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◆英語を再考する

◆ 出羽の守

本誌寄稿者の多胡秀人氏に拠れば、「欧米では、海外では」と他国の例を挙げて日本のダメさ加減を攻撃する人を「出羽の守(ではのかみ)」と呼ぶそうだ。多胡氏は、そうした出羽の守が日本の金融システムを再検討・再構築する為の大きな弊害になっている、と危惧している。小泉政権時の金融大臣のように、日本の土壌に合わない議論を強引に輸入しようとしても失敗するだけである。

私もメルマガや世界潮流で「海外市場では」と繰り返し使っているので、立派な出羽の守の一人なのかもしれない。確かに日本という特殊性を無視してはならない。健全化のために必要な金融論を歪めてはならない、とつくづく思う。

ただし欧米やアジア・中東で何が起こっているのかといった追跡を停止することは出来ない。今日では、米国などで起きていることが、津波のように日本に悪影響を及ぼすようなことも考えられるからだ。批判的に海外を読む必要性を、いまほど感じる時代はない。

楽天は英語を公用化するらしい。ユニクロも2012年から英語を社内公用語にすることを決めたそうだ。批判的な声も聞こえるが、もはや海外に活路を求めるしかない企業経営は、閉鎖社会に暮らすメディアや評論家などよりよほど現場的な危機感が強いのだろう。

数か月前になるが、不動産証券化協会が開催する「トップセミナー」で講演する機会を頂いたので、金融における英語の必要性という話をしてきた。出羽の守にならぬように、と喋ったつもりだが、口述録をチェックしてみると結構危うい感もする。海外市場をチェックする為には英語が必要だと話しているつもりでも、聞く方からすれば「洋行帰りの英語カブレ」とそれほど違いはないのかもしれない。

私は正直言うと英語が苦手である。英検資格も持っていない。銀行に入った頃、ILCという試験があって1から10まで無情にランク付けされる中、私のグレードは4と判定された。支店の人事担当次長から、これでは海外勤務は勤まらない、と脅された。TOEFLを受けても当時のスコアで550点程度であり、留学試験にもスレスレでこれじゃあ推薦できないとダメ出しを食らった。大学時代、殆ど英語の勉強をしなかったツケが回ってきたのだ。

それでも体力やふてぶてしさを買われたのか、英国に派遣されることになった。そこで初めて眼が醒めた。日系企業相手の商売なら語学力はあまり関係ないが、金融市場は英語が解らないと話にならないからだ。また、英国から香港に飛ばされて日本を間近な距離で客観性を持って見た際に、東京市場の孤立性を強烈に感じたことを覚えている。英米そして中東、香港・シンガポールは英語で繋がっているのに、東京だけが浮いているのだ。ただ、当時の日本はバブル真最中であり、孤立はむしろ特異な拡大傾向を象徴する肯定的な現象のように思えたこともあった。

バブル崩壊後、その孤立は国際金融センター構想の瓦解という虚しい結果を生むことになった。所詮は、日本語と日本円の巨大な田舎市場であったのだ。その構造の局地性を考えないで、GDP世界第二位という題目だけに着目した国際的な金融都市計画など茶番に過ぎないことは、市場を相手に奮闘していた当事者らが一番よく解っていたに違いない。

6-7年ほど前に、当時日銀審議委員であった中原伸之氏と共同で「東京に外貨建て市場の誘引を」と政治的キャンペーンを張ってみたことがあったが、金融界から政界まで見事なまでに反応はゼロであった。これで日本市場の国際化は不可能だ、と悟り、「東京国際化」といった議論の場からは遠慮させてもらうことにした。

◆ 英語での発信力

日本市場の国際化は無理であるとしても、日本経済や日本金融が世界の中での「失われたジグソー・パズルの一片」となっては困る。中国にGDPで抜かれるのは悔しいが、それよりも日本の存在感がどんどん透明化していく方がよほど問題である。日本の発信力の弱さの方が、デフレやGDPよりも深刻である。

グローバリゼーション万歳とまで無邪気なことは言えないにしても、ここまで多極化した国際社会と無極化する国際経済において、世界との結節点を失うことは致命的だ。だがメディアも政治家も本気で海外への発信をしようとしない。ここにも金融と同様に「国際化できないメディアと政治」という構造的弱点が横たわっている。

私には海外市場の情報仕入は出来るが、残念ながら海外市場への発信は出来ない。それは「書く英語力」の無さに尽きる。佐々木高政の「和文英訳の修業」で英作文を鍛えただけでは、海外で読んで貰えるような文章は書けない。お喋りは「ブロークン・イングリッシュ」という世界の共通語で何とかなるが、書き物は「正しい英語」でなければ眺めてもらうことすら出来ない。それが恐らく国際メディアの掟であり、主張発信の常識なのである。

いまや海外の金融市場や各国経済の分析に、ブログ・チェックは欠かせなくなった。金融危機以前は英米の主要メディアをネットで探っていればほぼ状況は把握できたが、2007年以降はブログが必需品となった。

金融ブログのネットワーク、いわば評論的共同体が拡大するにつれて、そこはFT紙やWSJ紙に代わる大きな金融メディア(或いは金融論壇の場)が誕生しようとしているとも言える。そこに、現時点では日本の付け入る隙間はない。独仏や中国も似たような状況であるにしても、それを「仕方が無い」と放置してよいものなのか。

これは、ブログに限定すべき話ではないかもしれない。英語で書かれる海外メディアへの日本人による登場や寄稿が少ないことも気になる。バブル全盛の時代は、先方から取材が殺到した。いまの中国と同じである。たいして努力しないでもメディアが取り上げてくれる。M-1で優勝した漫才コンビのようなものだ。だが、落ち目になると、誰も話題を採り上げてくれなくなる。今の日本がそうである。

日本も売れなくなった芸能人と同じなのだ。メッセージを発信する必要性という点では少なくとも共通したところがある。言わなくても解る、という日本流の解決方法は通用しないのが国際社会である。普天間問題やトヨタ問題には日本の主張の弱さが凝縮しているが、そこには情報発信力の乏しさも大いに関係していると見るべきだ。

100年後にはドルが準備通貨の座から引き摺り下ろされているかもしれないが、共通語としての英語はほぼ永久に残るだろう。日本の教育制度は、教養主義の復活とあわせて英語の役割をもう一度考え直すべきである。英語の発信力なしに、21世紀のグローバリゼーションでの生存資格は有り得ない。

因みにこの文章を書いている際に、盟友谷口智彦氏から新著「国際情勢のレッスン(PHP研究所)」が届いた。長年、日本の英語問題を指摘してきた同氏ならではの視線である。米国やドルに対する立ち居地は私と180度違うが、そういう視差も含めて是非ご覧になって頂きたい書物である。

2010年8月6日(第226号)