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◆富裕層満足指数としての株価指数

◆ 米富裕層の満足度

社会の二極化は経済の二極化によって起こる。つまり格差が拡大すれば、上位層に引っ張られた経済社会は成長しているように見えるが、一方の取り残された層は疎外感を感じながら、所得の低迷や失業の脅威に怯えることになる。1980年代以降の米国経済は、こうした構図を引き摺りながら21世紀を迎えた。日本でも「格差社会」が喧伝されたが、その実態は「米国基準」と比べれば果たして「格差」という言葉で表現すべきかどうか、怪しさをも覚えるほどである。

戦後、米国のGDPは大きく成長していくが、1980年以降ではその社会構造が引きちぎられるように分断されていく。成長率が一定水準を超えて所得配分もそれに呼応したシステムが守られていれば、中間層や下位層が生活水準の低下を感じることはない。だが仮に成長が続いていてもその分配構造が変わらなければ、富裕層以外の人々の不公平感は増大していくだろう。持てるもの(The Riches)がますます豊かになるからだ。それが実際に今日の米国で起きている症状である。

その延長線上に、潜在成長率を下回る成長が続くというシナリオが敷かれているとすれば、不公平感だけでなく貧困感も生まれる。これこそが、1930年代の再来として把握されねばならない社会現象なのではないか。今後の米国経済にリスク・シナリオがあるとすれば、その病巣はその辺りに潜んでいると考えるべきではないだろうか。

市場は、GDPを一般成長尺度として利用しているので、米国が3-4%程度の成長の軌道に乗れば「経済回復」と表現する。株価もそうしたムードを囃して上昇していくかもしれない。だがその際の株価指数は、もはや社会全体の経済像を表す指標ではない。単に富裕層の満足度を反映した指数に他ならない。株価指数は、中間層から下位層の人々の生活水準とは連動しないのである。また株上昇による資産効果も、彼等の生活水準を満足レベルに押し上げるほどの効果は無い。

昨年、FRBのバーナンキ議長はワシントン・ポスト紙への寄稿で、「株価が上がれば消費が伸びて経済状態が改善する」と公言していたが、それは米国の金融政策が所詮は「金持ちの為の政策」であることを暴露するものとなった。ウォール街などに代表される大企業の経営者ら米国の所謂「トップ1%」の人々を意識するのが、現在の米国の政策的方向性だと言ってよいかもしれない。意地悪く言えば、FRBの政策目的は「物価安定」「雇用拡大」そして「株価上昇」の三点なのである。

もちろん、株価上昇によって心理が好転し消費が拡大すれば、雇用も増える可能性はある。だが実体経済は単純な線型方程式の世界ではなく、まさに複雑系そのものである。金持ち優遇のマネー政策がバブルやインフレを起こし、逆に経済を混乱させるリスクもある。そうなれば打撃を受けるのは中間層や下位層である。そんなリスクを胚胎するFRBの施策は、やはりポスト・モダン経済の政策としては適切ではない。

ストックを抱えた富裕層が経済混乱でそれほど困らないことは、2008-9年の経済危機で明らかになった。富裕層は打たれ強く、中間層と下位層は簡単に人生の底に沈む。株価上昇による資産効果狙いの政策は、反社会的な性格を内包する危険なゲームであると言えよう。

◆ 米国の富裕層

米国の金持ちは桁外れだ、とよく言われる。日本でも、米投資銀行CEOのボーナス、或いはプロスポーツのプレーヤーやエンターテイナーなどの破格の収入が話題になったりする。彼等の豪邸を見ては溜息を付き、プライベート・ジェットや派手なポルシェに垂涎するのは、冷蔵庫やテレビに囲まれた戦後米国家庭の豊かさに憧憬を抱いた当時とあまり変わっていないかもしれない。

だが戦後と現代とで大きく違うのは米経済の所得構造である。1950-70年代の米国は、所得配分への配慮が浸透した社会であった。それは大恐慌からの教訓であった。1928年当時、米国はまさに「格差拡大」がピークに至った所得構造になっていたのである。それを矯正するきっかけが、翌年の株暴落と1930年代を通じた大恐慌であったのだ。その所得再配分は、税制だけでなく組合による労働者権利の強化によってもサポートされた。

これが1980年代に入り、税制改革や規制緩和などの時代の到来とともに変化が始まる。金持ちがより金持ちになり、中間層や下位層への配分は大きく抑制される仕組みに変わっていったのである。組合の力も削られていく。規制緩和は、ビジネス機会を拡大すると同時に「強いものをより強くする」という副作用をもたらすことになったのだ。規制緩和はレーガン時代の共和党政権の産物だといわれるが、実はその伏線を敷いたのはカーター政権であり、またグラス・スティーガル法を撤廃したのはクリントン政権である。

1990年代の日本は、この米国流を「グローバル・スタンダード」だと勘違いしてしまったのである。その結果、村上ファンドやホリエモン、六本木ヒルズ族など異形の資本主義者や竹中平蔵流の米国システム崇拝主義者を評価する価値観が隆盛したことは記憶に新しい。

適正な配分制度の下で経済成長するのは「言うは易し」で困難ではあるが、理想像を捨ててはならない。米国にはそうした理想像への追求エネルギーがあった。だが1980年代以降の米国は、明らかにその民主的軌道から外れてしまったのである。

それは、所得に関する時系列統計を見れば一目瞭然である。以下は、UCバークレーのポール・ピアソン教授とエール大学のジェイコブ・ハッカー教授の共著である「Winner Take-All Politics」に紹介されている、米国格差社会の実態である。

まず「高所得層上位1%」の所得が全米所得のどの程度のシェアを占めているか、見てみよう。そのシェアは1960-1980年まではほぼ10%前後で推移していたが、レーガン政権においてそれが15%まで上昇し、1990年代のクリントン時代に20%へ拡大、ITバブル崩壊でやや減少したものの、その後は急速に盛り返して2006年には24%にまで上伸している。民主・共和政権で「差」がある訳ではなさそうだ。

では彼等(上位1%)の税引き前平均所得実額はどれほどかと言えば、1979年には337,100ドルであったが2006年には1,200,000ドルへと約2.6倍になった。比較的お金持ちとも言える上位80-99%の人々は、2006年の平均が200,000ドルに満たず、1979年と比べても上昇率は55%に過ぎない。上位60-80%に人々は32%増、40-60%の中間層は21%増、20-40%の下位層は18%増で、最も低い層では11%増と伸び率は低減していく。これが「格差社会」の実態だ。

国別の統計もある。上位1%の人々の所得シェアを、1973-75年と1998-2000年の平均で比べたものだが、米国は8%から16%へとほぼ2倍になり、英国も7.5%から12.5%へ伸びている。豪州・カナダ・ニュージーランドといったいわゆるアングロ・サクソン系やアイルランドなどでも1.5倍程度拡大していることがわかる。一方で、日本やドイツ、スウェーデンは微増に止まり、スイスやオランダではシェアが減少している。

この金持ち優先主義に付随するリスクについては、ポスト・モダン経済の意識として、金融市場にかかわる我々がもっと深く考えねばならない問題でもある。

2011年3月25日(第242号)