HOME > 2011

◆経済動力と潤滑油の混同リスク

◆ 米国における大量潤滑油

経済の動力とは何だろうか。古典的に考えれば、土地と労働力である。それに機械などの道具が加わって生産性が上昇し、さらに分業体制の確立によって超過利潤が生みだせる段階へと移行する。そして更なる技術の発展や交易範囲の拡大が利益を押し上げて経営に余裕を与え、雇用を増やし、人々の生活水準を向上させる。

さらに、金融がこの動きを後押しすることになる。期待利益が借入金利を上回れば、経営者は銀行に殺到して「アニマル・スピリッツ」を思う存分発揮するのである。現代の経済社会は、この過程を一般に経済成長と呼んでいる。金融は、ここで潤滑油の働きをしている、といって良いだろう。動力に潤いを与え、純利益を拡大するのが金融なのである。

だが、FRBに見られる今日の金融政策は、金融を潤滑油ではなく動力そのものとして扱っているようにも思える。不動産価格が下落し、雇用機会も増えないという経済動力の二大基本要素が萎える中で、それをやむを得ない政策だと見る向きも少なくない。確かに、国債購入という荒業によって米国の株価は上昇して消費ムードが盛り上がっており、資源・穀物市場への悪影響を除けば、成長路線を維持する作戦は現時点では成功しているようだ。

だが本来潤滑油でしかない金融を、全く場違いである動力という役割に位置付けるというのは大きな賭けであり、一か八かの作戦である。破綻寸前の企業が博打を打って延命を目論むようなものだ。1990年代、ある日本の中小生保が大量の米国債を購入するという断末魔の手を打ったことが思い出される。

だが米金融当局者らは、異常な経済構造からの脱出策として潤滑油を大量に投入することで経済力が蘇るというお手盛りの物語を正当化し、かつ自ら信じ込むような姿勢を見せている。理論武装するのが得意な彼等にしては、異様なまでに幼稚な信仰的判断である。

ガレージのシャッターが開閉しにくくなった時、普通は左右のガイドレールの問題だと判断して、そこに潤滑油としてシリコンスプレーでも吹き付ければシャッターは円滑に動くようになる。だがシャッターのスプリングや安全装置に問題があるときは、潤滑油で直ったと思っても、本質的な解決にはなっていない。すぐに問題は再発するのだ。

経済システムにおいても、動力の中枢部分に問題がある時に潤滑油としてマネーを降り注いでも、一時的に元気になったように見えるがそれを長期間持続させることは出来ないだろう。もっとも、効果が乏しかったと言われる日銀の量的緩和も、実際には不況脱出に貢献したという分析もある。潤滑油も大量に注がれればシステムに何らかの変化を及ぼすことが出来る、という証かもしれない。但しそれは経済システムの正常な稼働を担保するものではない。

間違った処方がたまたま病状を抑えて効果生んだような錯覚を生む、という危険性は常に存在する。筆者が昨年来警戒しているFRBリスクとは、まさにこれである。それは、金融を主要動力として誤認識した結果、1998年に過大レバレッジで崩壊寸前となったLTCMや2008年に実際に瓦解してしまったリーマン・ブラザーズのケースを彷彿させるものである。

潤滑油を動力として利用する方法は過剰レバレッジ戦略そのものであり、上記2社などが民間市場で行った麻薬的戦略を、FRBは国家経済に転用しようとしている、と言えなくもないだろう。

◆ カダフィ大佐とバーナンキ議長

米国は、財政においても日本に次いで「レバレッジ」が高い。この異形の日米財政同盟の行く末は想像もしたくないが、さらに米国の場合はそのレバレッジの借り手が中銀と来ているから始末に負えない。そのシステム強度の検証は実験不能である。そんな結果オーライを期待するような政策が白昼堂々とまかり通るのは、金融哲学以前に、現代の経済観念が疲弊していることを意味している。

現代経済理論や金融理論に取り囲まれた人ほど、FRBの政策はやむを得ない選択だ、と述べる。だが市中に溢れる経済や金融に関する理論など、風雪に耐えた堅牢の防護壁とは言い難い、砂上の楼閣のようなものである。たかだか100年ほどの歴史しかない議論を理論扱いするべきではない。16世紀以来の近代社会には、捨ててはならない鉄則があるのだ。市中に流通する通貨を一部の人の都合で勝手に増量すべきではない、というのはその一つである。

勿論、金本位制には問題がある。経済活動の自由を縛り上げていたからである。金本位制に戻れという極論は、FRBへの批判にはなっても解決策にはならない。そんな清算主義は非現実的である。だが中世の法皇が教典を自己流に解釈するような風潮を放置することも、現代人の責任放棄でなくて何であろう。こうした話は、今年俄かに巻き起こった中東情勢不安とある面で共通点を持っている。

中東の若者が不満を抱くその対象である独裁体制や貧困・失業・物価といった枠組みは、ある意味で独裁者が維持する前時代的なシステムへの不満の表明であり、疲弊し腐敗した体制への猛烈な反発だ。格付け会社はこれを見て中東各国の格下げに動いたが、それは現代経済の仕組みへの視点が「現状維持」という一点に固定化されているからに他ならない。市場はそれを当然と思うだろうが、民主化運動を「格下げ」要因化する思考法は、常識的な感覚から言えば本末転倒である。

メルマガにも書いたが、パリ五月革命とプラハの春に代表される1968年の世界的革命モード、そして東欧の開放やソ連崩壊への道を切り開いた1989年のベルリンの壁に続き、2011年のエジプトやリビアに見られる一連の中東反政府運動は、近代を超克出来ない現代が抱える課題に対して突きつけられた挑戦状であった。これらは単なる独裁体制への反発ではなく、底流に鬱積する経済的不満に見られるように、資本主義でも社会主義でも満たされることの無い経済システムの不備を浮き彫りにしたものなのである。

翻って米国のマネー増刷政策は、依然として株価さえ上がれば経済は向上するという紋切り型の固定観念的な「近代経済モデル」を頭に描いているものだ。世界最大の米国経済といえども、また近代を超克出来ていない証であろう。それは、現状のシステムが極めて脆弱であることを無視して現体制を何とか維持しようとしているカダフィ大佐の思考回路とあまり変わらないような気もする。

そういう言い方がFRBやバーナンキ議長に対して大変失礼であることは十分承知の上であるが、米国民の中で議会や政府・銀行そしてFRBなどの既存体制に対する反感や不信感が増大しつつあること、そしてそこに中東での反政府運動との共通点を見出せることを思えば、多少表現が厳しくなることも許してもらうしかない。

2011年3月11日(第241号)