しこれには前例がある。ろくにオプションを知らないままに大量のリスクテイクを行って行き詰った機関投資家、スワップは金利差を稼ぐ道具だと勘違いして巨額の損失を計上した企業など、はまさにこの類である。大きく違ったのは、結果論ではあるが、Paulson氏が破綻者ではなく大金持ちになった、ということなのだ。

CDSを知らぬ人間がCDSを大量に買い込み、そのポジションを解消するべく金融機関はせっせと証券化商品を作って販売した。そういう見方も可能なのである。知的エネルギーは、いつのまにかリスク・マネジメントの道を大きく外れてしまったのだ。

スワップは、異なるキャッシュ・フローをどう交換するか、誰と交換するか、を競い合った。オプションは、如何にその行使条件をカスタマイズ出来るか、如何にその複雑な条件を価格に反映させるか、を争った。CDSや証券化もまた、バランスシートを縮小させながらそのポジションを如何に商品設計するか、に知恵を絞る知的格闘技であった。そんな知的ゲームは、21世紀に入ってから完全にルールの違うパワー・プレイになってしまった感がある。

では、その知的ゲームが元に戻ることはあるだろうか。可能性はゼロではないだろうが、その期待値はそれほど高くない。前述したように、金融経営が変わろうとしないからである。不良資産は金庫に詰め込んだまま、不良債権の引き当ても十分積まないまま、巨額ボーナス欲しさにさっさと公的資金を返済するような金融経営者らに、金融技術をリスク・マネジメント業務に押し戻すような技量も度量もなさそうだ。財務省やFRBも、大手金融には蘇生して欲しい、と単純に願い続けている。

拝金エネルギーに置換された知的エネルギーは、今度は新興国市場を新たなターゲットに据える可能性もあろう。結局アングロ・サクソンは、19世紀の帝国主義時代からの搾取方法を戦争から金融に変革した道程から外れることが出来ないのだ。エネルギー保存の法則に従って、知的エネルギーが搾取エネルギーとして活用され続けるとすれば、やはり核兵器と同様に、知的技術はどこかで封じ込められなければならないのである。

2010年7月23日(第225号)