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◆超債務時代の負債論

◆ ルサンチマンと負債処理

負債というのは文字通り、カネを貸す人と借りる人の間の関係を借りる側から見た言葉である。通常、貸す方が借りる方よりも「強者」であり、「弱者」たる負債者は「負い目」を背負いながらも利息を支払うことでその免罪意識を維持しつつ、完全返済に向けて汗水垂らす、というのが一般的な構図である。

もっとも、市場金利水準として利息を支払うのは返済価値の一部として当然の行為であるから、計算上は免罪行為とは言い難いところがある。従って、厳格に言えば完済するまで「負い目」は消えないのだ。我々が銀行や友人から借金する際に、ある精神的な重さを感じるのは、極めて正常な感覚だと言って良いだろう。

ニーチェが、キリスト教における信仰をこの「負い目」の意識を通じて批判したことはよく知られている。キリスト教とは、「弱者がイエスという敗者を崇拝する」という弱者の宗教であり、いわば強者に対するルサンチマンである、とニーチェは喝破した。本当は何かを獲得したい、だが強者には叶わない。そんな弱者の憤りや怨恨が外向きのベクトルを構成しないで内側に閉じ込められる時、「良心のやましさ」、或いは「負い目」といった感覚が心を支配するのである(「道徳の系譜」から)。そしてそれが、キリスト教のいう「原罪」の概念を生む。

キリスト教の教えは巧みである。生まれながらにして原罪を持つ人間という弱者の設定に対し、強者の神は債権者として現われる。債務者である人間に信仰を求め、神の子が自ら犠牲を払うことによって、贖罪を与えるというフィクションを構築するのである。つまりこれは一種の偽装的債権放棄のプロセスなのだ。信仰とは、抱えきれない負債の削減を求めて債権者にすがる行為であると言っても良いだろう。

信用と信仰の違いは、ここに現われると見てよい。信用は、信託や与信、受信といった前向きの金融用語に通底するところがあるが、信仰は、救いを求めるという意味で支援や救済という後ろ向きの金融用語との接点があるに過ぎない。

以前、拙書の中で筆者自身の「グリーンスパン信仰」について書いたことがあるが、それは信仰でなく盲信と表現すべきであった。信仰は、単純な信用と区別されねばならない。西欧的な信仰とは「債権者が債務者のために自分を犠牲にする」という虚構の安堵を支える為に、債務者に課された宗教的義務なのである。

デフォルトは古今東西を問わずに発生する事象であるが、現代西欧社会ではこれを法的・経済的に制度化することに成功した。日本は、破産法などデフォルト処理を西洋から学んだのだ。ルサンチマンから生じた宗教を背負う社会にとって、債務削減要求と債権放棄の制度的合意は、無くてはならない「負い目の処理法」であったのではないだろうか、というやや妄想的な推測が、筆者の頭にこびりついて離れない。 

◆ 言われ無き債務

読者の中には熱心なキリスト教徒もおられよう。上述のような推論に気分を害されたかもしれない。私は、マルクスを読むが共産主義者ではないのと同様に、旧約聖書や福音書は読むがキリスト教徒ではない。単に現代経済が理解できなくなったので、学習の原点に戻ろうとしているだけである。西欧型金融が絡む場合、どうしてもキリスト教への思索が外せない。従って、宗教の客観的(時に批判的)評価からスタートせざるを得ないことをお断りしておきたい。

ニーチェを読むと、彼がキリスト教を最大の債務感情をもたらしたもの、と見ていることがわかる。その原罪という債務は、実証的なものでも契約的なものでもない。生まれつき、という押し付けの負い目なのである。つまりそれは「言われ無き債務」であるといっても良いかもしれない。

これを転倒させれば、契約なき債権者を正当化することになる。ニーチェは道徳の系譜をルサンチマンに求めているが、それを突き詰めていくと、キリスト教社会の成立は債務者の創設によって自動的に債権者を生むことだ、という構図も浮かび上がる。

ここから先は、ルサンチマンが債権者と債務者を作る、という構図のみに光を当てて、ニーチェの思索から離れてみることにしよう。神が所与的に債権者となるキリスト教においては、現実には教会が代理人としてその機能を司る。現代のFRBに中世の教会が重なって見えるのは、単なる幻想ではないのかもしれない。

筆者のグリーンスパン信仰は単なる盲信であったが、人々のマネー信奉はれっきとした信仰である。我々は、知らず知らずのうちに中央銀行に対する信認を「当然の行為」として受け容れることを要求されているからだ。それはまさに弱者に所与的に強いられた義務感なのである。最後の審判の日が来るのかどうか、それは誰にも解らない。

現実として、日銀が発行する紙幣を、FRBがばら撒くドル紙幣を、誰もが受け取るだろうという信用のもとに人々は受け容れている。こんな紙切れはマネーではないという人がいるかもしれないが、では何がマネーなのかを証明することが出来なければ、その批判には意味が無い。

現代人もまた弱者としてのルサンチマンを受け容れて、強者としての紙幣を信仰しているのだろう。マネーは、中銀債務であり民間債権であった筈なのに、いつのまにか価値転倒してしまったのだ。中銀は債権者として、民間は債務者として転倒したのである。それは、資産価値であった筈のマネーが中銀によって一瞬のうちに無価値になる可能性を秘めている、という点においてである。「価値とは貨幣のことではない」と論破したのは、マルクスであった。マネーは社会的産物に過ぎないのだ。

マネーは誰のものか。中世においてマネーは商業資本のものであった。その所有権は産業資本へ金融資本へと拡大したが、国家財政の肥大によって通貨の発行権は国家と中銀に強奪されることになる。ここに債権者と債務者が逆転する。それを固定化するために、国家は民間金融を中銀に従属させ政治的にも無力化させたのだ。

そのルサンチマンが現代を支配している。21世紀の暗黒の金融時代は「中銀マネーは死んだ」というニーチェ流の哲学なしに、破壊することは出来ないのかもしれない。

2010年11月26日(第234号)