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◆禁煙と減量の経済学

◆ 苦しさの中の喜び

普通の人間は、苦しいことが嫌いである。出来れば楽をしたいし、楽しいひと時がずっと続けば良いと願っている。筆者も「自分に厳しく」を座右の銘にしていながらも、本音では苦しいことや辛いことは出来れば避けて通りたい、と思っている。わざわざ苦境に自分を追い込むようなことはしない。だが、3月の大震災でもわかるように、どうしても苦しみに直面せねばならぬ場合もある。

37歳の頃、英国の喧騒なディーリングルームでの勤務中に突然片耳が聞こえなくなってしまった。慌てて会社から紹介された医者に診察して貰ったら、Sudden Deafnessという、日本語で言えば「突発性難聴」という原因不明の病気と診断された。仕事の説明をしたら、多分そのストレスから来るものだろう、とその医者は言った。そして、一日3箱くらいタバコを吸う、と自己申告をしたら、仕事を辞めるかタバコを止めるかだな、と英国人独特の皮肉を込めて処方箋を書いてくれた。結局、薬の治療を続けながら仕事は辞めないでタバコを止めたら、半年ほどで聴力が復活した。 

こう書けば、すんなり回復したように聞こえるかもしれないが、その半年間は暗黒の日々であった。突発性難聴は片耳で済まない場合もある。最悪のケースを想定せねばならなくなった。知人から、タバコによる血管収縮は聴力障害だけに限定されないとも脅されて、どんなに吸いたくなってもタバコからは距離を置かざるを得なくなった。

人間、恐怖感に襲われると潔く諦めが付くものだ。チェイン・スモーキングという悪癖は、喫煙歴20年で終了することが出来た。タバコを止めてもう20年近くになるが、やはり健康体になったとの自覚がある。酒や肴に対する味覚も格段に改善した。逆に拙いものがはっきり解るようになったので、飲み屋でお世辞が言えなくなった。

もう一つの苦しみは減量である。世間では若い男性諸君にもダイエット・ブームが広がっているが、中高年のダイエットは異性を意識するというよりも(勿論そういう人もいるだろうが)病気を防ぐことの方が切実な要請である。

筆者は禁煙したこともあって、また爾来の酒好きとスポーツ嫌いが祟って、体重計の数値が日々過去最高を更新するようになり、ちょっと拙いことになった。6年ほど前の人間ドックで「イエロー・カード」を突きつけられて、減量努力をした方が良いとのご宣託を賜ったのである。読者の中にも、似たような忠告を受けられた方は少なくないだろう。

結果論として、5年間で10キロほどの減量に成功した。これも書くのは簡単だが、結構な努力が必要であった。但し、基本は「人間食べなければ痩せる」という単純な理屈である。それに毎朝5キロほど歩くという習慣を付ければ、余計な脂肪分は落ちていく。実際には自分が設定した理想値までには達していないが、10%超の減量率はまあ成功の部類に入るだろう。

体が軽くなると、不思議なもので、気分が良くなる。年末年始の気の緩みでリバウンドしても、食べなければ痩せる、という厳しいが裏切られない鉄則さえ忘れなければ何とかなる。禁煙も減量もそれなりに苦しい。だが達成した後となってみれば、以前の生活の質の悪さがはっきりと見えるようになる。

◆ 苦しみの経済学

下らぬ自慢話のように聞こえたかもしれないが、賢明な読者は多分お気付きの通り、今回のテーマは禁煙と減量をネタにした現代経済批判である。タバコのメタファーは、体に悪いと思っていながらも辞められない経済刺激策であり、減量のそれはメタボへの危機感が乏しい財政赤字問題である。どちらも、踏ん切りさえつけば解消・解決は不可能ではないのだ。

大震災で被災された方々の苦しみに対しては心からお気の毒に思うが、その苦難を背負うことになった日本経済は、実は転換への好機を迎えているのかもしれない。何せ、日本は世界の苦悩の先端を走り続けている国なのである。

そもそも、消費がGDPの重要項目だからといって、消費拡大を経済テーマの原点に置くのは本末転倒である。経済政策の最大テーマは生活水準の向上にあるのであって、その結果として消費が増えれば良いだけの話である。愛煙家には申し訳ないが、タバコが無くなればそれに関連する雇用が消滅し税収もゼロになる、という論理は自己弁明に過ぎず、それと同様に、消費が拡大しなければ経済は成長しない、という論理立ても怪しさ満杯である。 

現代経済は、30年タバコを吸っていても害は無いよと言いながら着実に蝕まれていく体を放置し、明日から減量と言いながら生活を改める意思の無い人と同じである。政策もその人格形成に沿って運営される。消費を刺激しようとするあまり、財政支出拡大に歯止めが掛からないのは、手に負えない現代病である。確かに大震災の復興には追加財政措置が必要だが、1兆円単位の数字が独り歩きする性癖は何とかならないものだろうか。

経済が拡大し生活水準が向上することで、結果的に必要不可欠な消費が増えるのである。その消費とは生活に必要な消費であり、ホームエクイティで借金して別荘や三台目の自動車を買うといった過剰消費や、エコポイントで消費の先食いを奨励するような政策的消費ではない。どうも現代経済には不自然な消費が多過ぎるように思える。企業経済が抱える脆弱性の原点はここにある。

経済学では確かにGDP=A(消費)+B(投資)+C(純輸出)+D(政府支出)という有効需要の公式で、右辺項目が拡大すればGDPが拡大すると教えるが、それは右辺が左辺を規程しているという偏向した捉え方だ。だから右辺項目を拡大する為に、消費を増やせ、といった議論が出てくる。この経済学は本当に正しいのだろうか。右辺は、単に左辺を分解しただけのものではないのだろうか。筆者には、これが動学的な方程式だとはとても思えないのである。

正統派の経済学にイチャモン付けてどうする、という気もする。その経済学に沿って、大恐慌に陥った1930年代の世界経済は復興し、今回の大不況も何とか修復に向かっているのである。大震災による被害においても、財政出動無しに復興は困難だ。だが、1930-40年代の経済は第二次世界大戦という悲劇で救われたようなものであり、2008年の恐怖も本当に克服されたのかどうか、まだ答えは出ていない。1970年代のスタグフレーションには、有効需要の重要性を唱える経済学が無益であったことは、まだ記憶に新しい。

直感的に、現代経済に必要なのは禁煙や減量の経済学であると思う。だがこの問題点は、進んで苦しみを味わいたくないという贅沢病が先進国に蔓延していることにある。かくして問題は次世代へと無責任に継承される。ケインズが言うとおり人間は死んだら終わりだが、人間社会はそうはいかない。現代経済の罪は重い。だが、逆説的に言えばいまの日本はそれが明確に理解できる環境にあるのではないか。

2011年4月8日(第243号)