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◆近視眼化する現代経済

◆ 雇用と所得格差

2007年以降の危機が終わったかどうかという議論は各個人の価値観判断に委ねられるに至るまで、今日の経済や金融情勢は改善している。それはよく喩えに出る「コップに水が半分しかないと見るか、半分も入っていると見るか」の違いでもあり、そこを論軸とするのはもはや適切ではないかもしれない。だが危機の病巣が完全撤去されたかどうか、という点については残念ながらまだ「ノー」と答えるべきだろう。

金融危機に次いで発生した経済危機は、欧州の財政危機を生み、日米の長期金利を刺激し始めている。その財政危機が拡大すれば、通貨戦争は通貨システム懸念へと発展し、次なる危機への扉が開かれる契機になるかもしれない。世界はそんな「マグマ」に揺さぶられながら、景気回復への頼りない道程を辿っているのが現状である。各国にはかなり慎重な政策が求められる。だがその大元締めである米国は、財政危機のリスクを侵してまで景気刺激策を追求しようとしている。

米国がいま必要としているのは雇用対策と格差縮小作業である。だが、政府とFRBが遂行しようとしているのは、相変わらずの消費刺激である。オバマ大統領はブッシュ減税延長だけでなく、高額相続税緩和、連邦不動産税復活停止、給与税2%カットなど、共和党に魂を売るがごとき様々な妥協に応じて、実質的財政出動に踏み切った。FRBのバーナンキ議長は堂々と「資産効果」の必要性を主張し、消費拡大が雇用拡大に繋がると言い切った。

筆者が見るに、雇用対策を消費拡大で行うなどキワモノ的な発想である。雇用問題は米国の構造問題であり、まさに「構造改革」しか解消法はない。ドイツは英米などから様々な批判を浴びながらも雇用市場改革を行って、今回の危機の被害を最小限に食い止め、財政改革にも着手した。米国とは全く逆の発想だが、日本では地味でつまらなさそうに見えるドイツの政策など殆ど語られることもなく、米国の消費回復を神頼みのように祈っている雰囲気すら感じられる。

雇用と所得格差には一見なんの関係も無さそうに見えるが、元労働長官でUCバークレー教授のロバート・ライヒ教授が9月出版した「Aftercrash」という本を読んでいたら、雇用など米国経済危機の根源にあるのは異様なまでに拡大した所得格差であり、これが正常な消費行動や投資行動を妨げている結果として経済構造に歪みが生じているため、マトモな景気回復への道が開かれないのだ、と書いてあった。

これは以前紹介したハーバード・ビジネス・スクールのデイヴィッド・モス教授の主張と同じような議論である。ライヒ教授は一歩突っ込んで、100億円の高額所得者は、せいぜい贅沢しても数億円くらいしか使えないと述べ、仮にその100億円の給与が1,000人に10百万ずつ行き渡っていたとすれば、恐らく消費は数十億円に達する筈だ、と語る。税収も増えることだろう。

別に共産主義を奨励しているのではなく、あまりに歪んだ労働分配率を問題にしているのである。現代米国における所得の偏りは、まさに1929年の株式暴落直前のデータとほぼ等しい、と教授は指摘している。その偏差は、1945年の終戦から1975年にかけて急速に修正されていったが、1980年以降から再び格差が拡大し始める。その顛末が、2007-8年の金融・経済危機であった。

ライヒ教授が嘆くのは、この危機を通じて1940年代のように米国が格差是正へと動くのではなく、むしろ格差を再拡大するような形で動き始めていることだ。オバマ大統領とFRBのそれぞれの施策は、まさにその見方を裏付けているようだ。

◆ My Word is My Bond

民主主義とは弱い体制だ、とつくづく思う。いまや民主主義はポピュリズムと言い換えても良い時代になった。怖いものである。オバマ大統領の「理念放棄」だけではなく、日本にも訳のわからない支持率稼ぎの政治動向があちこちで露呈するようになった。欧州も、目先のPIGS国債利回りの高騰にうろたえて、本来の経済共同体の理念を失おうとしている。

先進国の民主主義は、ドミノ現象のように経済の歪曲化に向けて疾走している。だが誤解を恐れずに言えば、株式市場は結果的にではあるにせよこうした政治の堕落を歓迎している。主要国債券市場の自衛本能に、本格的に火が付くまでにはまだ時間が掛かりそうだ。かくして2011年に向けてお気楽な経済予想が立ち並び、日経平均も15,000円といった強気見通しが出てくる。

確かに順風が続けば、これまでのうっぷんを晴らすように株価指数が上昇基調を辿る可能性はあるだろう。但し、その順風とは本来の景気循環における回復期の風とはやや性質が違う。財政懸念による中長期金利上昇や新興国の投資増による世界的な実質金利上昇に、脆弱さが垣間見える主要国経済が耐えられるかどうかは、全く不透明であるからだ。

世界経済と金融市場は「日増しに近視眼的になっている」というのが筆者の率直な印象である。それを煽っているのがポピュリズム、即ち現代民主政治である。危機感や警戒感の長期化に嫌気が差すのは解るような気もするが、分不相応の繁栄を享受した時代は、その罪(即ちプライス)を背負うべきである。目先の低成長に耐え切れず、ここでさらに財政赤字を拡大させ、マネーを増発させるというのは愚の骨頂だ。日銀は「デフレなどあと2年ほどの辛抱だ」くらい豪語したところでバチは当たるまい。

政治家が賢くなくても経済は回る。ここ数年の日本はそれを証明している。馬鹿な政治家(とメディアと御用経済学者)がいたために、ここまで財政赤字を積み上げてしまったのである。参議院など廃止し衆議院は大選挙区にしてその人数を半減せよ、という石原都知事の暴論には、個人的は賛成である。同氏の他の言論には必ずしも同意しないが、この政治的感覚は間違っていない。目先の個人的事情を優先し、大局観なき政治闘争に明け暮れる政治家など、百害あって一利なし、である。

中間選挙でティー・パーティ旋風が吹き荒れた米国も、おそらく似たようなものであろう。経済知識も金融感覚もほぼゼロに等しい政治家が、経済政策を語る。それに防戦する為に、政府とFRBは依怙地になって自衛するようになる。そこに建設的議論は生まれない。民主主義の果実がこれである。民主主義は、危機的状況にある。そこでほくそ笑むのが中国だ、というお話は、メディア的には面白いかもしれないが、筆者の趣味ではないしBMA年末最終号の話題にも相応しくないので、止めておく。

せめて債券市場には中長期的な自衛感覚を発揮して欲しい。政治家や株式市場が民主主義の堕落を抑えきれない時代に、矜持を保てるのはおそらくBondしかない。昔の人は「My Word is My Bond」と言ったものだが、現代政治家の言葉はもはやBondとはほど遠い。市場のBondこそが次世代への悲惨な芽を摘み取るBondになることを、切に祈りながら本年最終号の結びとしたい。

2010年12月24日(第236号)