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◆所得格差と金融危機

◆ デイヴィッド・モス教授の分析

Sub-Prime問題の発覚から3年が経過し、Lehman Shockから数えても既に2年以上の月日が経った。だがこうした事象はなかなかアーカイブとして過去のファイルに収まってくれない。それは、未だにその惨劇から抜け出せていないという思いが強いからである。9月に上梓した「危機第三幕」という本には、そうしたやり場の無い気分の重さを込めている。別に悲観主義者ではないのだが、負債の本質を軽視したような金融ゲームが終わったそのツケを、金融界がまだ支払っていないことを認めない訳にはいかない。

ただ、金融危機の原因はほぼ特定されたと見做されている。金融機関経営の強欲さを筆頭に、短期収益主義、脆弱な格付け体制、長期的金融緩和、甘い金融監督体制、Too Big To Failなど、あらゆる面での論議が世界中でなされ、部分的にではあるが修正への動きが出てきたことは評価されて良い。完全にリスクを封じ込めることは不可能であり、どこかでまたマグマは噴出するだろうが、それが予想外の場所で発生するのが一番怖い。

これだけ人々が危機発生要因の分析に熱中していても、拾い残した盲点や死角はまだあるのだろうか。ハーバード・ビジネス・スクールのデイヴィッド・モス教授は「ありそうだ」と言う。それは所得格差である。格差の拡大は、社会問題としてここ数年採り上げられたテーマではあるが、それが金融危機の発生原因と関連付けられることは殆どなかったと言ってよい。金融との関連があるとすれば、それは金融産業拡大による所得格差拡大という結果としての文脈によるものであった。

政治経済史が専門のモス教授は、約1年前に所得格差と金融危機の強い相関関係に気付いた、という。そのきっかけは、銀行規制と銀行破綻の相関図と所得格差拡大のトレンドを示した図を重ね合わせたときであった。二つのグラフがあまりにピッタリとシンクロしていて驚いた、と教授は語っている(2010年8月22日付けNY Times紙より)。

つまり、規制緩和が進んで銀行破綻が増加するグラフと、所得格差が拡大していく時系列グラフとがまさに相似形をなしていた、ということだろう。そこから教授の所得格差と金融危機の相関についての関心が高まってく。当然ながら、比較参照されるのは1929年以降の米国の状況だ。

所得格差に関して言えば、現代の米国は大恐慌の時と並んで強烈である。1928年に所得額上位10%は米国全体の所得の49.29%を、2007年には同じく上位10%が49.74%を占めていた。過去10年間にここまで上位に所得が集中していた時期はない、と教授は述べる。上位1%に限定して見ても、1928年は23.94%で2007年は23.5%と、やはり「100年に2度」しかない集中度である。

仮に所得格差が金融危機の前触れであるとすれば、その構造に殆ど変化が見られない現在の米国社会は、再び危機を生じるリスクを胚胎しているということなのだろうか。或いは、モス教授の分析は必ずしも両者間の相関関係を導くものではなく、杞憂に過ぎないと見るべきものなのだろうか。

◆ 対米警戒レベル

経済社会の法則性を一度や二度のケースから断定することは極めて困難で、危険度が高い。ルービニ教授のように「アヒルのように鳴き、アヒルのように振る舞い、アヒルのように見えるならそれはアヒルである」という「Duck Law」によって、今回の金融危機を大胆に予測してしまった人もいるが、この所得格差と金融危機の相関については、このアヒルの法則は使えそうに無い。

早速、反論も噴出している。その先鋒は前ブッシュ政権でCEA委員長を務めたグレン・ハバード教授である。「毎年自動車の速度が速くなり、毎年GDPが増えるからと言って、自動車速度がGDPを増やしている訳ではない」とそのデータ解釈に難点ありと主張している。規制緩和の重要性を謳う共和党サイドにとって、規制強化を支持するようなモス教授の主張は受け入れられないという政治的要素も、その反論に込められているようだ。

同じハーバードのリチャード・フリーマン教授は、過去30年間の125件の金融危機を分析してみた結果、確かにその多くのケースで危機前に所得格差が拡大していたことが判明したが、北欧諸国のように格差拡大の無いところでも金融危機が発生していることから、一概に所得格差が危機の原因になったとは言い難い、と述べている。

但し今回の米国のように、ウォール街に所得が集中し、さらなる所得増のためにロビイングなどを通じて規制緩和を加速させ、結果的に危機を招いたとの推論は、あながち間違いではないようにも思える。他国を含めた一般論はともかく、米国という極めて特殊な金銭感覚を持つ国において、所得格差拡大を放置することが危機再来の確率を上げないまでも引き下げてはいない、ということは言えるだろう。

従来、日本でもそうだが所得格差拡大の問題は、一義的にその下層に焦点を当てたテーマとして語られる傾向が強かった。すなわち格差問題とは、税制など再分配やセーフティネットなど社会保障政策の切り口から問われるものであった。だがモス教授が提示したのは、上位層が引き起こす社会的炎症である。これは、新鮮な問題提起と言って良いだろう。

先に挙げた1928年における所得の上位集中性は、その後の株価大暴落や金融機関の破綻などで富裕層の優位性が剥げ落ちた結果、急速に失われていった。換言すれば、金融危機を引き起こす深刻な病巣が社会から摘出されていったのである。それは、自然淘汰的或いはビルトインスタビライザーとも言える自己調節の結果であったかもしれない。

だが2007年の所得集中性は、やや様相を異にしている。政府・FRBの懸命な政策発動で株価は回復し多くの大手金融機関は破綻を免れた。ウォール街の高給制度は復活しており、所得格差が是正される気配は見えない。その安定度を、米国だけでなく日欧や新興国などもむしろ歓迎しているようにさえ感じられる。

繰り返しになるが、所得格差と金融危機の間に相関があるかどうか、明確なことは言えない。だが米国経済に関する限り、何らかの相関があると思うことに不自然さを覚えることはない。同国の所得格差が再び拡大するようであれば、対米警戒レベルは恐らく上方に大幅修正せざるを得ないだろう。

2010年11月12日(第233号)