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◆資産と財産の履き違え

◆ 言葉はややこしい

普通、資産家といえば金持ちの家のことである。以前は分限者とも言ったが、これはもはや死語で若い世代には通じない。「資産」を持っているのが資産家だから、別に突っ込む必要もないのだが、気になるのはこうした「資産」のイメージとバランスシートで使う「資産」が混同されていることである。前者の「資産」はどちらかといえば「財産」に近い意味である。後者は、自前の「財産」と「借金」を含めた総額である。

つまり一般世間でいう「資産」は純粋にエクイティ(自己持分)であるのに対し、経済用語でいう「資産」はエクイティにライアビリティを加えたものなのだ。正しく使い分けられていれば問題はないのだが、どうも最近この峻別の怪しさが金融議論を不正確にしているようにも思えるのである。

気掛かりなのは、世界の金融市場における待機資金を「資産」として観察し、あたかもそれが財産としての価値、つまりエクイティとしての資金であるように思われていることである。例えば、PE Fundに1兆ドルの資産が現金として積まれている、と報じられたりする。それが「金融市場を支えるバッファーだ」と言われることもある。だから金融市場が底割れするようなことにはならない、と語る人が出てくる。だがその「資産」は「正味財産」ではなく負債を含めて膨張したマネーなのである。

従って、ファンドの保有する1兆ドルは帳簿上確かに資産なのだが、それは金持ちが金庫から取り出して預けた財産だけでなく、金融機関などが他社から借り入れて投じた負債性資金も含まれている、と考えねばならない。メディアはしばしば「金余り」なる言葉を使うが、これは負債性資金の積み上がり(つまりはレバレッジ)を誤解して報じているようにしか思えない。財産は決して「余っている」訳ではないのだ。

負債と資本の合計が資産なので、認識上は別に問題ないという反論は有り得る。だが我々は、金融危機を通じて負債の存続性が極めてフラジャイルな概念であることを学んだ。いまや、個別の金融機関の自己資本比率だけでなく、各国や世界経済全体の「自己資本比率」も知っておくべき時代である。

正味の財産というとき、それはネットベースでの個人資産と政府資産で示される。金融機関を含む企業の資産は、解散価値として計算されるが、個人の持分は個人資産にカウントされている。企業間持ち合いは殆どが負債性資金であるので対象に含める必要はない。従って財産は、基本的に政府と個人が所有しているもの、と単純化して良いだろう。

因みに日本のケースで見てみると、金融資産では個人ネット資産は3月末現在で1,079兆円(資産は1,452兆円で借金が373兆円)、政府ネット資産はマイナス520兆円(資産482兆円で借金1,002兆円)なので、日本の金融面での財産は559兆円といったところだろうか。正味財産をより正確に計るには、これに個人が保有する不動産・貴金属・骨董品などの実物資産価値を加える必要がある。この作業は簡単ではないので、後日へと「先送り」したい。今回は、財産と資産を履き違えることで浮かび上がる金融市場の一つの問題を提起するに止めたい。

◆ なぜ流動性が重視されるのか

投資の世界においては流動性が好まれる、と言われる。いつでも換金できる特性を持つ商品の価値にはプレミアムが付きやすい。逆に言えば、流動性の無い商品は流動性プレミアムが要求されるので価格はディスカウントされがちである。

市場において流動性が主要テーマになると、世界最大の流動性を誇る米国債価格は割高に、ジャンク債の価格には信用スプレッドに加えて非流動性も加味されるので割安になる傾向が見られるのはいまさら言うまでもない。5月以降米国債金利が急低下し、10年債利回りが4月の4%越えから一気に3%割れまで動いたのは、この流動性選好も寄与していると思われる。

一般に、信用不安が起これば皆が一斉に優良で安全なそして流動性の高い国債に向かう。それは金融市場のABCなのだが、果たしてそれは絶対的な市場慣習なのか、やや疑問もある。正味財産(資産ではない)に余裕がありいま目先のカネに困っていない人々は、そんなに流動性を重視する必要はないからだ。そうした正味財産は、むしろ非流動性によって安価にプライシングされた資産を選好するのではないか。

ところが現在起きているのは、一斉に米国債や日本国債など流動性の高い商品への資金流入であり、10年の米国債は2%台、日本国債は1%スレスレというリターン度外視の利回りにまで低下している。

こうした極端な流動性選好は、逆に機関投資家の運用資金が「本当に国債を買いたい人」のお金ではないことを示しているように思える。銀行に流入する預金は、「国債を買いたいカネ」ではなく「安全に保管して貰いたいカネ」である。国債を買って下さい、と銀行預金するのではない。預金者のカネと国家財政ニーズの間の埋められない溝を、銀行が勝手に橋渡ししているだけである。そこに流動性の幻想があるからブリッジが可能になる、という訳だ。

銀行だけでなく、保険・年金などを運用する生損保も、資金タイプはやや異なるが構造は似たようなものである。皆、借り物のお金で流動性を求めているから、異様に低金利での運用に集中する結果になるのだ。負債としての資産を運用する銀行や機関投資家ではなく、正味財産をもつ個人が本当に腰の座った運用を行うようにならなければ、正しいマネー・アロケーションは進まないだろう。レバレッジの膨張が流動性選好を通じて超低金利を生み、金融政策を撹乱しているのであれば、「現代の貨幣制度はやはり大きな欠陥を胚胎している」と認めねばなるまい。

以前、「世界潮流」に「ショートよりもロングが問題」という一文を書いたことがあるが、日米国債の異常な低金利は、まさにロングが問題になり始めていることを示している。そのロングを支えるのは正味財産ではなく、負債に支えられた資産なのである。財産と資産を履き違えると、そのロングも持続可能と読み間違える。世界の金融市場が大きなそして不気味な誤解に包まれているのは、おそらく間違いないだろう。

2010年10月1日(第230号)